ハローサマー、グッドバイ - マイクル・コーニイ

お話のオチというのは(もちろん不可欠ではないにしろ)時には大切なもので、そういうものを書いたり喋ったりする人はまさにそこに向かって全てをチューニングしていくわけだ。そういう意味でまず、おすすめなSF小説なのだけれど。

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

だからといって彼らがそのオチへと向かう完璧な流線型を目指してお話をしているかといえば、たぶんちがうよな。だからこのお話だって、ビルドゥングスロマンとしての側面がただの肴になっているなんてことは全然ない。

だのにネット上の感想など読んでいると、この素晴らしき青春恋愛SFの「SF的」部分にはいろいろ言及するいっぽうで、「青春恋愛的」な部分には言及してくれない。これを読む層がそもそもSF読みのひとたちなんだというのもあるんだろうし、やっぱりちょっと恥ずかしいことなんだろうか。でも僕は思うんだよ、SFが面白い理由の一つに、SFという枠の中に入れてしまえば恥ずかしいことだって出来てしまえるってことがあるんじゃないかと。


というわけで、僕が幼い日の恋について語ってしまう今日この頃。

何にそんなに感じ入ったのかといえばつまり、大好きな女の子と僕以外はみいんな敵なんだということ。おおきな世界の外枠なんて関係なしに、僕とあの子二人だけで生きる小さな閉じた世界がどんなにいいものかと想像すること。

終始しつこいほど感じる搾取するものとされるものっていう構図にたぶんたいして意味はないんだろう。というのは、実は主人公ドローヴにとってそういった構図はあくまでも大好きなブラウンアイズとの関係を阻む障害以上のなにものでもないのだから。ドローヴの感じる誰か他の人に対しての評価のなかで、明らかにブラウンアイズに対してのそれ「だけ」がはじめからおわりまでブレずにいることが何よりの証拠ではないか。

ちょっと突き放した言い方をするならば、その物語が読者に対して何を裏切り、何を裏切らず持ち続けるかということはその物語の印象に強い影響を与えているはずで、僕にとっていちばん印象を深くするであろう選択がこの物語ではなされていた、それが嬉しかったってことになるのだろうか。


それにしても、僕だってあのいつの間にか遠くなってしまった夏の昔に、ほんの1か月、ほんの1週間、ほんの1日、ほんのひとつの瞬間にも、あんなに成長していたってことを自覚していたというのに、今になってみるとちっとも変わっていないんだもんなと思わせられたのには困った。痛気持ちよくて困った。

きっと僕のなかの一番大切な部分だけがあの頃の僕の中にもういちど入っていったとしても、やっぱり同じ恋をしてしまうんだろう。頭の中身をほんの芯だけしか残せない意地悪な人生やり直し機があったとしても、たぶん全く同じ、今ここに戻ってくるしかないんだろう。ネガティブなのかポジティブなのかよく分からんけれども。

外側の世界がすっかり変わってしまいそのうえ外側の世界が僕の閉じていた小さな世界と深く関わるようになってきたせいで、自分が成長したんじゃないかという錯覚に陥ってしまったんじゃないかと思っている。



そんなとき誰かが僕の部屋の扉を叩く、そういえば何かが頭の中にひっかかっている。なんだろう。はっきりしない既視感のようなものがいつも居座っていた。

「誰か」が僕の部屋に入ってくる。僕は気づく。僕はそうやってループしていまもまた