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囚人のジレンマ - リチャード・パワーズ

アメリカ文学のうち、僕がなんとなく惹かれてしまうものはなぜか、アメリカそのものを、戦争のイメージ、あるいは父権的なものから照らしだすような小説であることが多いのですが、この本もやはりそんなふうなもののひとつなのだろうと思いました。

そして、あるいはその構造。気づいたのはずいぶん後半になってからだったんですが、明らかにされた構造によってそれまでの物語のもつ意味が照し出されるという体験をすると、やっぱこれこそ長編小説の醍醐味なのだろうなあ、としみじみ感じてしまうものです*1

囚人のジレンマ

それはそうと、今からちょっと恥ずかしいことを言います。つまり「これって、あるいみでは 『絶対に叶うはずのないセカイ系』を叶えようとした男の話なのかもしれませんよねー」って話を。

…うわあこいつセカイ系とか言っちゃってるよハズカシー!と言いたいならそう言え!!(…でもちょっと釈明させてください…)

まあ普通こんなのを指してセカイ系とは言わない。べつに少年やら美少女が出てくるわけでもなし、恋愛でうんぬんという話でもない。とりあえずここで僕が言いたいのは、「じぶんの意識と世界を直接つなげること」「それによって世界そのもののありかたを変えようとすること」という状況を指してセカイ系って今回は呼んでみたわけです。…いや、シンジきゅん関係ないから今は。

もちろん、世界と対峙するってのはそれほど珍しいテーマではありません。というかむしろ普遍的なはず。だからその部分をとってセカイがうんぬんというんじゃない。むしろ、その挫折のしかた、その挫折への反応のしかたこそが、セカイ系なんだろうなと思うのです。


もうちょっと説明する。

そもそもなんでセカイ系だなんてクソみたいな言葉*2であらわされる世界がひとつの塊として認識されるに至ったかといえば、おそらく、セカイ系であるものが現実に起こり得ないと、そんな幻想信じないぞと僕たち*3が考え、そして安心してしまっていたからこそであるはずです。

でも、この小説のなかの(おそらく主人公である)ビッグ・エディはそうじゃない。たしかに当然文化圏もなにも違うんだからそういう文脈のなかで語ろうとしても無駄だし、そもそもフィクションの中の登場人物ではあるだろう。しかし、しかし、それでも彼は間違いなく僕たちと同じ場所に立っている。つまり、第二次世界大戦において彼の手による偽史としてのディズニーが創ろうとした「きみが戦争だ」が頓挫するような世界(ほら、何か心当たりがあるだろう!)、実際に彼自身さえ裏切られてしまう世界(ほら、おんなじじゃないか!!)において、彼はセカイと対峙しても無駄だなんてこと信じない。

彼は世界から裏切られる。それでも彼は世界を裏切らない。

これがけっきょく、「囚人のジレンマ」という言葉の重みであり、彼が世界と渡り合うための唯一の方法だったわけです。だって実は、歴史なんてものはみんな、あらゆる人々が自らの意識を世界とつなげて構成されたものなんだろう?…だから…と、信じている。セカイと対峙できることを信じている。それって、それってけっこう感動的といっていいほどのことなんじゃないでしょうか。

ともかく、だからこそ、というべきか、最終的には、希望のある結末でした。戦争よりも父権よりも、なにより家族そのものの物語として。

あー、んー…

…すんません、ちょっとまとまりませんでしたけど…いや!いい話だから読めばいいのよ!ヱヴァ破とか見てるお前がまず読め!!だけどとりあえず今俺さ、腹痛いの!!!!

*1:とはいえ普通の人はたぶんもっと早く気づく

*2:今自分も使ってるけど…

*3:また「たち」とか使ってしまった!