メイスン&ディクスン - トマス・ピンチョン (上巻)

ほんとうは日記なり妙ちくりんなお話なりを書きたい気分ではあるのですが、どうも頭のほうがそれにお付き合いしてくれないみたいなので本の感想を書きます。全日本人が待望していた(はず!)のトマス・ピンチョン全小説の出版、そのラインナップでいちばんはじめに出てきたこの「メイスン&ディクスン」の上巻をこないだ読み終えたので、その感想です。ちなみにこのペースだと下巻を読み終えるのはきっと9月の半ばくらいではないでしょうか。ほんとうに本を読むのが遅くて遅くて、というか、ぼくは本を読むことなんてほんとうは好きじゃないんじゃないかといつも考えてしまいます。それでも読まずにはいられないわけで、読書の煉獄のような毎日ですが、いや、そんな暗い話はどうでもいいのです。とにかくすごく面白い上巻であったことは間違いありませんから、みなさんにお薦めしようと、そう思い、こうやってキーボードを叩いておるわけです。全体的にtwitterに書いたことそのまま、少し補強した程度かな、というものなので、それを読んでいた方は「ああ同じことが書いてあるなコイツはピンチョンのことがほんとうに好きなんだなあ」と思って読み飛ばしていただければと思います。相変らず前置きが長くて嫌になってしまいますが、ともあれここから本の紹介です。

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection)


まずは引用から始めましょう。

(……)歴史は年代記の真実性も主張出来ぬし、回想の力も主張出来ぬ、──歴史に携る者が生延びんとするなら、穿鑿好きな人間の、密偵の、酒場の賢人の知恵を早々身に付けなければならぬ、──過去へと通じる命綱が、常に何本もあるよう気を配るのが歴史家の仕事。過去の彼方に祖先を失なってしまう危険は日々存在し、単一の鎖の連なりでは十分ではない、一つの繋がりが失われたら滑てが失われてしまうから、──あるべきは、何本もの連なりがごっちゃにこんがらがった、長きも短きも弱きも強きも入り交じった混沌であり、それ等が皆、目的地のみを共通として記憶の深みへ消えて行く様に他ならぬ。

先日の日記にもこっそり紛れ込ませていた台詞――というか、登場人物の一人であり語り手チェリーコーク牧師の著書からの引用ということになっているのですが――であることを、この日記の熱心な読者の方(公称0人)ならば気付いていただけることと存じます。べつに気付かなくてもまったく問題はありません。ともかく、このくだりを読んで、まさにピンチョンその人が小説を書く、その書きかたにそのまま通じるものがあるとぼくは考えました。そして傲慢なことを言わせてもらうならば、ぼくの読みかたが、作者その人によって保証されたような気さえしてしまったのです。

簡単に言えば、「そのまま」差し出すということ。ある特定の整理され固定された読みを拒絶することはもちろんですが、それはかならずしも「多様な解釈」といった意味においてではありません。どちらかといえば、整理できないことが強調される。解釈そのものを拒むというべきか、絡み合ったものを絡み合ったまま差し出す/読み込むというやり方です。そのようにして「歴史」を書く。陰謀だったりポップカルチャー――今回は時代が時代ですから「ポップ」といってよいのかは分かりませんが!――だったり科学だったり、そういうものが錯綜している。だから、ある糸を断ち切ってもべつだん物語として破綻するわけではない、ほとんどすべてのものに「必然性」がないようにも思える――しばしば「要約不可能」と言われる所以はもしかしたらこのあたりにあるのかもしれません。ただ、この順列/組み合わせにおいてしか成立し得ない笑いなり叙情なりというものがここにあることは確かです。そして、チェリーコーク牧師の言うように、このようにしてしか記述できない目的地――小説というのは、過去を書くものだと言ってしまってよいのではないかとぼくは常々考えています――があるのだと、ほとんど信仰のようなものを持っています。*1

そこに登場するのは、幽霊なんて当たり前、喋る犬や鴨、空飛ぶ魔法使いの師匠さえ出てきます。1760年代という時代が時代ですので、アメリカ建国の父たちだってうさん臭さ満点の怪人物として登場します。登場人物であるメイスンとディクスンの二人が天文学士と測量士という科学の子たちなわけで、とうぜん(ピンチョンお得意の)科学的修辞もそこいらにばんばん出てくるのだけど、これも時代が時代、どうも魔術めいた感覚を伴なわずにはいられない。そんなこんなの、伝承のような都市伝説のような、そんな雰囲気がそこらじゅうにぷんぷんしています。メイスン=ディクスン線という、南北戦争でアメリカを二つに分かつことになった境界線を引いた二人の話ですから、奴隷とそれを支配する白人という関係もそこここでクローズアップされる。そう、これだって登場人物からしてみれば、なにか妖しげな「オリエンタル」なものとして映る。それはもちろん、批判的にも。

そういうものたちに囲まれたなら、幼いころにしてもらったおとぎ話のように、少年のころくすくす笑いながらした噂話のように、ぼくたちはわくわくせずにはいられないのです。そしてそれを彩る登場人物たち、なによりメイスンとディクスンの二人がほんとうにおかしなやつらで、いちいちキャラが立っていて、その漫才に、行動に、いちいち笑わされてしまう。帯の「測量道中膝栗毛」というだっさださなフレーズは、それでもたしかに的を射ているのです。

また、原文が擬古文だったということで、訳もそんな感じのリズム、これまでの柴田訳に馴染めなかった人でも今回はわりかし詰まらずに行けるんじゃないでしょうか。いやこれが、ほんとうにリズムが良くて、ピンチョンの小説に相も変わらず出てくる急激な細部/心情への接近とそこから世界への――今回は天文学さえ絡んでくるので、宇宙へのと言ってもいい!――叙情的なぶち上げが、その彩りを増しているようにおもえます。実際、チェリーコーク牧師の語りということになってもいるわけで、そういう意味でもなにか、「口を通じて語る」あの懐しいお話にどこか近いのかもしれません。


とりあえず上巻の感想としてはそんなところ。好きな章はいくつもあって、たとえば金星の日面通過の観測をしているところだったり、メイスンが妻とはじめて出会うところだったり、マスクラインの気が違ってくるところだったり。いまは下巻の途中、これからもそんなお話に出会えるのではないかと期待しつつ読んでいます。ピンチョンってじつは難しいものじゃありませんし、けっこう笑える。ちょっと高いけれど、ぜひみなさんも読んで、そして自分の好きになった章など教えてくれると、ぼくとしてはすごく嬉しいし、楽しいなと思ったりしています。

*1:このあたりのことは、以前同じピンチョンの「V.」の感想で言っていたことと通じています