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京都百景

京都に住むのも残すところあと数ヶ月となってしまったのだし、少しくらいは思い出というか、どんな街だったかということくらい書き残しておかなければと思う。もちろん生まれた育った街でもなんでもないわけだから、よく知っているだなんてとても言えたものではない。だからといって部外者からの視点を提供できるわけでもなければ、名所旧跡を攻めまくったというわけでもないのだから余計いけない。私の敬愛する百鬼園先生もこう書いておられる。「だれでも知っている事を、自分が知らないと云うのを自慢らしく考えるのは、愚の至りである。そうは思うけれど、人が大勢行くところへ行きそびれて、そのまま年が経つと、何となく意地になる。そんなところへだれが行くものかと思う。」もちろんこの後にそんな偏屈をしたがための失敗談が述べられるわけだが、この気持ちはなんだかとてもよく分かる。だから僕もこんな時分から急いで行くなんてことはしないぞと偏屈になる。東京に行って京都のことを聞かれたりすれば僕だってきっと恥をかくに違いないのだけど、それは現在のことでないのだからかまわない。そのときはそのときで恥をかけばよいのだし、ここで京都の名所に屈することのほうが今は悔しい。みんなだってそうだろう?みんなだってそうだろう。
そんなわけでこれから気が向いたときにでも京都のあちこちについて、ほんとうに普通の場所について書いてやることにした。単なる思いつきだから、いつふとやる気が無くなってしまうかもわからない*1。それでもとりあえず始めてはみる。当人がよければそれでよいのである。ブログとはそういうものであろう。


さて、そうと決まればきっかけが必要だ。起点をどこにすべきかと考えながら、そういえば夏目漱石のなにかの随筆のなかで京都に来た云々というものがあったっけなどと思い出すが、いくらか本棚を探してみてもそれらしい物が見つからない。文庫はすべてスライド式の本棚の奥がわに仕舞ってあるから探すのも取り出すのも面倒だ。探して取り出してみたところで件の随筆が見つからなければ意味がない。意味がないどころかつい読み始めてしまう。はじめは本棚に寄りかかって、次には床に座り込んで、トイレに行きたくなったらばそのまま持って行って。なるほど読書というものは有害なもので、これほど場所を選ばず貪ることのできる快楽というものを僕は他に知らない。ともかく目当てのものは見つからない。仕方がないから諦める、諦めれば心の表面に鳥の糞がひっかかったような心地がする、そんな心地がしては書ける文章も書けたものではないから、今日はやめてしまおうかなどと思うに至る。脚の指先が冷たい。*2

*1:ユリシーズとサン・ラのあれはちゃんと続けるよ!

*2:結局ほんとに見つかりませんでした。たしか糺の森とかそのあたりに泊まるような話だった気がするのですが。誰かご存じありませんか?