ここにぼくのはつこいのおもいでって、かいたことありましたっけ?ない?じゃあかきます。
■
ムラシットがはじめて「こい」というものを知ったのは、彼がようちえんに通っていたときのことでした。そのころにあったことで、ムラシットが覚えていることは、そう多くはありません。たとえば、戸棚のなかで育てていたヒヤシンスのこと、たとえば、年長組のヨシムラくんにいつもいじめられていたこと、たとえば、いもほりのこと、たとえば、昼下りにひとりで、図鑑を読んでいたこと、たとえば、日射しがまぶしかった日のこと。
ですから、ムラシットがその「こい」について思いだせることも、やはり多くはありません。まあいいです、ゆっくり思いだしていきましょう。
■
「じゃあ今日はカレーを作ってみることにしましょうか」先生たちがすっかり準備をととのえたあとで、ナガエ先生がみんなにむかって言いました。コバヤシさんがまっさきに「はい」と答えます。それにつづいて女の子たちが、ちょっと遅れて男の子たちも「はい」と答えます。ムラシットもいちばんさいごに、いちばんおおきな声で「はい」と答えました。
「ええと、3班は、チカちゃんと、ミユキちゃんと、ヒデキくんと、ムラシットくんね」ナガエ先生がそう言ったので、ムラシットはなんだ体に力がみなぎってくるような気持ちがしました。チカちゃんとおなじ班になれることが嬉しくてしかたがなかったのです。
■
ムラシットがようちえんに入るまえ、チカちゃんとはたびたびいっしょに遊んでいました。ムラシットのお父さんお母さんは、チカちゃんのお父さんお母さんととても仲がよかったのです。夏休みには毎年バーベキューをしていましたし、冬休みになればいっしょに家族旅行へ行くこともありました。チカちゃんの家にはなんども行きましたし、そこでたくさんゲームをしたり、外でかくれんぼをしたこともありました。ムラシットはそうやってチカちゃんと遊んでいるとおなかとせなかの間のあたりがむずむずしてくるような心地がして、それがなんだかとても好きだったのでした。そんなときムラシットはチカちゃんのことを「かわいいな」などと考えたものでした。
そんなムラシットでしたが、ようちえんに入ってからというもの、チカちゃんとふたりで遊ぶ機会がぐんと減ってしまいます。まわりの男の子たちが女の子たちのことをからかいはじめたものだから、ムラシットも女の子と遊ぶなんてことがたいそう恥ずかしくなってしまいましたし、チカちゃんはチカちゃんで、ミユキちゃんやメグミちゃんと遊ぶことのほうが楽しそうなのを見ていると、なんだか嬉しいような、悲しいような、変てこな気持ちになってしまったのです。
■
チカちゃんといっしょに何かをするのはずいぶんひさしぶりだとムラシットは思いました。4月にようちえんに入ってから、ほとんど遊べなかったものですから。ムラシットのおなかとせなかのあいだが、ひさしぶりにむずむずしてきました。
そうしてはじまったカレーづくりですが、ムラシットはチカちゃんのことが気になって気になってしかたがありません。チカちゃんが野菜を切っています。ムラシットはどきどきします。チカちゃんが玉ねぎのせいで目になみだを浮かべています。ムラシットは代わりに切ってあげます。(もちろんムラシットも目になみだを浮かべます)
そうして終わりもちかづいてきたころ、ムラシットにとっての大事件がおこるのです。
■
「ムラシットくん、ムラシットくん」
「え、どしたのチカちゃん?」
ムラシットはチカちゃんの突然のよびかけに驚いてしまい、おもわず声がうわずってしまいました。玉ねぎを代わりに切ってあげるときには心の準備ができていましたから、かっこうをつけてチカちゃんに喋りかけることができましたが、今はそうではありません。ムラシットは今もむかしもアドリブにはちょう弱いのです。
「ちょっとこっちきて!」
それは一瞬のできごとでした。
チカちゃんがこちらに歩いてきたかと思うと(どきっ)、にっこり笑って(どきどきっ)、手をのばし(どきどきどきっ)、ムラシットの手を掴んだのです。
そしてムラシットは思いました。
(チカちゃん、手、でけえな…)
それはムラシットのちいさな手をふんわりとつつみこむ、ひとまわりおおきな手でした。そしてその瞬間に、ムラシットのはつこいは、ちいーんと音をたてるようにして終わりを告げたのです。
(お母さんみたいだ…)