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モモ - ミヒャエル・エンデ

最近、むかし読んだ本をもういちど読んでみようマイブームがマイハートのなかでマイバーニンングしていて、いやマイバーニングもクソもないんだけどともかく、『変身』を読んだり『伝奇集』を読んだり、それこそ『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』*1を読んだその一環として、覚えている限りいちばん最初に「文学っぽい気分」を感じたこの本を今日の夜はずっと読んでいました。…いや、最初にくるのは『ルドルフとイッパイアッテナ』だったかもしれんけど、ともかく、たぶん小3とか小2とかそのくらいのときに読んだっきりの本でした*2
モモ (岩波少年文庫(127))

さて、ちょっと大きな話をします。

ぼくは『モモ』のお話がやはりだいすきなんですが、だからといって、ここで描かれる「時間のあるゆたかな生活」みたいなものがどうのこうのというのを、そのまんまに受け取ったりするものではないかな、と思うのです。それが、はじめて読んだときと今回との大きなちがいのひとつでした。

それはべつに、現実ってのはもっとどうのこうの、あれはあくまでファンタジーだからどうのこうのというのではありません。そうではなくて、(ある意味ではマイスター・ホラの言っているとおり)ほんとうは灰色の男たちなんてものは、たくさんの人が考えて考ええて、自分なりにこうあるべきなんじゃないかといろんなことをやってきた結果のものだからなのです。なんというか、何十年だの何百年だのの、何千人何万人の思考の重みをそんなに軽々しく考えたくないっていう、それだけにしがみついているようなものではあります。

もちろん、だからといって、やはり共感しあこがれることができるのは、むかしからいままでずっとモモの考えなわけで、「なにか理由があるのだろう、でもぼくには分からないだけであって」という感じでもあるわけですが。


そんなふうに考えながら読んだからというべきか、今回はじめて気がついたことがあります。モモがマイスター・ホラのところで時間の花を見て、それを伝えたくて帰ってきて、でも今までの友達はだれもいなくなってしまったときのことです。こんな文章が挟まれます。

いまモモが身をもって知ったこと――それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それをもっているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。――

時間どろぼうが奪っていったのはむしろ(時間を必要条件とする)こんなふうなゆたかさなんじゃないかってことです。もしかしたら、だからこそエンデは過去におこったことでも未来に起こることでも「どちらでもそう大きなちがいはありません」とあとがきで言った*3のかもしれない、この「過去」の射程は「未来」に負けずおとらず長いものなのではないか、と思ったのです。それは時間が奪われるような過去・未来にかぎらないというか、なんというか、うん。


…ちょっと大きな話をしすぎました。(バスチアンが言っていたとおり、あんまり教訓めいたかんじでお話を読むのは好きじゃありません)

ともかく、ぼくはモモみたいに人の話を「聞く」ことができるようになりたいとずっと思っていましたし、雨の中での航海ごっこにわくわくしていました。ベッポのような生き方に憧れていましたし、ジジのような想像力にも憧れていました。今回もう一度読んでみて、やっぱりあのときの気持ちは(もちろん自分が未だにそうなれてないからこそでもあるのですが)変わらずに自分のなかにあるのだと感じられました。そしてだからこそ、ずっとむかしに読んだままの人もぜひもう一度手にとってみてほしいと思うのです。とくに、後半のモモの孤独感や、酒屋のニノや左官屋のニコラの言葉には、むかしよりずっと感じ入ってしまうものがあるんじゃないかなあ。

で、そうやって手にとって、最後のカシオペイアの甲羅の言葉にちょっと泣きそうになってもらえればいいなと、ついさっき読み終えたばかりのぼくは、考えています*4

*1:あんまり大きな声では言えないれど、高橋源一郎とならんで未だにその重力圏から抜けだせない作家だ

*2:ちなみに『はてしない物語』は去年の夏ごろに読み返していました

*3:いやこれは、正確(?)には、エンデがこのお話を聞いた相手の言葉なのですが

*4:えっ?まだ読んだことがないって?だったらもう、今すぐ買いに行ってください!!