アカシック・アカシック・アカシック・アカシックレコード

前からこの日記*1twitterで何度か申し上げているのですが、僕はいつからか、人のやったこと、どころか、考えたことの一部分でも、それらが死その他によって霧消してしまうことに、なんというか、背筋が寒い思いをしてしまう人間なのです。何らかの歴史を専門にしているような方からしてみれば、そんなことで怖気をふるっていてはなんもできへんがなという話ではあるのでしょうが、未だにこれが完全には直っておらず、オイオイみんなインターネットしようぜブイブイ!などと言っているのはそのあたりに関係していたりもするのです。

そうなんです、DPZなど読んでいてもたまに見かけるような、30年かそこら昔の話であっても「それはわからんねえ」みたいな話は意外と巷に溢れているもので、その寒気はある一面においては心地良さではあり、忘却の空(SADS)というのは人間の大切な作用のひとつとさえ言えるものの、やっぱしインターネットで、もう何のメリットもなさそうなのに何かを蒐集していたり、俺べつにぜんぜんそんなもん読みたくねえんだけどってことをtwitterでポストしていたりするものが、なにかの拍子に1000年残ってみたり*2宇宙人に解読されたりしたときには、やっぱ情報がたくさん残っていて欲しいなあと思うんですよ。これなど見ていただけるとわかりやすい。要するになんでもいい、残るものはなんでもよくて、とりあえず残っていることにこそ価値があって、どっかの誰かがもしかしたら見つけて人生変わっちゃったりする可能性だけでもいい、一縷の望みだけでも残しておいてほしいわけですよ。

だが、そこで、これだ。以下引用。

藤森──これはおもしろいのですが、実は辰野さんが描いた図面は行方不明なんです。私は調べたことがあるのですが、この図面はある雑誌に突然ぽっと載ったのです。誰も注目しませんでしたが、私はすぐ編集者に「あの図面はどこにあったんだ」という電話を掛けました。そうしたら掲載の条件が持ち主を詮索しないということでした。つまり誰かが東京駅から持ち出したんだと思います。辰野さんの図面について一応わかっていることはあって、東京の辰野葛西事務所のものはある時期まで早稲田系統の誰かが持っていたようです。今井兼次さんのお弟子さんで、戦後、今井さんのところに図面を載せたリアカーを引いて来たそうです。今井さんは辰野に興味がないし、早稲田だから義理もない。また当時はまだ歴史的なものを大切にする時代でもないということで、すごすごと去ったようです。大阪の辰野片岡事務所の図面は、ずっと片岡安(1876〜1946年)さんの家にあった可能性があるし、違うかも知れない。片岡さんの義理の父・片岡直温は日本生命を設立した人ですから京都の伏見に立派な家があって、敷地内に開かずの蔵がありました。そしてお孫さんと連絡を取っていて、その蔵を開ける時は先生に必ず連絡しますと言われていました。ただ、設計図を本当に蔵に入れるのかなという心配はありました。年賀状だけはやり取りをしていましたが、ある時から連絡が来なくなって多分亡くなられたんだと思います。その後、片岡邸も壊されたようです。美術品等はちゃんと処分されたと思いますが、推測では蔵の中には歴史的資料はなかったと思います。普通遺族は蔵の中に図面は入れないと思います。結局はわからないわけで残念でした。

……そうなんですよ。あっ、そうか、忘れることによって生まれる歴史もあるのだなと気がついたのです。この引用したお話じたいもそうだし、復原そのものだって、つまりはそういうことだ。それこそ最初の段落で書いた「歴史を専門にしているような人」ってのがまさにそれにあたる人たちの一人ひとりであるのでしょうが、すべてが残っている詰まらなさというのはたしかに、忘却の空(SADS)*3とかそういうものとは違う意味で、やはりある。復原しようとして、復原できないところをどうしようか、というところにあるさまざまの面白さがなくなってしまうことでもあるのです。当たり前のことにようやく気がついたわけです。

だから、忘却譚というものがあるのなら、その終わりは記憶を取り戻すことであってはもちろんいけないし、そのまま忘れ去られてしまうだけであってほしくはないのです、忘却されたものを誰かまったく別の人が、まったく違う形に取り戻そうとする話であるのなら、よいです。そうやって初めて、ぽっかり空いてしまった穴がほんとうに埋められるのだと思います。今日はそんな気が、一瞬したので、そういう日記を書きました。

*1:そう!今では!はてなブログになったわけですが!

*2:Webが1000年残るかどうかってのはまた別の問題である

*3:しつこい