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なぜオタは体験を物語としてしか叙述できないことが不便きわまりないと思いますか?

どこかで見た、だけどそれがどこかは思い出せない、のだけど、(なにかを)書く前にはあんなにも広大なものとして感じられている「書きたいこと」が、一文字目をはじめてしまった瞬間に、手の中にある程度のものでしかないことを知る、あるいは、手のなかに収める程度にしか書けない、という話がある。できるだけ誠実に言葉にしようと思って書きはじめてみると、twitterでの数ポストぶんくらいのものでしかなかったりして、バイト中あれだけの時間をかけて考えつづけていたことが、けっきょくこれくらいのものだったのかよ、なんて嘆息することがある。全体をそのまま表現するには、論理的な文章では足りなくて*1、そうでなければ物語にでもしなきゃならんな、と思ったところで、それはそれで書きたくもないこと、考えたくもない余計なものまで考えて書かなきゃいけないという面倒くささがある。物語を書くことそのものが楽しい、ときもあるのだろうけれど、それはそのときのためのものであって、今やりたいのはそこじゃない。読んでもらうために、というのは馬鹿馬鹿しい話だけれど、つまりその部分にどれだけ自分を削るかって話でもあるのだろう。自分に「近い」人生を送った人がいたとして、それならば、こうやってだらだらと続いていく文章にだっていちいち共感してくれることと思うが、もちろんそんな人がいるわけもなく、それぞれの体験の道すじはあまりにも違いすぎているのだから、そこに貴賤などなく、だから共感なんて甘っちょろいものは、それなりに不要なところを膨らまし、あるいは必要かもしれない情報を削りつつ、「ああこんなこと書きたいわけじゃなかったのに!」というものを書きつづける、それなりにしんどい道ではあろうと思う。そんなことを考えながら喫茶店で本なぞ読んでいると、まあ、こんなゆったり本を読んでいる自分がいる一方で、世界のどこかでは撃たれて死んでる人もいるのだっていう偶然の残酷さに思いを馳せてみたりもし、もちろんだからといってどうするわけでもない感じだなあと思いつつ、考えはまた他所のほうへ飛ぶ。自分が小説を書こうとしたときには、本筋とは関係のない道をたくさんつくろうと思ったりする。文章は一次元的にしか進めなくて、ちょっとした脱線もけっきょく一方向にしかできないのがもどかしいなといつも考える。せっかくなら二次元的に脱線をしていき、無数の脱線を同時に読み進める体験がしたいのだけど、どうにもやっぱり言語というのはそういうところでも不完全なのだなとか思ったりする。帰り道でいつものホームレスのおじさんの住処の横を通りながら、彼がこの寒空のなか野垂れ死んで、どこかに(どこになるんだろう)通報される前に、その横を通りすがってみたときにする死臭というものを想像してみたりもしつつ、そのとき聴いていた、あーくそ坂本龍一はあざといなー、あざとさを実現する能力がすごい、みたいなことを、すぐに忘れ、いや、忘れずに、ここに書いたりしている。いつの頃からだろうか、全部を書く、ということを目標にしはじめたのは。それはきっと多くの人が(文章によってか否かは分からんが)目標とするところなんだろうけど、ともかくそれを達成しているものにお目にかかったことがない。あるいは、そんなものを目にしたところで、当然ひとりの人間の脳の処理能力には限界があり、そこまで読みこんでしまうことは自分の脳内にもう一人の人格を組み立てることになるのだから、そりゃあ狂ってしまうことに相違ないわけだし、まあつまり、無理なのだよ明智くん。だから人と人とは分かり合えないよ!って話なんだけど、じゃあ小説なんてものを書いてる人はいったい何をそんなにカリカリしているんですか。僕とか。そうやって、それなりに数時間ずっと考えていたことのなかから取捨し、ここに書きつけているわけで、それでもこのくらいの量にしかならない。いかに無駄が多いか、あるいはいかに貧相なものの考えかたしかできていないかっつう話になりますけれども、そんなことなら最初から何も言わなくていいじゃないか。でもどうして書くのか、それはMacBook Airが欲しいからです。MacBook Air 11インチ欲しい! 明日は都市のイメージ(リンチ的な意味じゃない)の生成について考えます。

*1:それはひとつに、僕の能力不足というものがあり、ひとつに、やはり言葉ってのがそもそも未成熟なものであるってのがあるのだろうが、だって、脚注はそのためにもある