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サルトルなんて読んだことありません

先日から述べておりますとおり,目下僕の憐憫の情というものの9割はゲロに向かっています.お酒に弱いがついつい調子こいて飲んでしまう(そして誰からも誘いがこなくなる)僕のような人間からすればとっても身近な存在であるこの反吐というものが,あまりに軽んぜられているのではないかというのが本日の論題なのです.
アイドルがうんこしない世界がスカトロジストを除くすべての人類にとって望むべき世界の表徴であることから示されるとおり,うんこというものは我々人類の思念のうちに大きな役割を占めているわけなのです.僕たちが小学生の時にうんこうんこ言って喜んでいたことをよく思い出してみてください.そこにはうんこというものの持つ絶対的な「汚さ」への信頼があったはずです.その点では確かに,たかが吐瀉物ごときで偉大なる大便様に太刀打ちできるはずがない.


しかし,です.吐くというその行為を経験したことのある皆さんならご存じの通り,嘔吐は二つの苦しみの形態をもってそこに現れます.僕はそこに,嘔吐にシンパシーを持つものの一人として大きな希望を見いだすのです.
その希望とは何か.
まずひとつは,意に反しながらも,恥知らずな欲望の巣窟である我らが胃中いっぱいに溜め込んだ醜い混合物を解放するという,その絶え間ない責め苦と悦楽.肛門期の再来.
そしてまたひとつは,空虚な我々のはらわたから,それでもそのはらわた自身が,なお何かをemitしようとする,表現の苦悩にも似たその作用.ある人は思春期の自涜行為を連想するかもしれません.
これらの苦痛は糞便にはないもの,嘔吐にしかない悦びの源であると信じてなりません.そこには我々の身体に宿るバートルビーの姿が見え隠れします.「そうしない方が望ましいのです」という,我々自身の信念を実存を内から脅かす消極的な不条理のメタファーとなっているのです.

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※要加筆