長いなら好きなところだけ読めばいいじゃない!これが新感覚はてなダイアリーだ!!

鼻クソの話

鼻糞は何からできているかといえば、大部分は空気中の埃および体内から分泌される鼻水だという。ぼくは身体の内側に対してよくわからない愛着のようなものがあって、性的な興奮をおぼえるわけではないにせよ、ともかく内蔵や分泌物に(劣等感という意味でなく)コンプレックスを持っている。そういう意味で鼻糞というのは中途半端なものだと言えなくもない。自分も含めほとんどの人が鼻糞に性的な魅力を感じないのもそういった理由からに違いない。(嘔吐や糞尿、唾液だったらいくらでもいるだろう)
そんな不遇の鼻糞であるけれど、やはりそういったものを取り除くのに際する快楽(というと言いすぎかもしれないけれど)はやはりある。瘡蓋と似たようなものかもしれないが、そこにスリルはなくて、むしろこの世の現実的なものからすこしだけ自由になれたような気がする。そういう気持ちになる。いまこうして書いていて気づいたが、ぼくの感じる快感というものには多かれ少なかれそういうところがある気がする。単純なものですね。
ところで、ぼくが煙草を吸う理由のひとつは、吸い込むそばから同時に先からも流れ出るその煙にしかめ面をするためだったりもする。鼻から目からも流れ込むのだ。もちろん口や喉や肺からもういちど流れ出したものもあるのだろう。それで何か考えている気になれるような、まったく非生産的なことで、なんだかなあ、400円になるのかあ、とかなんとか、そういうぼくの喫煙歴はそれほど長くなく、今年で24歳であることを考えると、まだ3年も経っていないことになる(ぼくは真面目な高校生だった)。そんななかでいちばん気になったのは、ティッシュで鼻のなかをごしごしとこすると、それが黄色くなってしまうことだった。
それらの組み合わせがとてもよい、という話。

右耳から鉛色の粘液が垂れる話

昨日の晩、帰り道でのこと。ぼくが小さな交差点の角に立っていると、右耳(どうもぼくは右耳という言葉に執着しているらしく、何も考えていなくてもこの言葉がぽっと出てきてしまう)から熱い粘りのある液体がどろどろと流れ出してきた。
それから自分の部屋に着くまで怖くて触れることもできなかったのだけど、その間もずっと粘液が流れ出していく感触がしていた。肩が濡れていく(というよりも、重くなっていく、と言ったほうが正しい)のも分かった。だけど怖かった。何もできなかったのだ。帰って、おそるおそる鏡を見ると、鈍い鉛色の液体が耳から肩、首を汚していたことを知った。顎ひげにもすこしだけこびりついていた。まだすこしずつ流れ出ている。ぼくはそれを指の腹ですくってみた。熱い。こびりついた鉛色はかたく乾いて、蛍光灯の光を鈍く反射させていた。
水洗いすると、すぐにとれた。それでもまだ流れ出している。服に着いた鉛色を水道水で洗って洗濯機に放りこむと、ぼくは裸のままシャワーを浴びた。排水溝に流れ込む水も汚された。汚れてしまっていた。いくら右耳を洗ってみても、粘液は止まらない。シャワーの湯よりも熱い粘液がいつまでも流れ出していく。
ぼくはあきらめた。
とりあえずティッシュを右耳に詰め込み床に入った。ひどく疲れていた。心臓が右耳にあるかのようにどくどくと脈打っているのを感じた。体が重くて仕方がない。不快感のせいで何度も目が覚めた。ティッシュを換えなければいけない。どろりとした粘液はティッシュにはほとんど染み込まず、外側に近いところでは灰色に固まって、内側ではまだ鈍く光る液体のままだった。頭が重くて仕方がなかった。ただ、その不快感も疲れには勝てなかったのだろうか、明るくなる前につかの間浅い眠りに入ったとみえ、意識が消えているうちに朝がやってきて、目が覚める。

文学フリマの告知

番組の途中ですがこっそり文フリの告知をします。眠れない夜を使ってとても短いお話を二つ書かせていただきました。F-20: UMA-SHIKA*1および、G-04: donuthole.org*2です。

またもタカハシさんの話・その一

そんなわけで(というのは、新作を読んだからなのだが)高橋源一郎の初期三部作を再読した、といっても、『ギャング』については断片的にではあるが日常的に読んでいたので、まずは『ジョン・レノン対火星人』だ。正直、最初に頭に浮かんだのは「こんな話だったっけか」という驚きとも疑問ともつかない考えだった。最初から最後まできちんと通して読むのはこれがおそらく3度目くらいなんだけど、それほど「物語」として成立している印象はなかった。「十九世紀市民小説」にからめとられている。つまり「偉大なるポルノグラフィー」はここではまだ達成されていないと言えるのだけど、やはり処女小説らしいというべきなのだろうか、とても私小説的で、たしかに必要に迫られて書いたのだと思わざるを得ない。もちろん、元となった『すばらしい日本の戦争』とどれほどのちがいがあるのかは分からないのだが、そういった焼けつくような切迫感は、やはり『ギャング』に比べてもものすごく強くて、こうした私小説的な「物語」を作るしかなかった情況まで考えたときに、心が痛む(腐った表現だ!)。いままで読んでいたときには、木を見て森を見ていなかったのだと思わされたけれど、それがいいことなのか悪いことなのかはよく分からない。

好きな人ができるといいなあという話

「好きな人がいる。こんなことは5年ぶりで自分でもたいへん驚いているのだけれど、そんなことは誰にも言えないし、先のことを考えると、どうやったって抑えたほうがよい気持ちなのだ。
よくわからない。両手で数えるほどしか会ったことのない、話したことのない人間にこうも惹かれてしまうなんて、ぼくにはどうしても分からない。二人で歩いていると、いっしゅん手が触れ合ったりもした。そのせいなのだろうか。無意識に近づいていってしまう。目で追う。おかしくてたまらない。いなくなると寂しい。寂しいってどういう気持ちなんだろう。次を渇望する気持ちなのだろうか。喉をかきむしると血が出た。爪の間に赤く染まった皮膚が挟まっている。そういう気持ちなのだろうか。面倒なことを抱えこんでしまったものだとぼくは考える。そんなものがいまのぼくにあったって、まったくなんの励みにもならないというのに!彼女はかわいい人だ。みんなといるときと、すこし違う話をした。だから」
最近はなんとなく人を好きになっている自分を想像してみるのだけれど、やっぱりよく分からない。というより、ひどく退行してしまっているような気さえする。

またもタカハシさんの話・その二

つぎに『虹の彼方に』。通して読むのはじつはたった2度目で、そのうえ初読時よりもあまり楽しめなかったというのが正直なところ。つまりこれは『戦争』と逆だ。なんだか理詰めで書いており、いくらなんでも苦しんだ跡が見えすぎて痛々しかった。同じように理詰めで書かれた(であろう)『ギャング』の後半にあった「文学」というお題目が消えているのは当然といえば当然な話だろうし、ここでタカハシさんの小説がひとくぎりを迎えるのも当然なのだろうと思える。そしておそらく重要なことに、初期三部作のうちこれだけが、いわゆる「ハッピーエンド」なのだ。

文学フリマの告知の続き

『どうしてだろう。はじめて聞いたときから、ぼくはこの噂話が気になってしかたがなかった。だからぼくは噂話を集めはじめる。女についての噂、そうでない噂。たくさん、たくさん』
『放課後。そのときぼくは帰り支度をして、窓の外を眺めていた。曇り空のなか、明るくふちどられた雲の端から太陽が現れる。隠れていた太陽が顔を出し、教室がぱっと明るくなった。忘れていたもの、忘れたかったものがはっきりとした輪郭を持ち、そして、はじける』
ひとつめは『都市伝説〇八六七』というお話です。番号に特に意味はありませんが、都市伝説といえば都市伝説です。…いや嘘、それほど都市伝説ではないかもしれません。書いていたのがちょうど現代詩ばかり読んでいた時期で、もうこうなったら好きなようにやっまえと思っていろいろ試してみました。すきな「やり方」をつめこんでみたのです。6000字弱。

耳が悪いのは悲しいことだという話

ぼくは自分の部屋にひきこもって読書およびインターネットの雑事に興じているうちに、自分がなにか真理のようなものに近づいていると勘違いしてしまったようだ。ぼくの部屋の玄関には大きな大きな置物があって、それが時折小さな摩擦音を立てる。ぼくはいつも部屋の奥に布団を敷いてそこで寝ており、食いものを買いに出るときと排泄のとき以外はそこを動かない。だから、置物が音を立ててもそれを見に行く気力は湧かない。でもぼくは分かっているのだ、あの音はぼくが真理にすこしずつ近づいていることを示しているのだと。
さっきコンビニへおにぎりを買いに行って、帰ってきたときのことだ。ぼくははじめて、その大きな大きな置物が音を立てている場面に出くわした。そうそう、説明するのを忘れていたけれど、その置物は玄関の広さにに対してとてつもなく大きくて、見上げても見下ろしても、どちらにしろ先っちょというものが霞に消えているような代物だ。うちの玄関はごくふつうの広さだけど、そこだけすこし次元が違っているらしい。まあ、よくあることだ。そんな置物が音を立てていた。じりじり、とか、ずりずり、とか、そういった音だ。とても優しい音で(どうしてだかぼくにはそう感じられた)、すこしだけ母親のことを思い出したりした。
間近で見てもどうしてそんな音を立てているのかはよく分からなかった。見上げると緑色の鳥が飛んでいるようだった。その音じゃなかった。見下ろすと黄色の鳥が飛んでいた。その音でもなかった。鳥は音を立てずに飛ぶ。たとえ音を立てていたとしても、ぼくの耳はそれを感じられるほど感じやすくはない。瞼がすこしだけ熱い。そして声がした。
「もしかすると、真理に近づいている音なんかじゃなくて、真理が遠ざかっている音なのかもしれませんね」
もちろんそんなはずはないのだ。ぼくはいつも部屋の奥の布団の上で精神だけを蚯蚓のように這いつくばらせ進ませているのだから。

文学フリマの告知の続きの続き

『「お前、たまによく分かんないこと言うよな」と高橋は言い、黄色く光る街灯の下で立ち止まる。もたれかかる。当局が気紛れに街灯の色を変えるようになったのは高橋が五つのことだった。ここ最近はずっと黄色の日が続いている。ちょっと珍しい。よく分からないものだ。高橋は青色の街灯が好きで、黄色は嫌いだったし、そんな日はできるだけ外に出ないようにと決めていた。なんだか気持ちが滅入ってしまう気がしたのだ』
ふたつめは『四千の日と夜』というお話です。書き終ってから題名を付けあぐねているときに、久々に手に取った田村隆一の詩集の、そのなかでもとくに有名なこの詩(http://uraaozora.jpn.org/potamura2.html)を読み、そういえばこういうことが書きたかったのだなあと考えて、結局そのまま拝借しました(ごめんなさい)。ここだけの話、ラノベっぽくしてみたつもりです。すきな「もの」をつめこんでみたのです。8500字強。

またもタカハシさんの話・その三

そしてもういちど『さようなら、ギャングたち』に帰ってくる。以上のふたつをふまえてみると、いくつか考えるところがあった。まず、第一部はおそらくまだ『戦争』の延長線上にあるということだ。そして、第三部の後半のドラマも同様(というより、その上を行っているように思える、これがあったからこそ『ギャング』は名作たりえたのではないだろうか)。しかし、第二部および第三部の細部については、もはや『戦争』よりも『虹』にちかいといえる。…いや、こんなことを考えたからといってどうにかなるものではないけれど。バランス感覚にすぐれているのだ。
ああ、キャラウェイ!!!

言葉の話

文字でしか表現できないものというのは、じつにたくさんある。
いや、今ぼくがほんとうに言いたいこととはすこし違う。言葉で視覚的に表現したとしても、絵にもなににもできないようなもののことを言っているんだ。そうだろう、たとえば、観覧車が自分で自分を解体している様なんて、言葉を使って表すことしかできない。
「ぼくがきのう目にしたのもそんな光景だった」
これはつまり、「ぼく」が言葉で言い表される世界の住人であることを「ぼく」自身が知っている、ということだ。
きのう目にしたのもそんな光景だった。
これはつまり、ぼくはそういう「ぼく」の文章を読んだということだ。「ぼく」はほんとうにぼくと地続きの世界(またこの言葉を使ってしまった)に生きていたのだろうか、そんなはずはないのだけれど、もしかすると、そうなのかもしれない。ぼくはすこしだけ、そうであってほしいと願った。

文学フリマの告知の続きの続きの続き

とても面白い人たちの作った本なのできっと面白いものになっているはずです。ぜひお買い上げください。

*1:http://d.hatena.ne.jp/uma_shika/

*2:http://donuthole.org/