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百年の孤独 - G・ガルシア=マルケス

今年が2007年なのか2008年なのか2009年なのかあまりよく飲み込めないまま新年も10日ばかり過ぎて、いったい平成何年なのかということにいたっては、尋ねられてもいまだ阿呆のような顔をするしかいない状態です。それでも日本人なのか。誰か元号と西暦のうまい変換方法を教えてください。いつも混乱してしまうのです。1945年の終戦が昭和何年なのか未だに覚えらんないんです。

・・・と、そんなことはどうでもよくて、今回は名著と名高いマルケスの「百年の孤独」。
百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
ここにあるのは、ひたすら横滑りしていく語り。登場人物はすべて、人間がどうやっても離れることの出来ない「血」というもので結ばれている。にもかかわらず、彼/彼女たちはすべてがやはりみな孤独に生まれ、孤独に生き、孤独に死んでゆく。ばらばらに生き、それでいて一つの方向へと運命付けられている。
おなじ地縁と血縁にもとづく物語であっても、フォークナーや中上健次が個々の登場人物の同じ血縁の中での微妙な差異を執拗に描き出そうと、地面にこびりつく菌糸のようにみっちりと水平に物語を編み上げ、ときに積み重ねていたのに対して、マルケスは、アルカディオとアウレリャノという二つの名前に代表される何人ものブエンディア家の男たちのそれぞれの違いよりもむしろ血縁であるがゆえの同一性に重きを置くことによって、ウルスラをはじめとする強い女たちを柱とするうつくしい螺旋を描き出そうとする。孤独であるがゆえにこれだけうつくしくみえるのかもしれない。
物語ぜんたいを通しての矛盾だとかそれぞれの登場人物の時間的空間的なちがいはとうとう問題でなくなり、各々の瞬間ごとの語りによって外延的にひとつの物語がつくりあげられ、そしてついにふたたび解体されるさまは、いま思い出しても鳥肌もの。物語が真に「語られる」ものであった時代はとうに過ぎ、それが小説というナイーブな媒体に取って代わられて久しいが、この物語はその「語られる」べき物語としての強度を恐ろしいほどつよくつよく保っている。

それにしても、こういう小説ではほぼ例外なく男よりも女のほうが「しぶとく」描かれているように感じるのは、僕が男だからなんて簡単な理由だけじゃないよなあ。