翻訳小説の愉しみ

こんにちは。いつもお上品な僕ですが、今日はそのお上品さに磨きをかけたしゃらくせえ口調で、翻訳小説って何が面白いのか、そんなところに焦点を当ててお話していきたいと考えています。

なんでまた翻訳小説なんですか?

そもそも「翻訳小説」とはなにかといえば、海外文学を日本語*1に翻訳した小説のことです、そのまんまですね。そしてここで特に注目したいのは、「翻訳」という過程を経たからこそ得られる愉しみがあるということ。そう考えて今回は「海外文学」ではなく「翻訳小説」と銘打ってみました。

でもって、なぜそんなことを、誰にも聞かれないのにわざわざ喋りだすのかと言いますとですね……いきなり自分語りになってしまって恐縮なのですが、そもそもぼくが小説というものに主体的な興味を持った高校生のころ、日本人が日本語で書いた小説にしか興味がなかったということに由来します。どうしてだったのかと言えば、言葉の芸術(技芸?)としての「文芸」というのは、はじめから日本語で書かれたもののなかにしかないと――はなはだおかしな話ですが――考えたからです。もっとひどい言い方をしてしまうならば、文芸に関して、小説家は一流、翻訳家は二流である、あるいは、小説家→翻訳家と間に解釈をふくんだ表現なんて「劣化」してるに決まってるぜ!という感じの、なんだかおかしな考えを持っていたからです。

そう、それは端的に言って「間違っていた」と、今のぼくは考えています。そしてもしかすると、そんな「偏見」を持った方が他にもいらっしゃるかもしれません。翻訳小説は筋を読むものだよ!とか、そんなことを考える方がいらっしゃるかもしれないと思うのです。でも、それはおそらく、すごくもったいない。翻訳小説はとても、とても愉しめるものなのです。なんたって僕は、翻訳小説を読むのが好きですから、翻訳小説を読みそして楽しんでくれる人、翻訳小説についてぼくとくっちゃべってくれる人、それについておもしろい文章を書いてくれる人がもっと増えてくれたらいいなと思うのです。だからこうして書いてみることで、翻訳小説を手に取ってくれる人がもっと増えてくれればな、と、そう考えて今日はこうして長々と書いてみようとしているわけです。

前置きが長くなりましたが、以下では、ぼくが翻訳小説の愉しみであると考えるものを具体的に2つ挙げてみることにします。

ひとつめ: ブローティガン藤本和子

まずひとつめは、リチャード・ブローティガンの小説、そしてその藤本和子さんによる翻訳を例に挙げてみることにします。ちょっと乱暴に言ってしまえば、「訳者で読む!」ということの面白さといってよいかもしれません。

日本語を母語とし、その上でブローティガンの小説に触れたことのある人のほとんどは、彼の小説と藤本和子さんの翻訳が切っても切り離せない関係にあることを知っているはずです。

ブローティガンの小説のひとつに「西瓜糖の日々」という小説があり、ぼくはこれが彼の作品のなかでいちばん好きで、翻訳でもペーパーバックでも何度も読んできました。当然それは同じお話であるはずなのに、そこから得られる感触というのはまったく別のもの、もっと言ってしまえば、それぞれに独立した輝き*2を持っているもののように感じられるのです。ブローティガンの小説はたしかにすばらしいけれど、藤本さんの翻訳を通して知らなければこんなに好きになることはなかったかもしれない、そのくらい彼女の翻訳の言葉は匂い立っているのです。

どうしてでしょうか。

正直、僕がここでうだうだ書くよりも、こちらを参照してもらったほうが分かりやすいのではないかと思います。空中キャンプの伊藤聡さん(id:zoot32)が書いた、藤本和子についてのエッセイです。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3343


でもって、せっかくなので短い例をひとつだけ挙げておくことにします。「西瓜糖の日々」の"The Ground Old Trout"という章の一節です。

原文。*3

I wondered about this because The Grand Old Trout usually shows very little interst in watching the tombs being put in. I guess because he has seen so many before.
I remamber once they were putting in a tomb just a little ways down from the Statue of Mirros and he didn't move an inch in all the days that it took because it was such a hard tomb to put in.

で、藤本さんの訳。

わたしがなぜだろうかと考えたのは、ふだんは、「堂々たる長老鱒」は墓が納められる作業にはほとんど関心を示さないからだ。きっと、もういままでに飽きるほど見物したからだろう。
いつだったか、鏡の彫像からちょっと行ったところで墓を入れる作業があったときなど、たいへん難しい墓だったので作業には幾日もかかったが、そのあいだずっと、かれはこそりとも動かなかった。

分かるでしょうか。いや、こんな短かくちゃ分からないか。すみません。でもめんどくさいからこれくらいにしときます!!

ともかく。先ほど述べたような偏見を持っていた当時のぼく――伊藤さんの言うところの「それまで日本で読まれていた海外文学」くらいしか読んだことのなかったぼく――にとっては、「こんなふうに日本語で、こんな言い回しを使って書けるものなのか!」という驚きがあったのです。*4


こうした翻訳の妙は、今では藤本さんに限らずいろいろなところで読むことができます。たとえば、若島正せんせいの「ロリータ」も、方向はちがえど、精密であるがゆえに、そのように言えるのではないでしょうか。

ふたつめ: ジョイスの訳がたくさん

先ほどのブローティガンは原文と翻訳で二度楽しめるという話、いや、というより、日本語そのものがそれ一つで十分な愉しみに値するという話でした。そして、翻訳小説の愉しみとしてぼくがふたつめに例として挙げるのは、ジェイムズ・ジョイスの作品です。

20世紀文学の偉人として知られるこの人の小説はじつはそれほど多くなく、「若き芸術家の肖像」「ダブリン市民」「ユリシーズ」「フィネガンズ・ウェイク」くらい。「若き芸術家…」はある種の青春小説のはしりとして小説そのものとしてすごく面白いですし、「ユリシーズ」は内容はもちろんのこと(もちろんのことですとも!)、丸谷才一らの邦訳における文体はそれだけをとっても一つの日本語の作品と言えてしまえる上に、アホみたいに豊富な註も楽しめます。「フィネガン…」は柳瀬尚紀という翻訳家の本領を発揮した、いまだに言語の最先端を行くような楽しみかたもできるので面白すぎます。さすが翻訳小説です!そして今回はとくに、短編集である「ダブリン市民」を採り上げてみたいと思っています。

どうして「ダブリン市民」なのか。これって実は、邦訳がめっぽう多い作品なのです。現在手に入るものだと、柳瀬尚紀訳(新潮文庫「ダブリナーズ」)、米本義孝訳(ちくま文庫「ダブリンの人びと」)、高松雄一訳(集英社「ダブリンの市民」)、結城英雄訳(岩波文庫「ダブリンの市民」)、安藤一郎訳(新潮文庫「ダブリン市民」)あたりでしょうか。ぼくはジョイスの小説が好きなのもありいちおう全部持っているのですが、よく考えてみれば変な話です、「同じ小説」を4つも5つも持っているなんて。……しかし、それにはちゃんとした理由があります。翻訳小説というのは、そうやって色んな訳を読むことがこれまたすごく面白いんですよ。そう、ふたつめは、一つの作品を様々な訳から様々に読んでいけるという愉しみの話です。


まずは引用しておきます。"An Encounter"という短編の最後のほう。

原文。

I waited till his monologue paused again. Then I stood up abruptly. Lest I should betray my agitation I delayed a few moments, pretending to fix my shoe properly, and then, saying that I was obliged to go, I bade him goodday. I went up the slope calmly but my heart was beating quickly with fear that he would seize me by the ankles. When I reached the top of the slope I turned round and, without looking at him, called loudly across the field:
'Murphy!'

柳瀬訳。

僕は男の独白が再び途切れるのを待った。それからパッと立ち上がった。心の動揺を気取られないように靴をととのえるふりをしてから、もう行かなくてはならないからと言い、さようならと言った。気を落着けて斜面を上ったが、心臓がどきどきして、いまにも男の手で踝をつまかえられるのではないかと怖かった。斜面のてっぺんに来てから、僕はくるりと向きを変え、男のほうには目もくれずに、大声で野原の向うへ呼びかけた。
──マーフィー!

米本訳。

ぼくが待っていると、ついに彼の独白はふたたび途切れた。そのときにぼくはぷいと立ち上がった。動揺をさらけださないように、靴を履き直すふりをしながら少しずぐずぐずして、それから、もう行かなければと言い、彼にさよならを告げた。落ちつき払って土手を登っていったが、ぼくの心臓はドキドキ鳴っていた。彼がぼくの足首をつかむんじゃないかという恐怖に襲われたからだ。土手の一番上にたどり着くと、くるりとふり返って、彼を見ずに、原っぱの向こうへ大声を張り上げた。
──マーフィー!

高松訳。

ぼくは彼の独白がまたとぎれるのを待った。それからいきなり立ち上った。心の動揺を気取られまいとして、すこし手間をかけて靴をはき直す振りをした。それからもう行かなけりゃと言い、さよならを告げた。ぼくは落ち着いて土手をあがったが、男に踵を引っつかまれそうな気がして心臓がどきんどきんと早鐘を打った。土手の上に来ると振り向いて、男のほうは見ずに、原っぱの向うへ大声で呼びかけた。
──マーフィ!

結城訳。

ぼくは男の独白がふたたびやむまで待った。それから突然立ち上がった。動揺をけどられないように、靴をきちんと履くふりをしながらしばらくぐずぐずし、それから、もう行かなくちゃ、と言い、男にさよならを告げた。スロープをゆっくり上ったにもかかわらず、ぼくの心臓は、男がぼくの踝をつかむのではないかと恐れ戦き、ドキドキ鳴っていた。スロープの上にたどり着いたとき、ぼくはあたりを見渡し、男のほうには目もくれず、大声で野原の向こうに声を張り上げた。
──マーフィ!

安藤訳。

私は、彼の独白がまたやむのを待った。それからふいに立ちあがった。自分の心の動揺を見せないように、私は靴をきちんとなおすようなふりをして、ちょっと間をおいてから、もう行かなければならないと言い、さよならを告げた。私は堤の斜面を静かに登っていったが、男が自分の足首をひっとらえそうな機がして、胸がどきどきしていた。斜面のてっぺんまで行くと私はふり返った。そして男の方は見ずに、原っぱへ向って声高く呼んだ──
「マーフィー!」

こうして一節を読むだけでも、登場人物の意識の動きのどこに注目しているのか、それをどう構成しているのか、登場人物がどんな言葉を使っているのか、リズムはどうか……という点で大きく異なっていることが分かります。もっと長く読むことで、もっと深いところにだって辿りつくことができるでしょう。ジョイスはどんな小説を書こうとしていたのか、読み手の自分がどこに感銘を受けたのだろうか、云々。

ベンヤミンの話を引くまでもなく、(よい)翻訳というのは、文学作品が内に持つ翻訳可能性を解放し、豊かにする試みであるはずです。そしてそれは、ひとつの「日本語」という言語のなかだけでも、いくつものやり方を見てとることができる。別の訳に触れることで、いままで知らなかった新しいものに触れることができる。その愉しみを知るからこそ、翻訳小説の読者は、自分の好きな小説の新訳を歓迎するのです。*5

おわりに

とかなんとか、とりあえずぼくが翻訳小説を好きな理由のうち、とくに日本語として読むことの面白さという視点から、ふたつを挙げてみました。

もちろん翻訳小説の魅力というのは、このふたつに限るものではありません。

たとえばぼくの場合、アメリカの現代文化に興味を持ったきっかけはやはりアメリカ文学でした。そこから音楽や映画、ときには戦争にまで興味の幅が広がっていくことになったのです。それに、海外の小説でなければ読むことのできなかったテーマなんていくらでもありますしね。なんだろう、パムクやらクンデラやらディックやら。


……つうわけで、翻訳小説読んでください!でもって僕に面白そうな本をどんどん紹介してください!!おわり!!!

*1:でなくてもいいのですが、日本語しか読めない僕が読んだことがあるのはもちろん邦訳だけなのでそうさせてくれよ!

*2:ハッ!また適当な言い回しをしてしまいました

*3:ちなみに。こんなふうにブローティガンの書く英語はたいへん易しくて中高生でもほとんど問題なく読めます。だからぼくは、すごく、すごく中高生にもこれを読んでほしいのです!!

*4:ちなみに、ブローティガンには「芝生の復讐」という短編小説集があって新潮文庫から藤本和子訳で出ているのですが、東京サブタレニアンズの鈴木さんもちょこちょこ翻訳してくれていたりもします。ぼくの大好きなブログのひとつです。ちょうおすすめです。 http://monde21.com/tagged/brautigan

*5:最近楽しみにしているのは、もちろん、6月ごろに刊行される予定のピンチョンの全集です!!