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身体と代謝、物理学、神話と論理的想像力

今ここに「ちんちんが覚醒しました」と書きつけることができればどんなに素晴らしいことでしょうか。そんな嘘をつくことなんてとても出来はしないことを僕自身が最もよく知っておりますし、その向心力(勃起時における内分泌由来のあの気分はまさに回転運動に相似していると僕は常々考えているのです)の不在をほんとうに、心の底から感じ取ることができるのは僕以外にいないのだということだって、僕は分かっているつもりです。

あいかわらず右鼻奥からときおり経血のかほりなどする生活をいとなんでいるわけですが、古来より穢れであるとみなされてきたこのにおいが右頬をつうじて右耳へたれてゆくと想像し、ときおり感じる耳から汁のたれてくるかんかくというものが、脳ではなく、想像上の脳でもなく、そして鼻じるでもなく、空想上の経血であると、夜半すぎ、おきぬけに、自分をかえりみながらかんがえるのです。

太古のむかし、太陽系をかたちづくることになった大きな星の欠片がいまここにあるのだと感じながら僕は爪の垢をほじくり返しています。

これは以前にも言ったことがあると思うんですが、僕は鼻の脂というものに格別の思い入れを抱いておりまして、これが絵に描いた世界への鍵であると信じてやまないわけなんです。というのが、理想的な世界とのどうしようもない断絶を感じて気持ちよくなってしまえる瞬間という意味では、自分の顔をすっと撫でて、そして鼻に脂を感じたその瞬間以上のものは存在しないからなんですよ。そのあたりで程度のわるいjpg画像のような滲みがぐんと増す。耳クソをほじったら崩壊する。ぬるっ。

さっき論語を読んでいたら「子曰く、人生に必要なことはすべてムラシット先生から教わった云々」と書いてあったので僕は大変驚いたのですが、そういえばそうです、僕は孔子とともに精子と呼ばれていたのだという前世の記憶が蘇ってまいりまして少々感動いたしました。光子が静止。さっき論語を読んでいたら「子曰く、自転車の乗り方はムラシット先生から教わった云々」と書いてあったので思い出すのはもちろん、孔子が「はなしちゃだめだからね!ぜったいはなしちゃだめだからね!」と言って一人すいすいと自転車を漕いでいる姿です。

いま気づいたんですが、僕の下ネタ欲求のなかには臓器への憧憬のようなものがある気がします。それがそれとして活動しうる器官ある身体への憧れが。現在の僕のように精子に対する執着を投擲した人間の、そのあくがれというやつは、目的のないやり場のない現実世界の澱をかためたものであるという点で、精子そのものとトポロジカルに同型だし。生命ってなんだ!みたいな感じで。

萌えるっつう精神の躍動のなかで重要なのは埋めようのない断絶の認識なんですよ。作品世界に没入し、いったん現実にもどる。しかしその時点ではまだ萌えという感覚は誕生しておらん、空虚感しかおらん。しかし、それを取り戻そうとして何か淡く儚くとも、妄想というものをはじめ、そこでこんどこそ、作品世界との埋めようのない不連続性を知る。その二重の運動そのものが萌えってやつなんだと思いますよ。

わりと本気で不思議に思っているのが、なんでみんな「酒を飲んで嘔吐する」ことのすばらしさを知らないんだろうということです。まあもったいないって言われちゃうとそうとしか言えないし、場所を選ばず吐いたらあかんのは、そうなんですが(僕は駅だとか路地だとかに残る嘔吐の跡をみるとすごくやさしい気持ちになります。そして掃除してる方々への感謝の気持ちをわすれないでいたいと思います)。ともかく、酒を飲んでいい気持ちになって、それを通り越してものすごい不快になって、そのあと嘔吐をする、という構造の美しさにはハッとさせられるものがあると思いませんか?嘔吐の瞬間ってのは苦痛と快楽のアウフヘーベンの瞬間ですよ。