ゲーム、ゲーム、そしてゲーム(あと、もうすこしゲームともうすこしの告知)

最近読んだ本の話です。

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム - 赤野工作

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

作者はもともとニコ動で有名な方であり、本書ももとはカクヨムの有名作品なのでご存じの方も多いかもしれません。舞台は来たるべきドラえもん後の時代、2115年、「過去の『低評価ゲーム』をレビューするブログ」という体裁をとったフィクションです。「過去」というのはつまり、現在2017年からは未来にあたります。したがって、これからの100年間に発売されたゲームを扱うことになる。現代であれば長寿も長寿、未来であればそこそこに老いぼれの書き手(著者自身の延長なのですが)が、数十年前のゲームを思い起こして語ってくれるというわけです。

未来の技術(とそれにともなう社会)があれば、いっしょにゲームをしてくれるアンドロイドだっているだろう、脳内物質を直接操作してくれるゲームがあるだろう、ゲノム編集で細菌を戦わせるゲームもあるだろう、拡張現実で怪談だって生じるだろう……と、ゲームのレビューが語られるのですが、これ、そう、ブログなんですよ。「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」というのがひとつのテンプレートであるところのブログがそのままここにある。

未来の技術がゲームを通してどのように表出しているかを読むのももちろん楽しみのひとつなんですが、みんな、エモが見てえんだろ? ここで語られる書き手の「自分」はいつまでもゲームをしていたい、いつまでもゲームを楽しみたいという(もはや人間である必要もない)意識のかたまりです。ここにはそれがある。なんたってブログだからな。過去の甘い思い出にまつわる、現在のむきだしの欲求にまつわる、未来への無根拠な不安にまつわるエモが。

ブログです。というわけで、「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」というテンプレートの話をしたいということもあって、次の本の話に進みます。

ゲームライフ - マイケル・W・クルーン

ゲームライフ――ぼくは黎明期のゲームに大事なことを教わった

タイトルにあるとおり、ゲームの話ではあります、少なくとも、ゲームがきっかけになる、ゲームを通じた話ではある、しかしゲーム主体の話かといえば、そこまででもない。ゲームを発端/媒介にした思い出が綴られる、自伝的なフィクションとノンフィクションのあいだのような本です。これもよく言われてるみたいですが、読んで受ける印象はIGN Japanの名連載「電遊奇譚」にたしかに近い。

基本的には少年の日の思い出です。みなさんも国語の教科書でヘッセの「少年の日の思い出」を読んだことありますね。あれです。ゲーマーというほどじゃないけれど、ゲームが好きだった少年の、基本的にはじめじめした思い出のお話。それはゲームを発端/媒介にした思い出話だと言いました。重要なのは、発端であるだけでなく、媒介でもあるということです。

たとえばコマンド入力型のテキストアドベンチャーなら、ゲーム内で行動するために自由なテキストを入力可能なこと、あるいは限られた命令を使ってしらみつぶしに組み合わせたテキストを入力すること、そういった「行為」の問題。たとえばダンジョン&ドラゴンズとそれをもとにしたビデオゲームバーズテイル2』なら、物理法則に支配される現実の本質である数値化とそのやりとり、そしてそこから必然的に生じる「490ポイントのダメージってなんなの? いったい何が起こっているの?」といった問題。たとえば『ウルティマ3』であれば2次元で表されたマップを通して外界を見るだろうし、第二次世界大戦を扱っている『ビヨンド・キャッスル・ウルフェンシュタイン』あるいは第1作目の『Call of Duty』なら歴史とはこういうものだと定義しなおされる。

そうやって、各々のゲームのエッセンスを通じて個人的な思い出が描写される。それどころか、過去の現実への認識が、すでにゲームのそういった本質を通じた、ないしは絡みあったものになっている。

これって、ゲーム以外でやろうとしてもできない、ないしはきわめてむずかしいやりくちでしょう。なぜならゲームには、インタラクションがあり、ルールがあり、シミュレーションであるという側面があり、楽しむものであるという側面があり、最適化問題という側面があり、もちろんナラティブも文化も技術もあって、そんな広範なものをすべて兼ね備えている、固有名詞を持ったコンテンツというのは、実はほかにはほとんどない(もちろん、たとえば身体性という面では舞台芸術よりは弱くなるなどといった事情はあるのだけれど、やはり広範さについてはゲームに分がありそうにおもえます)。

さっき言ったテンプレート、ありますね。「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」。ブロガーにとっても記憶を語るやり方一般として、この「固有名詞」をゲームに定めるほかに、なかなか正しいものはないとおもえませんか。つまり、「ゲームに絡めて過去の記憶を語る」ことがブロガーの強力さなんだ。

ゲームの王国 - 小川哲

そして、記憶とゲームが絡んだもうひとつの本の話に移ります。

ゲームの王国 上 ゲームの王国 下

これもあらすじが必要か。ええと、まず、この本はカンボジアを舞台としています。最終的にメインとなるのは2人の人物なのですが、語り口としては、さまざまな登場人物の視点からエピソードが描かれるというもの。ある意味では群像劇と言えるかもしれません。上下巻に分かれており、上巻はクメール・ルージュの、下巻はいまから5年ほどあとの時代ということになっています。苛烈な赤狩り、あるいはクメール・ルージュによる虐殺を通して少年少女の若いころを描いたうえで、後半はいっきに時代を移すというわけです。少年少女はすっかり成長し大人になっています。ひとりの政治家の躍進があり、それを阻止したい(と、いちおう簡単に言ってますがもうちょい事情は複雑だったりします)大学教授がなにを考えなにをするのか……というところに結実します。あらすじ下手だな。友人におもしろかったアニメの話をするのも苦手なんだよな。

さて、なにが「ゲーム」の王国なのか。本書において重要になってくるゲームのエッセンスは、「ルール」です。ゲームには(改変するためのメタルールも含めて)ルールがあります。ルールを遵守する、侵犯する境界があります。その境界は、メタルールによるもの、そうでない外部的な要因などなどによって移動します。境界があるということは、盤の向こうにいる対戦相手を殴ってキングを取るなど、ゲームが無効になる、補集合としての行為があります。もちろん、多くは楽しさだったり、時には恐怖だったりするような、そのゲームをプレイする動機、ないしはルールに従わせているものもあります。そういった、ゲームの本質のひとつである「ルール」のさまざまな側面を、手間をかけて徐々に政治だったり生きることそのものに投影させていくのがこのお話の上巻でもあります。政治を公正なゲームとする、というのが政治家になる彼女が目標とするところだからです。

そういった準備を経たうえで、ようやく記憶と「実際のゲーム」が絡みます。先述の大学教授と、その学生たちとで作るビデオゲーム「チャンドゥク」が登場するのです。チャンドゥクは脳波を用いて操作するFPSで、たとえば、さまざまな脳波≒精神状態に反応してさまざまな魔法を発することができます。「楽しい」と感じると回復したりもする。当然、プレイヤーは勝ちたい、強い魔法を発したいですよね? そのためにはどうするのか。個人的なマントラを唱えて精神状態を制御することもできるのですが、もっともわかりやすいのは「過去の記憶を思い出す」ということです。

必然的に、現実の過去とそうでない過去が混淆しはじめます。強い魔法を出そうとするなかで、記憶が錯覚されはじめます。たとえば自分には妹がいなかったはずなのに、妹のでてくる記憶を呼びおこす、あるいは無意識に呼びおこされる。まるでそれが自分にあったかのように錯覚することになる。したがって、そのゲームのキャンペーンモードによってプレイヤーの過去(の断片的な記憶から生まれる印象)を操作できることが示唆される。お話としては、大学教授はこれを使って、政治家の躍進に対して最後の抵抗をしようとするのですが、それはともあれ。

自分には、記憶というのは特権的な概念であり、アイデンティティを構成するそのほかすべての要素はこれに従属するんじゃないかと考えているフシがあります。記憶というものがあるかぎり、人間はテセウスの船にはなりえない。単純に言えば、自分というのは過去の記憶のことだと。現在のむきだしの欲求にまつわる、未来への意味もない不安にまつわるエモはすべて過去から生ずる。ことここに至り、テンプレートたる「ゲームに絡めて過去の記憶を語る」は「ゲームと不可分に絡まった自分を語る」ことになります。


『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』において、過去に楽しませてくれたゲームの思い出によって、未来においてもゲームを楽しみつづけたいと考え、過去を賭けて人工脳移植を決断しようとします。『ゲームライフ』では過去についての語りがゲームという体験を通さずにはいられないものとして現れます。『ゲームの王国』においては「ゲーム」と「自分」との主従があいまいになります。そして、ゲームの持つ最も重要といってよいエッセンスである「ルール」の話がじわじわと人間の生に対応付けられているのを見ていけば、「ゲームを語る」のがブロガーのテンプレートでいいんじゃないかという気さえしてきます。

だんだん牽強付会になってきたな……。ゲームを語れと言いたいというところに辿り着いてしまったんですが、それでいいのだろうか、そうでもないような気がするぞ……。

廻廊 - ねじれ双角錐群

そんなわけで、告知です。ずいぶん久しぶりに小説(たぶん小説)を書いて、同人誌に寄稿させていただきました。ゲームの話にしようと決めて、ひいこら言いながら書き終わってから、上記の本を読みました。牽強付会になったのはそのせいであって、仕方のないことだったんだよ!

では、以下で詳細をご覧ください。梗概も載ってるよ。

https://nejiresoukakusuigun-kairou.tumblr.com

本来ならば掲載作の感想など書くべきなのでしょうが、もはやちょっと長くなりすぎました。ここまで長々と読んでいただいた方なら興味を持っていただけるはずですよね! 2017年11月23日(木祝)、文学フリマ東京 E-19のブースに、みんな来てくれよな! 僕は当日行けません! ヨロシク!