"Cyberpunk in the Nineties" を訳した

思うところあってブルース・スターリングの"Cyberpunk in the Nineties"を訳しました。

拾ったのはここ。原文自体はもともと『インターゾーン』誌に発表されていたもので、それをギャレス・ブラウン*1HyperCardで作ってたスタック*2に(スターリングの同意のもと)転載し、左のリンクはそのWeb版という位置付けのようです。ややこしいですが、とくに怪しいものではないはずです。

とはいえもちろん、こちらは完全に勝手に訳したもの。あくまで参考に、という位置付けではあります。

じつはすでにハヤカワの90年代SF傑作選の上巻で金子さん*3の翻訳がありますので、ちゃんとしたものが読みたい!という方はそちらをどうぞ。こちらは「80年代サイバーパンク終結宣言」というタイトルとなっています。

というわけで、以下。


90年代のサイバーパンク

by Bruce Sterling

今は昔、1985年のひどく寒い冬のこと――オゾン層が尽きるより昔、冬というのはひどく寒いものだったんだ――『インターゾーン』第14号にある記事が掲載された。題して「新しいSF」*4*5サイバーパンク・ムーブメントの最初の宣言だ。分析の対象はSFというジャンルの歴史と原理で、サイバーパンクの作品についてはまったく触れられていない。そんな論考が、小規模な流通にとどまろうとしない天井知らずの野心をもったイギリスのSF季刊誌に変名で発表されたってわけだ。喜ばしいことに雑誌は表紙をフルカラーにしたばかり、宣言にはもってこいの場所だった。

このつつましやかなサイバーパンクの出現を、「元サイバーパンク作家の告白」という記事*6——ぼくの友人であり作家仲間でもあるルイス・シャイナーによる最近の論考——と比べてみよう。これは「当事者」によるサイバーパンク終結宣言の、いまひとつの誠実な試みだ。掲載されたのは、1991年1月7日付ニューヨークタイムズの論説面。

けっこうな媒体だなんて思うかもしれないけど、これはムーブメントの孕む矛盾にみちた危機の実例でもある。ひとたび森林限界の奥で叫び声をあげ、衝撃で雪崩を起こしてしまったら、それをひとりで押し止めようったって無駄なことだ。何百万もの野次馬たちがいたとしてもどうにかなるものじゃない。

便利なレッテルと悪評を得るよりも前、サイバーパンクは風通しのいい運動だった。ストリート感覚にあふれ、アナーキーで、DIY精神に満ち、70年代のパンクスたちと気質を同じくしていたんだ。ペラいちのプロパガンダ機関誌である『チープ・トゥルース』*7も、欲しがる奴には誰であろうとくれてやった。著作権が主張されるどころか、海賊版が積極的に推奨されていたほどだ。

チープ・トゥルースへの寄稿者たちはみな変名で、どんな個人崇拝や派閥争いも寄せ付けない真摯な平等主義者ばかりだった。えらそうな“ジャンル導師”*8たちをことさらにバカにして、ワープロを立ち上げ行動を共にするよう声の届くかぎりに呼びかけていた。チープ・トゥルースの素朴な基準では、「おもしろく」て、「生き生き」として、「読めるもの」でありさえすれば、それがSFだった。——とはいえ、その通り成し遂げられたかどうかってのはまた別の問題だったけれど。それでもあの頃は、戦場の霧がすべてを覆い隠してくれてたんだ。

チープ・トゥルースはまずまずの成功を収めたと言っていい。なにはともあれ、ぼくたちは称賛に値する基本理念をわきまえていたのだから。「心からの尊敬を得たいなら、手垢にまみれたクソったれと縁を切って血の滲むような努力をするべきだ」とかね。りっぱなもんだとみなさん認めてくださったわけだ——みんな自分のことは棚に上げていたけれど。そんな分かりきったことからも目を背け、つまらない作品でキャリアを重ねるのがいかにたやすいことか。「おんぼろ戯言製造工場」での流れ作業の日々ってわけだ。“想像力の結集”や“技術リテラシー”といったサイバーパンクの威勢のいいスローガンも似たり寄ったりの態度であしらわれてしまった。生憎、お題目だけでジャンルが改革できるのなら、オールディスナイトがほとんど同じ理念を掲げた1956年に*9大地はとっくに揺れ動いていたはずなのだ。

すぐれたSFを求めての闘争なんてものは、実のところチープ・トゥルースにはじまった話じゃない。それでも、ぼくたちは後ろを振り返ることができるほど大人じゃなかった。50年代に叫ばれた“技術リテラシー”は心を躍らせるものだったけれど、不安をかきたてもした。対して、80年代にその言葉が意味していたのはあからさまな快楽と恐怖だ。サイバーパンクは奇妙な運動だ。その奇妙さのせいで、ほんとうは単純なはずのサイバーパンクの理論と実践はずいぶんとややこしいものだと思われてしまったんだ。

サイバーパンク作家たちの評判がマジで悪くなってきたころには、サイバーパンクの原理であったはずの「オープンで誰もが利用できる」という思想は闇のなかへととっくに消え去っていた。サイバーパンクは即席のカルトだった。モダンSFにおける狂信者ってのは、他でもないこういう奴らのことを言うものなんだろう。同世代に生き、チープ・トゥルースのレトリックに同調していた奴らでさえ、カルトそのものじゃないかと疑いの目を向けるようになっていった——サイバーパンクが文字通りの“ジャンル導師”になってしまったばっかりに。

ジャンル導師になるなんて、びっくりするくらい簡単なことだ。ベッドで寝返りを打つのと大差ない。——なったところで、なにか得るものがあるとも思えないけど。足りない自分の脳味噌をどうにか騙しおおせたって、いったい誰が導師たちを信用する?チープ・トゥルースなら、そんなものぜったいに信用しないね!なんだかんだで、“ムーブメント”は3年ほどで自分の首を完全に締め上げてしまうことになった。そして、チープ・トゥルースは1986年に死んだ。

どこかの誰かがこれを教訓にしてくれればいいけど——まあ、そうもいかないんだろう。

ラッカー、シャイナー、スターリング、シャーリー、そしてギブスン——シャイナーのりっぱな記事でやり玉に上げられ、何百万のニューヨークタイムズ読者を困惑させた、“ムーブメント”でもっとも畏るべき導師たち——は“サイバーパンク作家”の烙印から二度と逃れられない。他のサイバーパンク作家、たとえば『ミラーシェード』に寄稿した他の6人の尊敬すべき作家たち*10だったら、この“サイバーパンク”という獣とも付かず離れずやっていけるのかもしれない。けれどぼくら5人の墓標には、恐怖のC-word*11が刻まれてしまうにちがいないんだ。声高に否定したってどうにかなるもんじゃない、もっとひどいことになるのがオチだ。創作の流儀を骨の髄まで変えたって、それどころか、更年期障害でおかしくなってイスラムやサンテリアに宗旨替えしたとしても、この汚名は雪げやしないのだ。

となると、“サイバーパンク”という言葉は「サイバーパンク作家の書いたあらゆる作品」という意味を持つにすぎなくなる。なんでもかんでもサイバーパンクってわけだ。ぼくはずっと歴史ファンタジーに目がなかったし*12、シャイナーはメインストリームの小説、それにミステリを書いている*13。ラッカーは空洞地球のなかで見かけたっきりだな*14ウィリアム・ギブスンは驚いたことに、滑稽な短編を書いたりしてる*15。でも、だからって、どうと言えるものでもない。ぼくらのうちの最後のひとりが墓に葬られるまで、サイバーパンクが完全に“死ぬ”ことはないんだろう。人口統計によれば、それはまだまだ先のことになりそうだ。

チープ・トゥルースが「オープンであれ」という原則をちゃんと広められていたかどうか——『インターゾーン』の後ろ盾があったときでさえ、そんなの怪しいもんだ。電脳インターフェイス、黒革のジーンズやアンフェタミン中毒みたいな、お手軽なC-wordの記号*16とは反対に、“原則”は抽象的でつかみどころがなく、あまりに謎めいて近寄りがたかったというだけのことなんだろう。けれどもきっと、正真正銘のサイバーパンク的世界観に支えられた作品の具体例を挙げるのは、今からだって遅くはないはずだ。

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』*17といえば、SFというジャンルの源流であると考えられている。これをサイバーパンク的に分析すると、“人間主義的”*18SFということになる。『フランケンシュタイン』は、「人間には知るべきでないことがある」というロマン主義的な金科玉条を奉じているのだから。こうした高度な道徳律の裏にはどんな物理的メカニズムも存在しない——この法則は人間の認識を超越し、まるで神の意思のごとくに作用する。傲慢には天罰を。これこそが宇宙の本質というわけだ。身の毛がよだつような罪を犯し人間の魂を冒涜したフランケンシュタイン博士*19は、その当然の報いとして、みずからの創り出した怪物からおそろしい罰を受けることになる。

では、サイバーパンク版「フランケンシュタイン」ならばどうだろう。この想像上の作品における「怪物」が、世界的企業から潤沢な資金を得た研究開発プロジェクトの産物ってのはありそうな話だ。流血沙汰の大惨事を引き起こしかねないな。きっと行きあたりばったりの通行人が犠牲になることだろう。だけど、そんなことをしでかしておいて、こんどはバイロンばりに深刻な溜息をつきながら北極まで放浪するななんてことが、この怪物に許されるわけがない。サイバーパンクの怪物たちはそんなに都合よく姿を消してはくれない。怪物たちはもうとっくに街をうろつき回っている。ぼくらの隣にいる。「ぼくたち」自身が怪物であったとしても不思議じゃない。新しい遺伝子法の制定により著作権の対象となった怪物たちは、世界中で大量生産されることになるだろう。そしてまもなく、ファストフード店で深夜にモップをかけるような劣悪な労働は、怪物たちの仕事になるというわけだ。*20

サイバーパンク的な倫理観からすると、「知るべきではなかったこと」なんて、人間はとうに知ってしまっている。ぼくたちの祖父母の世代のことだ。ロバート・オッペンハイマーは、ぼくたちが登場するよりずっと前に*21ロスアラモスで「世界の破壊者」*22になっていたのだから。人間の行動が神に制限されているだなんて考えは、サイバーパンクにとってはただの妄想だ。ぼくたちをぼくたち自身から守ってくれる神聖な境界線なんてどこにもない。

世界における人間の居場所なんて、結局のところ運命のいたずらでしかない。人間は弱く、死すべき存在ではあるけれど、それは神々の聖なる意思なんかじゃない。たまたまその時そうなったというだけのことだ。そんなのとうてい受け容れられるはずがない。べつに神に見放されたことを嘆いてるんじゃない。憂き世が掃き溜め同然だという紛れもない事実に納得がいかないのだ。——人間の条件は変わりうるし、いつか変わるのだろう、そして現に変わりつつある。たったひとつの疑問は、どうやって変化し、どんな結末を迎えるのかということだ。

サイバーパンクにおけるこうした“反人間主義"*23の信念はブルジョアたちを挑発するための文学的曲芸にとどまらず、20世紀後半の文化における客観的な事実を表してもいる。サイバーパンクがこうした状況をでっち上げたわけじゃない、ただその事実を反映したというだけのことだ。

テニュアを得た科学者がぞっとするほど過激な発想を唱えるなんて、いまどき珍いことでもなんでもない。ナノテクノロジー人工知能、死体の冷凍保存、意識のダウンロード……。傲慢な偏執狂どもが大学の構内で放し飼いにされ、その誰もが天地をひっくりかえそうと企んでいるわけだ。それを見て義憤に駆られたところでどうにもなりゃしない。生まれ持った聖なる寿命を100年延ばせるという悪魔の薬が売り出されたなら、教皇がまっさきに並ぼうとするような世の中だ。

すでに人間は、世界にどんな影響をもたらすのか予想もつかない、でたらめな手段に頼って毎日を暮らしている。世界人口は1970年の倍になり、かつては果てしないゴシック的静寂で人類をとりましていた自然界も、いまや分類され世話を焼かれる対象だ。

最近ではもう、まともでなさそうだからといってなにかを拒むのも簡単なことじゃない。ぼくたちの社会は、ヘロインや水爆みたいな最悪の脅威を捨て去ることすらできずにいる。ぼくたちの文化は火遊びが大好きだけど、それはたんに火の魅力にとりつかれているだけのこと。そのうえ金でも絡もうものなら、もうなんでもありだ。メアリー・シェリーの死体を生き返らせることなんてものの数にも入らない、似たりよったりのことが集中治療室で毎日のように行われているんだから。

人間の思考そのものだって、コンピュータ・ソフトウェアとして装いも新たに実用化され、複製され、日用品と化している。脳の中身でさえ聖域とはいえない。それどころか、つぎつぎと成功をおさめる学術研究の第一目標となってるんだから、存在論的、宗教的疑問なんてクソくらえってなものだ。そんな状況で「人間性は偉大なマシンに打ち勝つよう宿命づけられている」なんて考えるのはただの間抜けだろう。まるで見当違いじゃないか。研究室のケージに閉じこめられ、「ビッグサイエンス」の啓蒙のために頭蓋の穴から脳にワイヤーを接続された哲学ネズミが、「われわれの本性こそが勝利をおさめるにちがいない」とかなんとか、もっともらしく宣言する姿とまるで同じだ。*24

ラットたちに対してやってしまえることならみな、人間に対してだってやってしまえるってことだ。そして人間は、ラットにならどんなことだってやってのける。とんでもないことだけど、それが真実だ。目を塞いでみたところでどうにかなるものじゃない。

それがサイバーパンクなんだ。

黒革でけばしく飾りたてた出来合いのSF冒険譚が面白くもなんともない理由が、これで分かってもらえたことと思う。ルイス・シャイナーは、ドンパチばかりのくだらない「サイ・ファイバーパンク」で書店の棚を埋めつくす作家たちに愛想を尽かしたってわけだ。例の記事のなかで彼は「べつの作家たちがそれをお約束にしてしまったのだ」*25と非難している。「ビデオゲームや大ヒット映画から得られるのとまったくおなじ、袋小路のスリルにすぎない。」*26シャイナーの信念はいつだって揺るがない——だけどみなが〈サイバーパンク〉と呼ぶものには、もはや彼の理想なんて反映されちゃいない。

猿真似がたいした問題だとは思えない。“サイバーパンク”という言葉についてもそうだ。クソみたいな作品を“サイバーパンク”と銘打って売り出すことがいよいよ困難になってるなんて、たいへんありがたい話に思える。まぬけな看板倒れのおかげでC-wordの信用が失墜したいま、“サイバーパンク作家”とされる者たちはいよいよ必死にならざるを得ないだろう。そうと決めればかんたんなことだ。レッテルみずからが身の潔白を証明することはできないれど、作家にはそれができるし、よい作家ならば実際にやってみせるはずなのだから。

けれども、“ムーブメント”の真の理解にはかならずつきまとうであろうポイントがもうひとつある。それ以前のニューウェーブと同じように、サイバーパンクはボヘミアの声*27だってことだ。それはアンダーグラウンドの、よそ者たちの、若く精力的で、世間に背を向けた者たちの声だ。サイバーパンクは、みずからの限界も知らず、しきたりや惰性からくる限界を拒む者たちのあいだに現れたものなんだ。

ほんとうにボヘミアンたりうるSFはそれほど多くはないし、ボヘミアのほとんどはSFと無関係だ。けれども、それら二つの出会いからかつて得られたもの、そして今なお得られるものはいくらでもある。ジャンルとしてのSFは本来——そのもっとも“保守的”な作品でさえ——文化的アンダーグラウンドに属しているのだから。SFが外の世界におよぼす影響は、ビートニクやヒッピー、パンクスたちの不確かなそれと同様に、慎重に制限されている。SFってのは、ボヘミアがそうであるように、多様な人々をおしこめてアイデアや行動を実験させるには都合のいい場所だ。そうすれば、彼らのアイデアや行動を直接、より広く実践に移すことへのリスクを避けられるってわけだ。産業革命の初期に産声をあげて以来ボヘミアはずっとこの機能を果たしてきた。よくできた仕組みであることは認めざるを得ない。奇抜なアイデアのほとんどは単に「奇抜である」というだけのもので、権力を得たボヘミアんなんて目も当てられない。ジュール・ヴェルヌを、ヴェルヌ将軍、ジュール教皇にしようだなんて、いくらなんでも博打がすぎるってもんだ。

サイバーパンクは1980年代におけるボヘミアの声だった。現代に解き放たれた技術社会的変革は、カウンターカルチャーにも影響をもたらしたにちがいない。この現象を文化的に具現化したものこそ“サイバーパンク”であったというわけだ。そして、変革はいまだに拡大しつづけている。とりわけ通信技術なんて、ますます見苦しく信用がおけなくなってきて、婆ちゃんに紹介するのをためらうような連中の好き放題になっている。

けれどもサイバーパンク作家たち——持てる技術をこつこつと磨き、印税を引き落しながらどうにか生活してきた40代かそこらのベテランSF作家たち——は、自分たちがもはやアンダーグラウンドのボヘミアンでないことを受け容れなくちゃならない。ボヘミアでは珍しくもない、成功に対する普段どおりの罰ってことだ。日の光を浴びたアンダーグラウンドだなんて筋が通らない。社会的地位ってのは、手招きするだけじゃない、積極的に囲い込もうとしてくるものなんだ。そういう意味で、“サイバーパンク”はシャイナーが告白したよりもっと完璧に死んでるってわけだ。

時の運はサイバーパンク作家たちに優しかったけれど、彼ら自身は時とともに変わっていった。“ムーブメント”の理論的な核は「幻惑の強度」という教理だったはずなんだ。それなのに、サイバーパンク作家たちはもうずいぶんと真に幻惑的な物語——身悶えし、吐き気を催し、泣きわめき、幻覚におそわれ、部屋をめちゃくちゃにせずにはいられないような代物——なぞ書いてはいない。ベテランSF作家たちの近作はたしかに、緊密なプロットや魅力的なキャラクターたち、洗練された表現や「真摯で洞察に満ちた未来主義」で溢れている。けれども無意識の宙返りやテーブルに乗っての狂ったようなダンスみたいなやり方は、もうどこにも見出せやしない。舞台設定はますます卑近なものになってゆき、バロック模様のように渦巻いていた空想は失われてしまった。物語のテーマなんて、説教臭い「責任」みたいなありきたりな関心事にぞっとするほど似通っている。たしかにすばらしい作品かもしれないけれど、戦っているわけじゃない。SFに不可欠な側面を放棄して誰かが引き受けてくれないかと待っているんだ。そんなところにはもう、サイバーパンクは存在しないってことだ。

ただ、それでもまだSFは生きつづける。依然としてオープンで発展しつづけている。ボヘミアが消え去ることもない。SFがそうであるように、流行を生み出しはすれ、束の間の流行それ自体ではないのだから。SFがそうであるように、ボヘミアにも長い歴史があるのだから。産業社会のはじまりから、両者はそこに組込まれていたのだから。サイバネティック・ボヘミアの出現は不可解な出来事なんかじゃない。たとえ自分たちがまっとく新しいことをやっていると主張したとしても、彼らは若さゆえの無邪気な思い違いをしているにすぎないんだ。

サイバーパンク作家はサイバースペースを飛びまわる恍惚と危険を、ヴェルヌは気球に乗って五週間の恍惚と危険を書いたという違いはあるけれど、歴史的事情という泥濘から半歩でも足を踏み出してみれば、どちらも同じ、重要な社会的役割を果たしていたことが分かるはずだ。

もちろん巨匠ヴェルヌの作品はいまだに版を重ねる一方で、サイバーパンクには沙汰が下っている。そしてもちろん——いくつかのまぐれ当たりを別にすれば——ヴェルヌは未来を完全に見誤っていた。でも、サイバーパンクだって同じことだ。ジュール・ヴェルヌは、裕福で変わり者のお偉方、愛すべきアミアン市議会議員といったところにに落ち着いた。ひどいことになったんじゃなかろうか。

サイバーパンクの実務家たちがはからずも正統派として評価されるにつれ、サイバーパンクを型破りだか異端者だかに見せかけるのが難しくなってしまった。サイバーパンクがどこから来て、どうやってその地位に収まったのか、今となってはたやすく理解できてしまう。それでも、サイバーパンク作家がジュール・ヴェルヌの姿に忠実であった*28と打ち明ければ、なんだか奇妙なことのように思われるかもしれない。ジュール・ヴェルヌが母を愛する好青年であったいっぽうで、野蛮で非人間的なサイバーパンク作家たちは、ドラッグや無政府主義や神経接続、聖なるものすべての破壊なんかを唱えているじゃないかと反論する向きもあるだろう。

だけど、そりゃ言い掛かりってものだ。ネモ船長*29は技術に長けた無政府主義的テロリストなのだから。ジュール・ヴェルヌは、パリの街路が屍者で溢れ返っていた1848年に、先鋭的な小冊子を発表していたりもする*30。そしてそれでも、彼はビクトリア朝時代の楽観主義者(彼の作品を読んだことがあるならそう思うはずがないのだが)とされ、いっぽうのサイバーパンク作家たちは(恣意的なリストを持ち出して)虚無主義者であると決めつけられている。どうしてなんだ?そういう時代ってことなのだろうか。

サイバーパンクにはひどい寒々しさが漂っている。でも、これは誠実さの現れなんだ。快楽もあれば恐怖だってある。ぼくの座っているここの場所からテレビに耳を傾ければ、戦争をめぐった合衆国上院での喧々囂々を報じるニュースが聞こえてくる。そしてその声の背後では、都市が燃え上がり、群集が空爆で深手を負い、兵士たちはマスタードガスやサリンに悶えている。

ぼくたちの世代は1世紀にもわたる狂騒的な浪費と軽率の手痛いしっぺ返しを目の当たりにすることになる——そんなの分かり切ったことだ。手遅れになってしまった生態学的な失策のつけを払わずに済ませられるとも思えない。ましてや、何千万の同胞たちがおぞましく死んでゆき、ぼくたち西洋人がチーズバーガーをぱくつきながらテレビ越しにそれを眺めるなんて事態は、とてつもない幸運でも巡ってこないかぎり避けられやしないのだ。これは酔狂なボヘミアンの恨み言なんかじゃない。真実を見つめる勇気がありさえすればすぐにでも確かめられる、世界の現状についての客観的な申し立てだ。

こうした見通しはぼくたちの思考と表現、そしてもちろん、行動に影響を及ぼすにちがいない。そうでなくてはならないはずだ。目を背ける作家には——娯楽作家ならまだしも——SF作家を名乗る資格はない。そして、サイバーパンク作家たちはまぎれもなくSF作家だった——“サブジャンル”でも“カルト”でもない、サイバーパンクはSFそのものだったんだ。ぼくたちはこの肩書を名乗るに相応しいし、それが剥奪されるようなことがあってはならない。

それでも、90年代はサイバーパンクの時代じゃないんだろう。ぼくたちはこれからも書きつづけるだろうが、それはもはや“ムーブメント”ではないし、“ぼくたち”ですらない。90年代はきたるべき世代の、80年代に育った者たちの時代だ。あらゆる力が、そして最良の幸運が90年代のアンダーグラウンドに授けられんことを。ぼくはまだ君たちのことを知らないけれど、君たちがそこから飛び出してくるのは分かっている。立ち上がれ、その日を摘むんだ。テーブルの上で踊れ。巻き起こせ、きっとうまくいくさ。ぼくには分かっている、自分がそこにいたのだから。

(初出: "Cyberpunk in the Nineties," Interzone, #14, 1991.)

*1:Make:の偉い人

*2:HyperCardの作品をこう呼ぶらしい

*3:最近だとドクトロウとか訳してらっしゃる

*4:V. Omniaveritas, "The New Science Fiction," Interzone, #14, pp. 39-40, 1985. / ちなみに、「"The New Science Fiction" Omniaveritas」とかでググるいちおう出てくる

*5:オムニアヴェリタスってのはスターリングの変名なので、うん、めっちゃ手前味噌感あるね?

*6:L. Shiner, "Confessions of an Ex-Cyberpunk," New York Times, Jan 7, 1991. / さすがに読めないと思いきや、シャイナー自身が公式にCC-BY-NC-NDで公開してたりして

*7:ここで読める。能書きによれば、"the Movement"にはちょっと特別な意味合いがあるもよう

*8:"genre guru"

*9:たしかに両者のデビューした時期ではあるけれど、SF史に詳しくないためどのへんを指すのか不明。後出の「技術リテラシー」に関係するのだろうけれど。『十億年の宴』とか読めばなにか書いてあるんだろうか……?

*10:トム・マドックス、パット・キャディガン、マーク・レイドロー、ジェイムズ・パトリック・ケリー、グレッグ・ベア、ポール・ディ・フィリポ

*11:金子訳では「サの字」。わざわざ説明するまでもないのですが!説明すると!cuntやcockの"C-word"に"cyberpunk"をかけていたものを!日本語訳では「キの字」とかけているんですね!サはサイバーパンクのサ、だね!!

*12:「まさにこれ!」みたいなのが僕には思い浮かばないんですが、たしかに『塵クジラの海』はいちおうファンタジーといっていいし、『ディファレンス・エンジン』はあきらかに歴史ものではある

*13:ちなみにシャイナーの作品で邦訳されているのは『グリンプス』『うち捨てられし心の都』だけっぽい。どちらも読んだことない

*14:文字通り『空洞地球』は1990年の作品。後半のヴェルヌについての注も参照

*15:どれのことだろう?

*16:シャイナーの論説についての後ほどの注も参照

*17:『フランケンシュタイン: あるいは現代のプロメテウス』 ってかまあ、このへんはWikipediaを参照するまでもないか

*18:"Humanist"

*19:どうでもいいけど、僕もかつて「フランケンシュタイン」ってあの「怪物」のことを指すものだと思っていたクチである

*20:この段落、伊藤計劃+円城塔『屍者の帝国』そのまんまである。というか、伊藤計劃は(もちろん円城塔も)この論考についてはとうぜん意識していただろう。d:id:Projectitohのサイバーパンクへの言及といえば、このあたりをどうぞ

*21:オッペンハイマーは1904年生まれ、スターリングは1954年生まれ。ちなみに、先の1956年の話と関係あるのかないのかよく分からないけれど、1957年に『渚にて』を書いたネビル・シュートは1899年生まれ。

*22:オッペンハイマーがトリニティ実験について語ったアレ。Wikipediaこことその脚注に詳しい。 / 岩波文庫の上村訳『バガヴァット・ギーター』では「私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(死/時間/運命)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう」(11:32)となっている。

*23:"anti-humanist" conviction

*24:『ドクター・ラット』っぽくは……ないな。ぜんぜん違うな

*25:「しかし1987年には、サイバーパンクはクリシェに堕していた。べつの作家たちがそれをお約束にしてしまったのだ。脳へのインプラント(有機的コンピュータ・チップ)、多国籍企業の支配、裏社会、革のジャケット、アンフェタミン中毒の主人公、腐敗した衛星コロニーといったものを。」……ということで、どんだけニューロマンサーの影響力がすごかったんだよという話である

*26:「今日のサイバーパンクは、これらの問いに答えようとはしない。それらが与えてくれるのは強烈なファンタジーなどではなく、『ランボー』や『エイリアン』のような、ビデオゲームや大ヒット映画から得られるのとまったくおなじ、袋小路のスリルにすぎない。自然を死んだものと諦め、暴力と欲望を避けられないものとして受けいれ、一匹狼のカルトを持て囃すものなのだ。」

*27:"voice of Bohemia" / つまりこういうこと

*28:上に出てきた『空洞地球』は、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の続きという位置づけなのだけど、これはヴェルヌがすでに『氷のスフィンクス』でやっていたりする

*29:海底二万里』と『神秘の島』は福音館古典童話シリーズのものがたいへんお薦めです!!!!!!

*30:具体的になにを指すのか不明だが、1848年にヴェルヌは20歳、パリで(学校での勉強そっちのけに)劇作家を志して活動をはじめた頃ではある。大デュマと出会ったのもそのくらいらしい