M-Series - Maurizio

HDD中の音楽ファイルをランダム再生して、最初にかかったその曲の入ったアルバムを評してみようという企画。第2回。

M Series (Reis)

今回はBasic Channelで(一部の人に)おなじみ、Moritz Von Oswald と Mark Ernestus によるユニットの、これまたおなじみのM-Seriesを収めたCD。このあたりの音楽事情にはなんだかもうかなり疎くなってしまっていて、恥ずかしながら現在はどうなのか分からないのだけれど、やっぱり今でも語り継がれているのだろうか。オリジナルの12インチはもう10年以上も前のもので、ミニマルテクノの祖というか、そもそもこのあたりの、ぶぅわぁーっとわけも無く広がる電子音楽とその周辺の一つの源流と言えるというのが大方の評価。らしい。

ミニマルな音楽というものにもつイメージは人それぞれで、ライヒやラ・モンテ・ヤングあたりを想像するようなある種まっとうな人もいれば、リゲティを想像するスペースオデッセイな人もいるだろうし、もちろん今回紹介したMaurizioやリッチー・ホウティンあたりを想像するろくでもない人間もいるに違いない。中には大友良英Sachiko MによるFilamentみたいなのがミニマルだと思う人もいるかもしれない。あ、ジャーマンプログレが好きです、なんて人も。
こうして見てみると(などと書いてると、いわゆる現代音楽におけるミニマリズムとミニマルテクノとは明らかに区別されるよね、とか、ニューエイジ系ってどうこう、などとツッコミが入るかもしれないが、ともかく今回は大目に見てくださいな)こういった音楽における「ミニマル」と言われたときに共通に思い出されるのは「つまらなさ」「ストイックさ」なのだろうと思う。

そもそもどうして僕たち(無駄に一人称複数)はこんなつまらないものを、極端に刺激の少ないものを面白いと思うんだろうか。

人によって答えは様々だろうが、一つの結論(一つの極論?)として、こいつはある種のマゾヒズムによるものだよなという確信めいたものが僕にはある。

この焦らされる感覚というか断続的に変化していく様が、もうたまらなく、早く私にお仕置きしてください女王様、みたいな感覚にされるからじゃないか。本当は大きな変化を待ち望んでいながらもそれを意識することが禁じられているような抑圧の状態であるとか、もしくは知らぬ間の変化に気づいたときにゾクッとさせられる感じだとかいうのはやはりそうだし、なんと言っても一番素晴らしいこと、つまり、こういった音楽を聴いているときの隔絶感と聴いたあとに現実の世界へと戻ってくるときの感覚というのも、もちろんその一種だ。欠如というものをこれほどくっきりと浮かび上がらせる手法というのは他に類を見ない。なんたって欠如そのものを表現しているのだから。

フラグメンツ (1) (Big spirits comics special―山本直樹著作集)

この辺の感覚は山本直樹の「フラグメンツ」に収められた「夕方のおともだち」に詳しい、気がする。たぶん。

そういった中途半端なところで最後に自分語りをして終わるのだが、僕の場合その確信が逆に邪魔をしてしまったのか、ミニマルな音楽というものからしばらくのあいだ身を遠ざける結果となってしまったのでした。
ともかくこれは極北である。ご用心を。