ロリータ - ウラジミール・ナボコフ

偶然及び必然の一致で悦に入りフロイト的なものを小馬鹿にした態度に溜飲を下げアメリカが逆立ちしてだからこそアメリカらしく迫ってくる様におののき、主人公ハンバート・ハンバートの自分語りにこめかみをぴくぴくさせられながら読みました。

ロリータ (新潮文庫)


ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1973〜95年のモンターニュ派の代わりに1848〜51年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の元帥たちの円卓騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉たちを手当たり次第にかき集めて引き連れたロンドンの警官!天才のブリューメル18日の代わりに白痴のブリュメール18日!そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目はフランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者拘留所に入る瀬戸際だった。あのときは列強の連合が国境にいたが、――今度はルーゲ=ダラシュの連合がイングランドに、キンケルブレンターノの連合がアメリカにいる。あのときはサン・ベルナール峠を越えなければならなかったが、今度は一個中退の憲兵隊をジュラ山脈を越えて送り込まなければならない。あのときはマレンゴ以上のものを獲得しなければならなかったが、今度はサン・タンドレ大十字勲章を獲得し、『ベルリン国民新聞』の尊敬を集めなければならない。
人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役にたてようとし、その名前の、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとするのである。

カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

よろしい、我々はここにもう一つの症例を付け加えることができる。すなわちハンバート・ハンバートの代わりに我らロリコンども、を。ハンバート・ハンバートはあまりに偉大な悲劇であった、そしてその愛するニンフェットの名を冠した我々は、見よ、どれほどみじめな笑劇を日々演じていることか。そして我らロリコンは自身の帝国を打ち立てるやいなやその冠したる名をみずから進んで刈り取り、新たな言語を獲得しその言語で思考することを獲得しついに母国語を忘れるようになったときのように、ロリコンという肥大化した自意識がその王座に居座ることとなる。「ロリータ・コンプレックス」としてこの小説の題名でありもう一人の主人公の名であるこの語を蘇らせたのは、したがって社会に対する我らの現代的な自意識、自己愛と自己卑下にみちた自意識を称揚するためであって、ここに登場するハンバート・ハンバートの感傷のパロディを演じるためではなかった。

いや、まだこれでは生ぬるい、こう言い切ってしまおう。ハンバート・ハンバートはこの小説の中で二度語られ、それによって偉大な悲劇であると同時にみじめな笑劇であり得たのである、と。一人の男と一人の少女の物語であると同時に、一人称の語り手としてハンバート・ハンバート自身がその男の物語を語り直すことによって、それは笑劇としても機能してしまったのだと。

ここでついにロリコンどもはそのみじめさを重ねる笑劇になることさえかなわない存在となる。それでは我らの自意識はいったいどこへ行けばよいと言うのか。

なんだ、ロリコンとはゴミクズのことか。



えっと、何の話でしたっけ?
変態の話?
だーかーらー!
勝てないでしょこればっかりは!