V. - トマス・ピンチョン

僕にとっては,中編「競売ナンバー49の叫び」および短編集「スロー・ラーナー」に続き,はじめてのピンチョンの長編でした.いままでだってまちがいなく好きな作家だったのですが,今回こうして長編を読むことで,自分のなかでは明かに他から頭ひとつ(どころじゃなく)飛び抜けた作家になった気がします.そんな上下二冊.


V. 上V. 下

「競売ナンバー49…」の感想で僕はこう書きました.

五感の描写がなんだかやけに捻じ曲がっているように感じるのは必然性のない細部への固執がなせる業か.そのせいで,全体を通して,文章の中に現れるひとつひとつのデータのもつ情報量が不明瞭に感じられるのか.

僕がここに物語を見出すのは,こういった不明瞭なデータの連なりに情報としての意味をもたせあるいは意味をつくりだすからで,用意された因果関係があるかどうかなんてことは本質的ではない.

基本的にはこれと同じ構図です.「競売ナンバー49…」の主人公であるエディパも「V.」の主人公のうちの一人であるステンシルも,意味の不明瞭なデータ群が無茶苦茶に溢れ出すなかから情報を拾い,行きつ戻りつしながらそれらに意味をもたせ再構成していくという構図.ピンチョンの小説のことを誰かが喋るときに必ずと言っていいほど出てくるのが「エントロピー」という(彼の短編のタイトルにもなっている)言葉なのですが*1,たしかにこれはひとつのキーワードとなっていることが分かります.

アハー!どういうことなのか自分なりに考えたことを書くぜ!…の前に,以下では「データ」という言葉と「情報」という言葉を使い分けようとしていることに注意してください.ここで「データ」とは,有意味なつながりが見出せるかどうか,意思決定を左右するかどうかに関係なく,とにかく雑多な素材の詰め合わせを指し,対して「情報」とはそのデータのなかから(ときに取捨選択された)意味のあるもの,ほんとうのところがどうなっているのかを推測するのに役立つもののみを指すこととします.

で.

ピンチョンの小説での語りに対して「エントロピーが増大する/している状況だよな」って言ってるのは,不可逆な情報の散逸であり,どのように解釈することもできるデータが与えられてしまうことであり(これはしかし,必然的な状況なのです),大量に与えられたデータからけっきょく不確かさの度合いを減少させられないという状況を指していることになります.

ところで,同じように大量のデータを読者(および主人公)に投げつけてくる小説を書く人はほかにもいて,その最たるものこそ舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」だと僕は考えています.読んだことのある方なら分かっていただけると思うのですが,あのクソ長い小説のなかではとにかくもう過剰なまでの意味の爆発が起こる,つまり,過剰なデータが与えられ,探偵たちによってその過剰な解釈が行われる.この状況だけでミステリってものをぶっ刺して殺してくれるようなすごさなのだけれど,舞城がさらに素晴しいのはそういったデータの解釈としての真相を逃げ水のように近づけ遠ざけ,その運動じたいを推進力としながら進んでいくことなのです.そうやってばっさばっさ切っていくことがあまりに気持ち良いいのがディスコ・ウェンズデイ.

しかしピンチョンの場合そうではありません.大量のデータで撲殺しようとするところは同じだというのに,そこには整理されてゆく(あるいはそれが覆されてゆく)気持ち良さなんてものは小指の先ほどもありません.とにかく散逸していく情報をまごつきながら受け止めつづけるだけ.あるいは,もう一人の主人公プロフェインはまったくのダメ男としてその流れに身を任せつづけるだけ.そんなものを読まされるのは普通に考えれば苦痛で苦痛で仕方がないに決まってるじゃありませんか!だから読みにくい!!!

そうなってくると,じゃあそんな苦痛だらけの読書でどうして読み通そうなんて思えるんだよお前は!っつう話になります.でもってこれ,言ってしまえば,それぞれのセンテンスが持つもんのすごいセンス*2のおかげなのですよ.つまり,普通の本だとごくたまに挿入されておお!と目を引くような著者渾身の表現が,ピンチョンのばあいコンスタントに,毎段落のように続く.メリハリみたいなものがほとんどない.ふつうに登場人物の行動を描写しているかと思っていたらいつのまにか心情の描写に入り,ぐぐぐと視点が広がる,あるいはものすごく微細になる.その流れがおそろしい.

表現という鈍器で全身を絶え間無く殴り続けられるような読書をさせて,その上そうしたひとつひとつの表現の内奥に情報がひそんでいることを臭わせる.

はいみなさん,ここがポイントですよ.けっきょくそうやって力技で捻じ伏せられてしまうこと過程こそがポイントなのです.主人公,およびそれを見る僕たちの頭の中で妄想だけが膨らんでいき,けっきょく解決されないままそれらの妄想を裏切るように物語が終わる*3.そこまで非道いことをされて僕たちはなぜ怒り心頭に達しないのかといえば,僕たちはいつだってどこだって大量のデータを押し付けられて生きていること…そのなかで情報はかならず散逸するがためにものごとはほんとうの意味ではなにひとつ確かになってゆかないと感じながら生きていること…を無意識に知っているとう状況のなかで,理不尽にみえるその押し付けられかたってのがじつは(ピンチョンが書くように)ひどくうつくしかったりひどく詩的*4だったりする,その構造に気づけるからこそなんじゃないか.


ここからすこし蛇足になるかもしれませんが,ぼくがなぜ人工無能によって生成される文章*5がおそろしく好きなのかといえば(さらに言えばそのとき「じつは中で生身の人間が意思を持って書いている」であろうと「一定のアルゴリズムに従って偶然に生成される」であろうと関係ないと考えるのかといえば),けっきょく散文をふくめたすべてのことばによる表現には「データ」と「情報」があり,そのなかで「意味が通じる文章」というものしか持てない価値はけっきょく「情報」でしかないこと,そのことに気づかせてくれるからなのです.

何かを志向する言葉による技巧は,何かを志向せねばならないがゆえに情報を持たねばならず,僕はそれを等しく嗤ってやりたい.それはけっきょく僕たちが恣意的につくりだすものでしかないことを痛感させてやりたい.その運動は「データ」しかもたないことばの連なりにも等しく作用させられるし,そこに潜むおもしろさをどれだけの人が知っているというのか!と思い知らせてやりたい!!

…しまった,大きくぶち上げすぎてしまった.


べつにそこまでものすごく意気ごんでいるわけではないのですが,ともかくまあ,そんな感じなんだよ!もうだいたい書きたいことは書きつくしたからもう終わりだよ!クソッ!論理が通ってないところは指摘されてから直すよ!とりあえずピンチョンは面白いからみなさまぜひ読んでくださいそれだけはお願いします.

*1:解説については http://ja.wikipedia.org/wiki/情報量 あたりを参照

*2:精いっぱいのシャレだ!!!!!

*3:関係ないけどキューブリックアイズ・ワイド・シャットとかはその点で似ていると言えなくもないのだと僕はおもう

*4:逃げの言葉

*5:たとえばid:phaさんの圧縮新聞であったり,id:AirReaderさんの8P折本であったり,id:debedebeさんの「あたしオートマトン」であったり,僕がこれまでいくつか書いてきたような引用でできた文章であったり,手前味噌にも@murashittestだったりするもの