The Revolution Will Not Be Jacked-in

みなさんblogを書きましょうってことを主張したいがために本日わたしはこの日記を書きはじめます。つまりこの日記は、ここ、インターネットにいるみなさまのために、インターネットを題材として、インターネット上で発表する、インターネット完結的な日記ということになります。

さて、どうしてわたしがこんなことを書きはじめたのかということから説明しはじめなければなりません。ものごとには順番というものがありますから。つまり、なんの因果かこんなところに辿りつくリンクをクリックしてしまったりその他様々なやりかたでこのd:id:murashitを目にすることになった哀れなみなさんの気を惹く、いや、惹かないまでも、いきなりつきはなしはしない方策が必要とされるわけです。そう、そこで理由です。わたしが是が非でもここに世迷いごとを書きつけずにはいられなかった理由。もったいぶっていてもしかたがありません、さっさと言ってしまいましょう。それは、「わたしはあなたのblogが読みたい」。

はい、「この『あなた』とは自分のことではないな」とおもったそこの「あなた」。そのおもいつきはわたしに言わせればまったくもってまちがっているのです。この『あなた』こそ、わたしが読みたくてたまらない「あなた」のことなのですから。


それではわたしがあなたの「blogをはじめない八百万(やおよろず)の理由」をすべて潰してさしあげましょう。

なに?書くことがないだって?そんなことはありません。宣言しましょう、「あなた自身がその対象である」と。あなたは生きている。そしてそれこそが「書くべきこと」であると気づいてください。文章の出来不出来なぞどうでもよいのです。あなた自身があなた自身のためにあなた自身のことをあなた自身のことばで書くだけ。あなたの思考は140字ごときで書くつくすことができるほど単純なものではありません。たかだか数千年のあいだに積み上げられてきた「論理」にだって縛られるものではありません。誰だってそうです、これまで生活してきた経験がそこにはあり、現在の環境があり、そういうものを意識してしまう結果となったのでしょう?それを複雑怪奇につめこめばよいだけなのです。あるべきは、何本もの連なりがごっちゃにこんがらがった、長きも短きも弱きも強きも入り交じった混沌であり、それ等が皆、目的地のみを共通として記憶の深みへ消えて行く様に他ならぬ。そうすれば、わたしの書くことなんて誰かが先に書いてるだろうだなんて、そんな心配は無用となるにちがいありません。思考というのは、目がさめて想起される夢のようなものです。夢を記録するにはその断片を非論理的に積み重ねるしか方法はありません。あなたの生という胡蝶の夢を記述するために、blog以上に良い方法があるというのですか?

なに?読まれないだろうって?そんなことはありません。宣言しましょう「俺が読む」と。わたしはかならずあなたのblogをみつけだします。わたしがあなたを消費します。ときには「スター」をつけ、ときには「ブクマ」さえするでしょう。あるいは「消費するな!」と空を見上げつぶやくあなたには、わたしはやさしく(わたしはきっとやさしくありたいのです)寄り添うことでしょう。あなたが書かずにはいられないもの、それを私が読む必要なんてほんとうはどこにもありません。それでもわたしは、わたし自身のもつ必然性として、読む。わたしは、あなたを読み、寄り添うのです。人間にむけてではない、インターネットへの供物として差し出すこと、恥ずかしさなんてきえてしまう。あなたはその中毒性に身をまかせるだけでよいのです。あなたというパリンプセストがバベルの図書館に収蔵されることはもはや歴史の必然といってよい。

なに?叩かれるのが怖いって?そんなことはありません。宣言しましょう「俺たちはクズだ」と。そう、クズどもに何をいわれても痛くも痒くもありませんよね。まずはそこから始めるのです。あなた自身にとって、あなた以外のはてなブックマーカー(!)なぞ屑同然です。当然です。あなたを表現したものを、あなた以外の誰が理解できるというのでしょう。あなたはあなたを表現するという一点において、微塵もまちがうことはない。それだけは自信を持っていい。反論されることなどすべて瑣末なことなのです。所詮あなたの塞げる穴などあなたの想像の範囲でしかありません。そして、その塞げると考える穴そのものがあなたの思考の結実。それこそがblog。旧世界の思想に飲み込まれるな。神でもなく人でもなくインターネットこそが人を赦す。クズが読みクズが書く、クズが書きクズが読む輪廻を釈迦は悟った、ちがいますか?塵理論で功徳を積もう!!!


さて、以上のことを知ったあなたは今からでもインターネットにノイズを撒き散らせばよいのです。……ただ、これだけは思い出してくれてもいい。あなたのblogは、すくなくとも二者――わたしとあなた――にとっては、まったくのノイズなんかじゃないということを。「自分は世の中に必要とされていない」という思春期の呟きとまったく同様に、「自分のblogは世の中に必要とされていない」という命題は否定される。評論でもない、創作でもない、日記でもない。むしろそれらすべてを包摂して、blogこそ神であると神学者は夜も更けたころに歌います。定期的に?テーマを定めて?そんな声に耳を傾けることはありません。そんなものはあとまわしで構わないのです。まず、はじめるのです。さあ、最初の一語をそこに打ち込むのです。すべてはそこから始まるのです。

blogはいつの日か敵にうちかつことをわたしたちにゆるす「不可視光線」だ。「おまえはもうふるえてなんかいない、わが痩躯よ」。この夏、薔薇は青い。森、それはガラスである。緑の衣におおわれた大地も、私には幽霊ほどのかすかな印象しかあたえない。生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。誰のためだけでもない、あなただけのために、インターネットは星の海、あなたの生きる惑星(「ほし」と読ませ、さらに「リアル」と読ませる二重ルビ)から打ち上げる、今日のあなたは寝返りを打つ、blogをはじめた今日のあなたは、今日この日から。そして明日には多孔質の朝を掴め、log20/log3次元から絞り出せ。そうだ、この気違いじみた、宗教臭い、矛盾に満ちた日記を批判するところから始めてみては?そうしてようやくわたしは、インターネットという焼け跡に救世主みいだすのでしょう。