わたしの名は紅 - オルハン・パムク

*1 *2

様式(スタイル)についてのお話でした。
舞台は16世紀末のトルコ。細密画師が殺された事件をきっかけに、その犯人さがしが物語の核となって登場人物たちの(「藪の中」みたいな)一人称の語り*3が積み重ねられていく。いくんだけど、ちりばめられる細密画についてのたくさんの教訓*4や、細密画に描かれ続けてきた有名な場面とそれに纏わるエピソードたち、細密画師の嫉妬や喜び、噺し家の語り、そして恋愛の要素がそこに絡んできて、それぞれがとても大事なはたらきをする。

すくなくともイスラームやその文化に興味のある人は読んで絶対に損はしないと断言できます。とにかく、ムスリムとして生きる登場人物達の考えることや、細密画の描写、古い細密画師たちのエピソード、噺し家の語りなどはそういう点から見てもすばらしい。はじめはタルいなんて思うかもしれませんが、今まで知らなかった世界がぐんぐんひろがっていくのを感じられます。


が、ともあれ僕はこれを様式(スタイル)のお話として読みました。先人達を模倣し、ついに盲になって光を失うことこそがアッラーの見る世界に近づくのだという細密画の伝統のなかで、どうやってスタイルが生まれてくるのか、画のなかのほんのわずかな違いがどのような意味を持つようになるのか、そこに持ち込まれた西洋絵画のことを細密画師たちがどんなふうに思うのか、こうしたことが一冊を通してずうっと語られ続けていることにすごく興味をもったから。


わたしの名は「紅」


変なはなしかもしれませんが、妄想の世界だっておなじだと思うんです。

妄想ってのは現実をそのままトレースすることなんてまったく目的としない。むしろ、総体としての理想的な世界の一部分をいかに頭のなかの映像として、音声として、落とし込むか、というものであるはずです。

で、それはまあ当然、成し遂げられるものではない。そんなことはぜったいに不可能です。パーフェクトな妄想なんて、そんなものはどこにもない。それはなぜか?結局、そこにはかならず現実の残滓が紛れ込んでしまうからなのです。

数え切れないほど繰り返される妄想は、その都度限りなく理想をトレースしようとするんだけれど、そっれて結局、これまで繰り返されてきた妄想をまったくおなじように繰り返そうとすることなんだと思います。なぜならある妄想を終えたそのあとに、それを思い出すとき、現実の残滓=忌むべき穢れは記憶として残らないから。現実へもどれば、その残滓は現実のなかに溶け込んでしまうんですよ。木の葉を隠すには森、というやつです。しかし。その一方で失敗したという感触だけは残っている。

だからこそ、妄想を理想へとつなげてゆく唯一の方法は、これまでの妄想の完全なる模倣であらねばならないのです。はじめから再構成しなおすことが人間にできるわけない。かならずとっかかりが必要です。それはつまり、総体としての理想的な世界の欠片であって、そこから再構成される手法・道具というのは同一であらねばならない。その手法・道具こそが、ある意味では理想的な世界そのものなわけですから。

しかし、なんど繰り返そうと現実のすべてを押し殺すことなんてできやしません。幾度となく模倣された妄想の世界がそれぞれに限りなく相似形であったとしても、それは決して同一にはなり得ないんですよ。妄想の世界は、穢れを完全に取り除くことが出来るのならば、全く同一のものとして繰り返されていると言えるかもしれない。しかし、どだいそんなことは不可能だ。だってそこには自我ってものがあるのだから。


そして妄想の世界は変容するんです。


なぜなら、取り消すことの出来ない現実の残滓はしぜんに「きれいなもの」へと転化され、取りこまれてしまうからです。これまでの妄想を模倣しようとする動きのなかで、こうした現実の残滓、クソ汚い自我、僕のもつ質量は妄想の世界を成り立たせるひとつひとつの粒となってしまう。全ては妄想の、理想的な世界をつくりあげるための様式として取りこまれてしまうけれど、これは理想的な世界を変えようと積極的に働きかけた結果ではない。そうではなくて、忌避されるべき穢れの拭えない染みなんです。理想的な世界こそが浸食される対象となってしまう。それってすげえんだぜ…!って。考える。


反復と革命だなあ、と。そういうことを、本を読みながらなんとなく思ったのでした。

*1:前半から後半へは半分こじつけです。というか、連想ってのはそういうものなのか。本の紹介としては前半部分にしか書いていませんし、後半は別に読んでいようがいまいが、興味があろうがあるまいが、それほど関係ないこと書いてます。

*2:ちなみに2006年のノーベル文学賞受賞作家です。ミーハーだよー!

*3:これは物語のいちばん最後の段落とも関わってくる…!

*4:細密画はアッラーの視点を求めるものであってそれは遠近法や緻密な肖像画によって描かれるものではないこと、とか