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勝間和代十夜

第十夜


こんな勝間和代を見た。

赤いネオンサインがむこうにうすぼんやりと点っている。色ばかりで光がない。夜かと思うとそうでもないらしい。うしろの空には蒼白い光がながれている。日がくれたのか、夜があけるのかわからない。赤いネオンサインがぢぢぢと音をたてた。おれは人気のまるでない路地の暗がりに立っている。髪はびっしょりぬれて、うなじのあたりからぽたぽたと雫がたれている。足もとの水たまりをのぞきこむとおれの顔かたちがはっきりと見えた。勝間和代の話は上司から何度も聞かされたけれども、自分がその勝間和代になろうとは思いもよらなかった。名うての経済評論家にうまれかわって、こんなところにぼんやりと立っている。黒くぬれたアスファルトの上に立って、どうしていいかわからない。なぜこんなところに置かれたのだか、いったい夢なのだか現なのだか、そんなことはまるでわからない。


そのうちにネオンサインがまたたきはじめた。うしろの空のひかりが消えて、灰色とも黒ともつかない霧がかかったように見えた。そうして自動車のクラクションが鳴りはじめた。そのときはじめておれはこれから夜になるのだなと思った。どこかに人がいることもわかった。ネオンサインの色が鮮かにふえるにつれて、けぶった空の色もすこしずつ赤みを増した。じめじめとした路地の暗がりで、おれがおれでいた折のことをいろいろと思いだして後悔した。けれどもその仕舞いのほうはぼんやりしていて、どこでおれがおれでなくなったのだかわからない。考えてみようとしても、まるで掴まえどころのないような気がした。おれは私的なことがらを記録した。メモ帳の位置はなぜだかすぐにわかった。おれはおれが勝間和代になったことを記録した。そして思いだせる限りのおれの記憶をそこに書いた。そうしているうちに夜が更けた。ネオンサインが消えて夜明けがちかくなると、ビルのすき間から生温い風が吹いてきた。おれは路地のにおいを嗅ぎながら、これから勝間和代に生まれてはじめての日がくるのだなと思った。すると、今迄うっかりして思い出さなかった恐ろしいことを、ふと考えついた。

勝間和代は大勢のビジネスマンを集めて、その言葉を伝え、年収を十倍にするものだという話を聞いている。ここは大層さびしいから、ビジネスマンが集まるのはかまわないけれども、年収を十倍にするのは困ると思った。第一なにを伝えるんだか見当もつかない。幸いこの路地の暗がりにいて、辺りに誰も人間がいないから、さびしいながらもまあ黙っていて、夢ならばこのまま覚めるのを待とうと思う途端に、遠くのほうになんだか騒々しい人声が聞こえた。驚いてその方を見ようとすると、こんどは電車の通りすぎる音がして、こんどは「あそこだ、あそこだ」と云う人の声が聞こえた。しかもその声が聞き覚えのあるだれかの声に似ている。

それで駅のほうからやってきたのは人間で、おれの言葉を聞きにここまでやって来たのだということがわかった。これは大変だと思った。今のうち捕まらない間に逃げるに限ると思って、おれは歓楽街のほうへ一生懸命に走りだした。するとまもなくビルの裏手から乱暴な自動車のブレーキ音がした。そのときビル風が吹いて、騒々しい人声が風を伝って聞こえてきた。「あそこだ、あそこだ」と云うのが手に取るように聞こえて、それがやっぱりだれかの声に似ている。おれは驚いて、こんどは高層ビル街のほうへ逃げようとすると、またビル風が吹いて、大勢の人の群が、「あそこだ、あそこだ」と叫びながら、ビルの壁を伝っておれのほうへ近づいてきた。高架のほうへ逃げようとするとまたビル風が吹いて、やっぱり乱暴な足音がおれの方に迫っていた。もう逃げられない。あの大勢の人の群は、みなおれの口から知的生産の技術を聞くために、ああしておれに近づいてくるのだ。もしおれが勝間和代でありながら、なにも助言しないと知ったら、彼等はどんなに怒りだすだろう。ビジネスマンが集るのはかまわないけれども、その前にいじめられるのは困る。逃げたい、逃げたいと思って地団駄をふんだ。消えたネオンサインが裸体を現わにしていた。おれはそれを眺めて、途方に暮れていた。


夜が明け離れた。

人々はビルの隙間に、おれを遠巻きに取りまいた。恐ろしい人の群れで、通勤ラッシュだってこれほどのものではない。そのなかの重役らしき風体をした者が、私の前に出てあわただしくにフランクリンプランナーを取りだした。だんだん時間が経って、昼頃になったらしい。おれはどうすることもできないから、ただただ人々のそんな事をするのを眺めていた。あんなにe-mobileを接続して、これからおれが喋りだすまで、じっと投資の科学を待つのだろうと思った。なんにも云うことがないのに、みんなからこんなに取りまかれて、途方に暮れた。どうにかして今のうちに逃げだしたいと思うけれども、そんな隙もない。人々はガードレールのふちに座ったり、ビルの壁面に寄りかかったりしている。周りのビルの窓も人で埋まっている。おれはメモ帳を取りだした。すると辺りがにわかに騒がしくなった。「そら、メモ帳だ、ピンク色だぞ」と云う声が聞こえた。

「人生の戦略手帳だ、いよいよだ、これからだ」と云う声も聞こえた。

おれはびっくりして、辺りを見回した。メモしていることがらを喋るのだと、人々が思ったらしい。けれども、おれは何も云うことがないのだから、下を向いて、私的なことがらを記録した。もう日暮れが近くなっているらしい。早く夜になってしまえばいいと思う。

「おや、メモをはじめた」
「事によると、今日ではないのかもしれない」
「この様子だと、年収を百倍にしてくれるのだ」

そんな事を云ってる声のどれにもおれはどことなく聞きおぼえのあるような気がした。そう思ってぐるりを見ていると、郵便ポストの上に座って一生懸命におれのほうを見ている男の顔に見おぼえがあった。はじめは、はっきりしなかったけれども、見ているうちに、だんだん解ってくるような気がした。それから、そこいらを見まわすと、おれの同僚や、親類や、上司や、得意先の営業の顔が、ずらりとビルの隙間にならんでいる。それらが、みんな他を押しのけるようにして、一生懸命におれのほうを見つめているのを見て、うろたえた。もし、おれが証券アナリストになっていたことが、同僚に知れたら、恥ずかしくてこうはしていられない。勝間和代の顔をしているとわかっていたが、そんな姿が見えるほうに顔を向けないようにした。


いつの間にか日暮れになった。ネオンサインがてらてらと光っている。その色が移りかわるにつれて、ガードレールやビルの壁面などが、それを反射しはじめて、夜になった。そうしていつまでもおれが黙っているから、すこしずつ辺りが騒がしくなりはじめた。

「どうしたんだろう、変だね」
「いやこれからだ、これだけ待たせるんだから、年収が千倍になるような助言をするに違いない」

そんな声が聞こえた。しかし辺りの騒ぎはそれだけであまり激しくもならない。気がついてみると、群集のあいだになんとなく不安な気配がある。おれの心がすこし落ちついて、前に人垣をつくっている人々の顔を見たら、一番前にはみだしているのはどれもこれもみなおれの知った顔ばかりであった。そうしてそれらの顔にみな不思議な不安と恐怖の影がさしている。それを見ているうちに、だんだんと自分の恐ろしさが薄らいで心が落ちついてきた。おれはそれを記録しようとメモ帳を取りだした。するとまた辺りが急に水を打ったようになった。こんどはなにも云う者がない。人々の間の不安の影がますます濃くなって、みなが呼吸をつまらしているらしい。しばらくそうしているうちに、どこかで不意に、

「ああ、恐ろしい」と云った者がある。低い声だけれども、辺りに響きわたった。
気がついてみると、いつのまにか、人垣がすこし広くなっている。群集がすこしずつ後ずさりをしているらしい。
「私はもう予言を聞くのが恐ろしくなった。この様子では、和代は年収を何万倍にするか知れない」と云った者がある。
「これでは世界の経済が、いやそれよりも、私の家庭が破綻してしまう。何も云わないうちに、早くあの和代を殺してしまいましょう」

その声を聞いておれはびっくりした。殺されてはたまらないと思うと同時に、その声はたしかにおれの妻の声に違いない。今迄聞いた声は、聞きおぼえのあるような気がしても、だれの声だとはっきりは判らなかったが、こればかりは思いだした。それだけは断わらねばならないと思って、おれは思わず掌を前に突きだした。

「そら、和代が手をあげた」

「人生を変えるコトバだ」と云うあわてた声が聞こえた。その途端に、今迄隙間もなく取りまいていた人垣がにわかに崩れて、群集は無言のまま、恐しい勢いで、四方八方に逃げ散っていった。ガードレールを越え、ビルの隙間を縫って、ちりぢりに逃げ走った。人の散ってしまった路地に朝日がさしこみ、雲がつやつやと輝いて見えた。おれはほっとして、腕を下ろした。そうして三つ四つ続けにおおきな欠伸をした。起きていることはすべて正しいのだ。

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