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黒い時計の旅 - スティーヴ・エリクソン

一方の20世紀に生きる女と他方の20世紀に生きる男についての物語でした。
黒い時計の旅 (白水uブックス)

最初のうちから気になって仕方がなかったのは、彼らの体験のうちどれが虚構でどれが虚構でないか、どれほどの割合で虚構と現実が混じり合っているのかを、語り手は明言しないのだということ。・・・いやたしかに、二つの20世紀が交わることに全く虚構なんぞ介在する余地はないのだよ、それはそのまま現実と受け取ってよいのだよ、という考え方もあろうが、僕はそれに与しない。ここに現れる二つの20世紀の分合、あるいは交わりは、ある種の幻想であり、最終的にはおのおのの20世紀という現実と区別できるものとして登場しているのだと僕は考える。というか、そう考えながら読んだ。なもんだから以下の感想はかなりその前提に依るところが大きい。


さて。そんなわけで虚構と現実の区別あるいはその濃度が明言されないとはいえ、小説を読み進めていくのと同時進行でそれらに読者自らが区別をつけていくこと自体は実のところ、ちょっと頭を使えばたいして難しいことではない。それどころか終盤にさしかかる頃には、驚くほどすっきりとそのちがいを見渡せるようにさえなってしまう*1。しまうんだが、じゃあ一方、そういった虚構の濃度について語り手の口から明らかにされることがあるかと言えば、そのようなことは一度もないまま物語は終わるんである。

ここで描かれる20世紀は、ある瞬間に二つに分かれ、螺旋状に絡み合いながら進み、ついに合流したかに見えるのだけど、じゃあその20世紀のDNAにおける水素結合がどれほどの濃さで彼ら自身に現れ出でたのか*2ということになると、これは最後まで分からないままなのだ。そういった宙ぶらりんの状態を維持しつつ物語のそこここを繋ぎあわせていくことができるエリクソンの類い希な語りのことを指して、柴田元幸はこれを「幻視力」と呼んだのではないだろうか。それがしびれるほどかっこいい。


このように「幻想なのか現実なのかを区別することなしにそのまま物語ること」というのは、すごく大事なことだと僕はおもう。これはほんとうに、小説、というか、言葉による語りによってしか可能にならない方法なのだから*3。注意すべきことがあるとすれば、「区別することなしに・・・」というのは「区別できない」のではなく「区別に意味はないことを宣言している」ということだろう。それをふまえているからこそ、これだけの必然性をもって言葉とストーリーが組み上げられたのだから。


というわけで*4、大胆な構想と巧みな構成、なによりその語り口がほんとうにすばらしく、後半は嘆息しっぱなし、長編小説の醍醐味みたいなものをしっかり味わうことができて非常に満足な一冊。おすすめです。

*1:この過程がほんとうに楽しい

*2:つまり、二人はどれほどのリアリティをもって交わったのか

*3:そして、エリクソンがすごいのは、一人称の語りだけに頼らずともこれが実現できてしまうことを示したことだろう

*4:どういうわけだ