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鏡のなかの鏡 - ミヒャエル・エンデ

カシオペイアの背中の「オワリ」の文字にすごくほっとして、でも、終わってしまったことが惜しくてたまらなくなったあなたに。バスチアンが泉で真っ裸になってることがどうしても気になって仕方がなかったあなたに。


鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

「モモ」にしたってそうだし「はてしない物語」にしたってそうだけれども、想像力を激しく喚起する何かがこの人のつくる物語の中にはあって、それはこういったシュルレアリスム絵画を直接に連想させるようなこの作品にあっても変わらない。これらの作品に記されているような事柄、人々について全体像をくまなく想像するのなんて不可能だ。それなのに、ごく細部のみであったり、逆に、おぼろげな全体像だけを想像させられるし、実際に想像させられた結果というのが異常に説得力を持つ。
そしてそれにわくわくさせられたりどきどきさせられたりはらはらさせられたりするんだけれども、この「鏡のなかの鏡」ではそれが「ずきずき」になっている。


筒井康隆とかもそういうのが得意そうなイメージがあるんだけれど、あそこまで「不快」という感情の持つ刃物のような鋭さを直接に振るってきたりはしない。よくあるじゃないですか、旦那を殺すには、検死で検出できないくらいに微量な毒物を毎日の食事に盛り込めっていうアレが。そういうのに似ている。なんだかおかしいな、とか思うのはきっとこの本を読み終わってしばらく経ってからのことで、下手すりゃその違和感がこの本の影響だなんて気づけないかもしれないくらい。視界の片隅のほうで、気づかれないように、そっと、現実がほころび始めるどっしりとした怖さみたいなもの。

僕は、小説というもののもつ「すごさ」のひとつとして、読者を理不尽に、真に不愉快にさせる力というのがあると思うのです。自分の中にひそむ嫌悪を文章というものが純化させ、反射するという。これは他のどんなメディアもかなわない。視覚にも聴覚にも頼らないからこその力。

そして、この小説も、その力をもつもののひとつ。たぶんね。