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見えない都市 - イタロ カルヴィーノ

昔メモしていた短い感想をちょっとずつ膨らませてて残していこうと思う。今回はカルヴィーノの「見えない都市」。


見えない都市 (河出文庫)
マルコ・ポーロ(だと思われる「語り手」)によって華麗に繰り広げられるあらゆる「見えない都市」についての叙述は、「死者たちとすれ違う都市」「名前の上にのみ育つ都市」「蜘蛛の巣都市」等々、そのほとんどが実在し得ない都市についてのもので、すべての都市を何らかのメタファーとして読みとく事だってできるだろうし、そうではなく、書いてある通りそのままのファンタジーの世界の物語として読むこともできる。こうしてそれらひとつひとつの語りは、あらゆる読者にとって*1多様な意味を含ませ得るだけの強度を持つことになるのだ。
けれどもどうやらそういった叙述は、各章の最初と最後に出てくるポーロとフビライとの都市そのものをめぐる対話に仕えているのではないかと僕には感じられた。とんちの問答みたいな二人の会話が、「体験される都市」と「イメージされる都市」についての(やけに詩的な)批評になってるんじゃないかと。

たとえばこうだ。

 ……まだ東方にやって来たばかりで少しも言葉の通じないマルコ・ポーロにとっては、鞄のなかから太鼓とか塩辛い干物の魚とか疣猪の歯の飾りとかの品物をとりだしては、とんだり跳ねたり驚きや恐怖の声をあげながら、身ぶりよろしくそれらの品をさし示し、山犬の吠え声や梟の鳴き声を真似てみせる以外に言わんとすることをあらわすことができなかった。
 物語の要素の一つ一つのつながりは皇帝にとって必ずしも自明であるわけでもなかった。それらの品々はさまざまな事柄を意味することができた。矢をいっぱいに差した箙は、ときには戦の間近であることを、ときには狩の獲物豊富であることを、またあるいは武具商の店を示していたし、砂時計は過ぎゆく時もしくは過ぎ去った時を、あるいは砂を、さらにはまた砂時計を製造する工場をあらわにすることができるのだった。

都市は、グロテスクな建築物や曲がりくねった道、窓から跳び降りる猫、吐き気を催す空気、かわいらしい女の子、互い違いに着色された石畳・・・といったあらゆるものから複雑に構成されており、そこからはどのような意味を絡めとることもできる。たとえそれが正反対の意味であろうとも。ある空想の都市についての語りはあらゆる実在の都市の語りとしても成立しうるし、ある実在の都市を語った途端にそれはその実在の都市からは遠く離れた空想の都市のものとなり、そこからは無数の物語が流れ始める。このような多義性あるいは非局所性が、ポーロとフビライのあらゆる語りの根底に現れているのだ。


結局ここでポーロの語った都市とは、何かの警句を含んだおとぎ話ではない、ニューヨークだったり、京都だったり、リオデジャネイロだったりする、僕たちに無関係でない実在の都市の、ある一面だったのかもしれない。あたりまえのことだけれど、こうした語りだってその多様性の一つの形だし、この語りは他のあらゆる語りへと外延していく。
都市と言葉。

*1:そしてもちろん一人の読者だけを取り上げたとしてもやはり