あまりに退屈な

季節が季節をこえてゆくとは、いったいぜんたい、どういうことだね。
僕は季節に即したものしか想像することができませんから、想像の範疇をこえてゆくには、季節そのものが季節をこえてゆくさまを、想像なんていう不確かなものなしに、むりやりに言葉で遊んで、現れ出でるのを待つしかないということなのです。そこからようやく現実の皮を一枚いちまい剥いでゆくんですよ。とっかかりには爪を立てるしかない、それはあまりスマートとはいえないやり方だけれど、ともあれ最初の手がかりは必要なんです。
するといま、ここはどんな季節なのかね。
そうですね、いま僕たちがいるこの場所は、未だ季節がありこの場所が彼のそれと似たような構造を持つ空間のなかに確固たる位置を占めているという、後に崩される前提のもとで言うのならば、まずはそれを、からりとした、日射しの強い夏の昼下がりということにしておきましょう。
わかった、そう言われるとなんだかそんな気がしてきた。暑いね。
そうでしょう。
助かったよ、私は蒸し暑いのは苦手でね。先日ある東南アジアの国へ旅行に行って、私はその国をたいそう気に入りはしたのだけれど、たったひとつ文句をつけるところがあるとすれば、その蒸し暑さだったものでね。私たちがいま座って話をしているこの国だって似たようなものなのだけれど。
あっ、そこまで規定してしまうんですね。正直なことを言えば、僕に主導権を握らせてくれるのかと思っていたのですが。これでずいぶんと制約を受けることになってしまったじゃありませんか。
そうかい?しかし、あとでいくらでもひっくり返せると言ったのは君じゃないか。
まあ、できなくはない、という程度のものですから。とはいえいちど規定してしまったものは仕方ありません。それにいまは立ち上げの段階ですから、彼としても文句を言う筋合いはないでしょう。
それなら良いのだけれど。私としても彼からひどい扱いを受けたいと思っているわけじゃないしね。
そのあたりは分かってくれているとは思うのですけどね。いかな僕たちが分身に過ぎず、そこに他者が現れていない、これから先も現れるかどうかは怪しいとはいえ、彼の未熟さは、冒頭からのネタばらしだけで十分というものです。

都市

三次元的に入り組んだ石造りの城塞都市がある。どの通りもせいぜい人がすれ違えるほどの幅しかなく、道なりに進んでいるといつの間にか先刻は見上げていたはずの渡り廊下を歩いていたりする。今日あった道は明日にはない。街で最も頻繁に出会う職業は大工と左官で、しかしみな死んだ魚の目をしている。私はこの街の郵便配達員で、今日も抽象究まる住所の記された手紙を左手に困惑している。そもそも番地などというものを置くことのできない都市であるのだから、そんな状況は毎度のことで、それでもどうにかやってきた私は、いまもこの都市で暮らしている。どこから給与が出ているのかは知らない。具体的な順路、つまり相対的な位置が書いてある場合はまだよいのだけれど、差出人が独自に絶対的な座標を書こうものなら私はそれを一日がかりで解読しなければならない。解読できたと自信を持てたことなど一度もない。差出人も受取人も、そんなことはどうでもいいらしい。それでも給与だけは毎月出ている。繰り返そう、どこから出ているのかは知らないのだ。

そして今日も駆けずり回った末、きっとここだと見当をつけた、石壁に空いた尖頭アーチの向こう。くすんだ色に染められた絹で木目細かに織られ、複雑な模様をした、薄く大きな布の向こう。扉などない、たった一枚の布に隔てられたその先で、千夜一夜物語に出てきそうな(私はその本をどこで読んだのかは知らない。住所として知ったのかもしれなかった)半裸の女性がベッドに腰掛け、蝋燭の光に照らされながらこちらを見透かしている、そんな予感がする。

夷狄を待ちながら

先日から気になって仕方がないのだけれど、いつも彼はどうしてあんなに平然としていられるのだろう。冷徹である、と言ったほうがより正確かもしれないが、それは私の感情に寄り添い過ぎた感想で、せめてもう少し客観的な言葉を、と考えれば「平然」ということになるのだろう。
はじめて彼と出会ったのが一週間前、その冷徹さ(結局こちらを使ってしまわなければ記述が進まない)に触れたのが三日前。ここでその詳細に立ち入るのはよそう。理路が想像できない者に相対すると人は畏怖を感じるものなのだと私は信じているから、まさにその実例に出会ったということかもしれない。相手が狂人でなければ、私にとってそれが初めての対象であった。
私にとっての数学者とはたしかにそういうものに近かったとはいえ、それでも私はその適用範囲をひどく狭いものとして考えてしまっていたのかもしれない。理性しかない人間だからといって畏れる・恐れるべきものではないはずなのだけれど、それは私がしんからそのようである人間を知らなかったからだ。人間とは混乱していてしかるべきで、つまり感情とはそういうものだと言ってよく、それを「混乱」と称するのは一種の自虐であろうと思っていた。混乱というものがすくなくとも私に感じ取れる範囲で存在する人にしか触れたことがなかったのは誠に私の不徳の致すところ。
ともかく、私はその演繹の根さえも関知することのできない理性があり、私には論証の朧気な全体像さえ掴めないとなれば、私にとることのできる状況はあまり多くはない。そして私はその中でも最悪の方法をとろうと決めた。まさに今決めた。身体をい訴えかけるのである。それは広義の拷問だ。

あれからさらに一週間が経った。つまり彼と出会ってから二週間ということになる。人間理性とはたやすく敗北するものではない。少なくとも私にはそれが分かる。彼が口先だけで私を納得させ、結局のところ彼の論理に服従させようとしているのだと、私は知っている。だから私は彼に責め苦を負わせる。しかして冷徹に見えるのはむしろ私のほうなのかもしれない。表層の権力関係を崩すことは私の目的ではない。容易いことだと言うつもりはない。ただ感情だけでそれを遂行してしまっては精神的には彼の下僕となってしまう。古来から権力関係たるものはすべて理性から生まれてきた。これは理性と理性とのたたかいで、演繹の根を感情に求めることだけで私の目的が達成されるわけではない。彼のいちばんの弱点とはなんだろう。彼に肉体があることだろうか、おそらくそうではない。それはこの拷問の初日に知ったことだ。私としたことがあまりに思慮の足りない人間であったと認めざるをえない。彼はそれくらいのことはしっかり超越しているのである。べつにたいしたことではなくて、自殺者が年に何万といるこの国でそんなことは珍しくもなんともない。

祖父について

実家に帰りそのまましばらく滞在しているため、ここ2ヶ月ほど祖父母とともに居る時間がとてもとても長うございます。今日はそのこと、というか、なかでも祖父のことについていくらか喋ろうと思っております。


前提は以下の三つ。

  • 私の家では父母が共働きでしたから、学校から帰ってきたときに家にいるのはいつも祖父母でした。僕が物心ついたころには祖父はもう退職していましたから。ですから、僕は祖父と一緒にテレビを観たり、風呂を焚くのを手伝ったりしていたような、爺ちゃん子、婆ちゃん子だったのです。きっと、今でもそうです。
  • ここ数年で祖父はすっかり耳を悪くしてしまい、そのくせ補聴器をつけることを嫌がるせいもあり、あまりうまくコミュニケーションをとることができません。また、最近ではすっかり体力も落ちてしまい、トイレに行って帰るだけでゼイゼイと肩で息をしています。元気がなにより自慢であった(僕がまだ幼いころには裏山に登り杉の木の枝打ちなどしていたことが思い出されます)祖父にはきっと辛いことでしょう。
  • 祖父と父はあまり仲がよくないようです。最近まで知らなかったのですが、父(末っ子長男)はどうやら、若いころは県外で働いていたものの祖父に(どのくらいのものなのかはもちろん分からないのですが)強いられて実家に帰ってきたようで、そのことについてなにか思うところがある。端的に言えば、確執がある。そんなことを仄めかすことがあります。


そんな状況で実家に帰ってきた僕ではあるのですが、祖父母といっしょに炬燵に入っているとどうしても祖父の小言などを聞かざるを得ないわけです。もちろんそれを聞いて祖父とはどんな人なのかを知るというのを目当てのひとつに帰ってきたのですから、僕としてはそれを聞くことにやぶさかではありません。

さて、祖父の話すこと。

  • 祖父は(歳をとったら誰だってそうなんでしょう)いつも、昔の自慢話をします。いかに自分が働きお金を貯めたか。いかに自分が元気であったか。それによっていかに友人たちから賞賛されたか。たしかによく頑張っていたのだとおもいます。昼間に働いていた祖父を曾祖父はさらに朝など畑仕事に行かせたことなど、いろいろ苦労したのだと。きっとその通りなのでしょう。
  • 父を故郷に帰らせたこと、そのおかげで今の職を得て安定し嫁さんも貰えたんだと、祖父は言います。父がどう思っているのか、普段の彼の言動を聞くかぎりではその通りに感謝しているとはとても思えませんが、それは父だって、きちんとそのことで話し合ったことなどないのでしょうし、僕が想像しても詮無いことでしょう。そういうものなのでしょう。
  • ちょっとだけ悲しいのは、祖父がそうやって昔の話しかできないこと。いまはもうほとんど動けないくらいに衰えてしまい今の自分について何も語れない代償なのだろうか、と考えてしまう理路そのものが怪しくもあり、それだから下らないと言い捨てようとも思わないのですが、悲しくはあるのです。
  • 先日、僕が東京に行ってしまうことに対して「そのうち爺さんがゆうとったとおりになったのう」と後悔するときがくる、との言葉をいただきました。「わしのゆうことはひとっつも聞きゃあせんけえのお」との言葉をいただきました。故郷に住み働くべきだと小言を言われてしまいました。もちろん僕にだって言い分はあります。しかし、これだって、そういうものなのでしょう。祖父と僕が見てきた世界はおそらくおおきく違っていて、いまさらどれだけコミュニケーションがとれたことでその溝を埋めることはできないのだろうなと、手前勝手に諦め聞き流す。それは祖父をたいへん馬鹿にした態度なのでしょうね。

今回こうして事実を整理もせずに並べたててみて、いったい何が言いたかったのだろうと思ってみるに、僕にとって「老いること」は、まったく不透明で不条理に忍び寄る、とても恐しいなにものかなのだということです。祖父を貶めるようなことばかり言ってしまったかもしれませんが、それでも僕が祖父のことがやはり好きなのです。だけれども、「こんなふうになってしまうのだろうか」という恐れがある。


老いることとは、忘れ、衰え、鈍く頑なになることだけではなくて、尊敬すべき部分も増える(最低でも時間に対して線形に。それらがどんな経験でさえ。)ことでもあるはずです。僕だって成長くらい、したい。それなのに父や祖父を見て肯定的に「こんなふうになれるのだろうか」と思わない。それは、肯定的なものならば「こうなりたいからこうする」が分かってきた、選択できると考えるようになってきたからなのかもしれません。出来そうもないならそれでよいと思えるようになってきたからなのでしょう。かたや否定的な面については、これはべつに祖父や父に限らず、誰だってなりたいと思ってなるわけじゃないから、つまり、どうしてそうなってしまうのかが分からないから恐しい。

死ぬことはそれで消えてしまうことです、それ以上自分というものが変化することはありません。でも老いること、ないしは「大人になること」というのは、いつだって恐ろしいことなのです。明日にはもう、いつか感動したあのお話は遠く離れてしまっているかもしれない。僕の言うことは、僕の共感する彼に通じなくなってしまって、それを当然と思うように、彼を見下すように思って、また彼に見下されてしまうのかもしれない。それが老いることだと僕は思っています。間違っているのかもしれない。きっと間違っているのでしょう。でもすくなくとも今の僕はそう思っていますし、それは経験によってしか変化し得ない。再帰的にそれは老いることへのイメージと重なってしまう。僕はきっと父のように祖父のようになって"しまう"。愛すべき、そして軽蔑すべき父と祖父のようになってしまうのでしょう。そのときにはきっと、祝福してください。

自転車で帰省した話(まとめ)

というわけで、箇条書きで。

  • 気力体力よりも計画力判断力
    • 競技じゃないんだから体力はそれほど要らない。。
    • 気力なんてものは「いまから自転車で○○へ行きます」とtwitterに書くなりして背水の陣を敷くだけで済みます。
    • バイパスをいかに避けるか、起伏はどうなっているのか等々を調べ、綿密かつ柔軟な計画を立てることのほうがよっぽど大事だと感じました。
      • 国道標高図やナビタイムの自転車ルート検索にはお世話になりました。
      • 今回は(金銭的な制限はあったものの)時間が制限されていなかったため無理をする必要がなく、それほどシビアな判断力は要求されなかったけれど……
      • 場合によっては「きちんと諦められる」というのが重要なんだろうな、とか。
    • 無計画も計画のうち、みたいな話もあるけれど、そのあたりの見積りも含めて。
  • 装備の話
    • 野宿するかしないかでずいぶん変わってきますが……
      • 当然と言えば当然なのですが、ネカフェであれ宿泊施設を利用するのなら、同じ距離を移動する電車を使うよりも時間だけでなく金もかかります。
      • 今回は荷物の量、季節等を勘案した結果、野宿案は却下されました。
    • 輪行袋を持って行けばよかった。
      • 観光の際のフットワークが軽くなるはず。
      • フェリーに乗るのも安いですしね!!
      • というか、(なんと言ってもこれなんですが)最悪の場合輪行袋なしでは面倒なことになる。
      • 結局なんとかなったものの、背水の陣もほどほどにしましょう。
    • 雨具もあったほうがいいのかなーと思ったけれど、持って行かなくてもなんとかなった。
      • 日本にはコンビニがたくさんある。
      • これも雨の日は休むという選択肢があったからそれも可能だったという話。
    • 工具とチューブは持ってった。
    • ライトは明るいに越したことはない。
      • 都会でばかり乗ってるとそのへんの感覚が麻痺する。
    • このへんも計画力の話ですかね。
  • 道と自動車は基本的に自転車に優しくない
    • 日本みたいな起伏の激しい土地で自転車に乗って長距離を走るという選択そのものが間違っているのです。
      • 自分探しの若者やキチガイ旅行者たちに配慮してくれるわけがなかろうて!!!!
    • 歩道はやっぱり危なかった
    • 左折車線のある道での直進はいろいろ難しい
      • 場合によっては自転車を担いで歩道橋を渡ることも辞さない
  • 漕ぐなり押すなりすれば進める
    • 何はともあれ脚を動かせば前に進む、という事実は箱根越えにおいていちばんの心の支えとなりました。
      • 人生ですね。
    • はじめのうちこそ自転車を漕ぐことそのものが楽しいと思うかもしれませんが、そのうちそういった意味らしきものはどんどん剥がれ落ちてゆきます。
      • 人生ですね。
  • 何が得られるのか
    • 何も得られません。
      • というのはさすがに露悪に過ぎるか。
      • 実際のところ、都市工学的な興味は満たされたと思う。しかし……
      • まさかとは思いますが、実存的な問題が解決されるなんて、そんなこと思ってらっしゃらないでしょうね?
    • 何をしてもそこから何かを得られる人になりたいものですね。
      • 家で本を読んでたほうが有意義だっていう場合もあるでしょう。
      • しかし君がブロガーならエントリを書くことができる!!!!!!!!!!


……だんだん話がキナ臭くなってきたので、これまでのエントリへのリンクを貼っつけて終わりにします。


なんだかんだ言っても楽しかったですよ。道路ってほんとに繋がってたんだなあ、とか思いました。おしまい。

自転車で帰省した話(11日目)

10月27日。

今日は姫路からついに岡山へってことで、前日からわりとしっかりとした計画を立てていた。今までしっかりとした計画を立てていなかったのかといえばそういうわけでもないんだれど、だんだん慣れてきたっていうのもあるのだろう、2号179号県道725号で2号戻って揖保川渡って相生まで、そこからは250号で、みたいな、久々にバイパス回避計画の情熱を胸に秘め寝て起きて10時半くらいに姫路発。

ともかく、相生まではまずまず快調だった。膝は相変わらず痛いけれど、尻の痛みと同様にもはや日常の一部になっていたし、そんな上りがあるわけでもない。太子町っておいそうかモロに聖徳太子の太子なのかと考えるくらい余裕。いくらか道路を乗り換えるので迷ってしまわないだろうかという前日の不安もなんのその、といった感じ。20kmを1時間くらいで来られた。

でもって相生まで来てここから国道250号へ抜ける……んだけど、ここで道に迷ってしまう。まさかここで迷うとは予想していなかった。詳しく説明しようとすればGoogleMapsと顔つき合わせる必要があるのでしませんけれども、高取峠(相生市赤穂市の市境)を越える250号とは線路を挟んで反対側を進んでしまい、気付いたときにはその先で線路を渡る道もないようで、そこらへんを歩いていたおっさんに道を聞いたらけっこう逆向きに進まなきゃいけないらしいとの話。うわあ面倒臭いと思いながらも渋々戻ったのだけれど、その戻る先をさらに間違えて、250号ではなく旧街道の非舗装路へと続く道に入ってしまう。どうしたものか短気になっていたもので、もういいや地図見るかぎりじゃこちらも道繋ってるっぽいし狭い路肩を怯えながら上るよりも獣道みたいなところを押して上ったほうがマシだろという言い訳にもなっていない言い訳をして進む。ガッタガッタして苦労しながらなんでこんなことしてるんだろうと思いながらも今更引き返すわけにもいかずなんとか高取峠を越えるところで250号に合流。やっぱり狭い路肩を窮屈な思いをしながら、しかし今度は勢いよく下ることができた。そいでもって千種川沿いを行き播州赤穂駅横のすき屋で昼飯にしたときには13時前。予想外のところで手間取った感じがする。

飯を食い終わり再びひょこひょこと国道250号を進む。ここまで来れば長かった兵庫県もあと少し、あきらかに県境となっているとみえる小高い(たいしたことなさそうな)峠を目の前にして、もはや漕いで上がる根性もなくなってはいたけれど(膝痛いしさあ!)、それでも「ついに岡山県か!」と気持ちが逸る。そうしてまさに県境、停まって、岡山の青空を見上げ、「俺は帰ってきたぞ!」と叫んだ。いや、ほんとに声に出して叫んだ。でもまだ帰ってきたわけではないんだよ。


そこからいかにも港街といった風情の日生を(カキオコ食いたいけどさっき昼飯食ったばかりだし時間もったいないなあと考えながら)過ぎ岡山市に向かって走る。備前市の後半は相変わらず(というかこの日はずっとそうなんだけど)路肩の狭い片側一車線ではあるものの、交通量についてはそれほど多くはなく、それでも通る車通る車トラックだった。結論としてはなんだかんだで走りにくかった、くらいの記憶しかないです。風景はほんと田舎道といった風情でござった。なんか「走りづらかった」ばかり言ってるような気がするけれど、たぶん走りやすい道のほうが少ないんだもの!仕方ないじゃないですか!

吉井川を渡って岡山市に入ったのが15時半くらい。相変わらずの路肩の狭さに加えて交通量が増えてきたのに辟易しつつも、もはや消化試合みたいな気分にもなってきていたはず。だってもう、ここまで来たら勝ったも同然でしょう目的地たる岡山駅まで20km切ってるしとやる気があるんだかないんだか益々もって無感動に進む。いやほんとは稲刈りで藁を積んでる風景などに感じ入らないこともなかったのだけど、すくなくとも自転車を漕ぐということに関してはもうずいぶん前からどんな気持ちも僕のなかに起こすことはなくなっていたわけで。……いや、そんな話はまたまとめエントリで書きます。

といったわけで岡山駅に着いたのは16時半くらい、85kmの道のりでした。


***


面倒なのでついでに最終日のことも書いてしまいます。10月28日。私の実家は岡山からさらに数十km行かなきゃいけない、つまり帰省はもう一日だけ続くことになるのですが、先ほども申し上げたとおり、その道のりについてはだんだん無感動に、そしてだんだん記憶が薄れていっております。したがってもうこの最終日というものはここに書き記すようななにものも残っておらんのです。

いや、全くないことはない。たとえば幼少のころから何度も何度も親の車に乗って通った岡山への道を逆向きにトレースした印象とか、それと並行する見慣れたJRの駅々を眺めた印象だとか、狭い二車線で路肩がなくて歩道ももちろんなくて「死亡事故多発!」とかいう看板はほんとやめてほしいってこととか、小さい頃はあんなに広かった実家のある集落を自転車で通ってみるとなんだかすごく狭く感じたこととか、そしてなによりも、もういいよね私頑張ったよねもうゴールしてもいいよね状態だったのにいざ実家まで手の届く距離になり見覚えのある景色や地名を目にするようになってくるにつれカエリタクナイカエリタクナイっていう声が頭ん中で踊りはじめて向かい風が強くなってくることとか、そういうことはあるにはある、あるんだけれども、それはもはや、ここまでとは違ってまったく輝かしい思い出ではない、今こうして考えてみると、それまではいくらか、輝かしいなにものかであったような気がする、のだけれど、それなのに、その道がついに実家に続いていることに気がつくこの一日のことを思い出してみると、いったいこれはなんだったんだ、そういう気持ちが否定できなくなってきて、従ってこの記録はここで唐突に終わる。