Bells / Lonely Woman - Otomo Yoshihide New Jazz Trio+

というわけで、なんだかんだで大友良英ニュー・ジャズ・トリオ+の『Bells』および『Lonely Woman』を買ってしまいました。それぞれオーネットとアイラーの曲をフィーチャーしたこの二枚。
Bells
Lonely Woman

紺野さんの記事(http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20101204/p2)を読み、実際にこの二枚を聴いたときに、ドルフィーのOut to LunchをONJOでフィーチャーしたときといったい何が違うのだろうかこれは、と考えました。以下いろいろ考えたのですが、このへんのサックス奏者にかんしては、論理より思い入れが優先してしまってよくない……


で、

そもそも、対象となったドルフィーとオーネット/アイラーのちがいってなんぞや?といったところについてですが、これ、僕だけじゃなくてみんなが言うことなんでしょうが、前者はいわゆる「フリージャズ」ではなく、後者はまさにいわゆる「フリージャズ」なんだ、ってところではないでしょうか。ドルフィーは、Out to Lunchがまさにモンクのそれであるように、あるいはヨーロッパでのライブ盤があまりにもビバップであるように、そういった構築的なもの、そしてそこからのズラし、あるいは解体しすぎたものを巧妙に練り上げ、おそろしく分かりづらい形で提出してくる。

それに対してオーネットやアイラーって何かというと、これ、かなりメロディアスなもっとも基本的な意味でのフリージャズなわけです。ついでに言えば、これは部分的にはコルトレーンのそれと相俟ってスピリチュアルな方向に流れていき、また、やはり部分的にはドルフィーのそれと相俟ってクリシェからの過剰な逸脱を目指すヨーロッパ的なフリーインプロにも流れていく。で、今回とりあげられているのも、アイラーはもちろんそうなんですが、オーネットもLonely Womanだったりして、つまりテーマがものすごくキャッチーなものなんですよ。その後の流れというよりも原型によほど近い。Science FictionやGolden Circleからではなく、よりによってThe Shape of..から選んでるという。これは、解体的な側面よりも、おなじテーマ、というか、同じムードの繰り返しのうちにとにかく詰め込む意味合いが強い(ただ、じゃあDancing in your Headじゃなかったのはそうしてだろうっていうと、よくわかんない)。

そこで、大友さんってどちらの人なんだろうってなったときに、僕はあきらかに後者の人だろうって認識なのです。さっき高柳昌行『汎音楽論集』をぱらぱらめくっていたんですが、やっぱりそうなんだよな、高柳さんはドルフィーとアイラーを評価している(し、その上コルトレーンを歌謡曲だとある種見限っている)けれど、大友さんが汲んでいるのはこのアイラー的側面なんだと、僕は思っています。ドルフィーが公共的な意味でのジャズのその先を提示したのに対して、アイラーはどちらかといえばパーソナルな形での追求だった。技術の人オーネットであり、構造の人ドルフィーであり、内なる情熱の人アイラー。

そういう意味で、今回大友さんがそのうちのドルフィーでない二人を採り上げるのに、トリオ+αという少人数の体制をとったのは、あるいみでは必然だったといってよいし、あるいは、その逆、すなわちトリオ+αという形をとったからこそこの二人を採り上げたのかもしれないと思ったのです。


何が言いたいのか分からなくなってしまったし、高柳さんのくだりにはかなり誤解がありそうな気もするので、ちょっと誰か突っ込んでください。とても好きな二枚になったので、ぜひ、聴いて。