自転車で帰省した話(3日目)

※今回は自転車にほぼ乗りません。


***


前回の終わりに「諸事情によりこの後車で長野県へ行くことになる」と書きました。いったいどういうことか。説明するためには時間をすこしだけ遡らなければなりません。帰省するちょっと前のこと。

ある日、無免許さん(id:llena)からtwitterのダイレクトメッセージが届きました。「おいちょっと仲良くしようぜ」とかだいたいそんな旨。仲良くしたい僕は「仲良くしたいのですがこんど実家帰る予定なのです、どうしましょう」という旨返事をすると、「じゃあその途中でうち寄りなよ」いやしかし「寄りたいのですが自転車なんですよ……電車賃もあんまりなくて……」「じゃあ車で自転車ごと迎えに行くよ」……なんだと……「では浜松までお願いいたします」。大まかに言ってこんなやりとりがありまして、僕はこの日長野県に向かうことになりました。回想おしまい。ええと、意味がよく分からないと思いますが、そういうものです。とにかく僕は長野へ行くことになったのです。

そんなこんなで20時くらいだったか、浜松駅で落ち合う。無免許タクシーとの邂逅。飯を食う。車に自転車を載せ出発。さて、浜松から飯田まで、自動車でいったいどのくらいかかるかご存じですか。3時間です。3時間て!遠いわ!!なんで迎えに来るなんて無茶なことを言ったんですか!!!真っ暗な道をバンに乗って走る。「青崩峠ってところのほう通ればもうちょっと早いんだけど文字通り崩れちゃってて通れないらしいんだよね」「マジすか」「この橋かっこいいでしょ」「ほんとですね、ああでも、こんな構造してる必要あんのかな」とかなんとか話しながらひたっすら山を上る。地方の山道ってのはどこもそうだけど、一車線しかなくて九十九折りになってる、夜になれば霧も出る。「来るときに立ちションしようと思って車停めたら、ちょっと向こうのほうに誰かおるんよ。あれ、おっさんが両手挙げてんのか、恐っ、とか思ったら、それが鹿でさ」「マジすか」「鹿いないかなー」。鹿もいた。「こんどリニアが通るからさ、そしたら品川から一時間かからないわけ。人が吸いとられるに決まってるでしょ。だからなんかウリを作っとかなきゃとかいう話で、蕎麦をね」「蕎麦ですか」「蕎麦でなんかやろうって」「ほほう」「で、その会合が明日あるから、ムラシット君もちょっと来なよ」「えっ!」知らないおじさまがたのひしめく会合に呼ばれることになりつつ、日付も変わり、どうにかこうにか飯田に到着、深夜だからと安く泊めてもらえるホテルを探しチェックイン。寝る。


***


10月19日。

朝起きてみたらえらく具合が悪い。チェックアウトしてまた深夜に行って安く泊まろう……などというケチ臭く不埒な計画だったのだけど、そうも言ってられず延泊ってことでとフロントに連絡し、二度寝。拍子抜けするくらい普通に治ってしまって、だいたい11時くらい。……さて、今日の夜は例の会合というか飲み会に出席せねばならんのだな……と不安になりながらも、とりあえずそれまでの時間は自由だってことで、飯田市を観光してみることに。前日の夜にいろいろ情報は聞いていたものの自転車ではそんなにたくさんまわることもできんだろうと思い、市街地を適当に走っていたら「大勝軒」の看板が。東京に住んでる方はよくご存じの、あの元祖つけ麺、大勝軒の暖簾分けの店らしい。じつは僕はあんまり好きでもないのだけれど、それはそれ、面白そうだとここで昼飯を食うことにする。美味かったかどうかは……まあ、みなさん飯田に行って直接お確かめください。腹も膨れたことだしとふたたび飯田市街を当て所なく走る。いかにも城下町らしい町割で綺麗だなーと思っていると今度は自転車屋さんを見つけ、昨日コケたときに一度壊れてしまったブレーキを診てもらったりもした。それでもまだ13時前くらいだったか。まだまだ暇だなーと、昨晩「原広司設計だよ」とだけ聞いていた飯田市美術博物館がいちばん近そうだと見当をつけ、行ってみることに。

何があるかようわからんねと思いながらとりあえず入ってみると、まずプラネタリウムがあるということを発見。そのときの自分のテンションがよく思い出せないのだけど、なぜか「これだ!!!!!」と思い、ちょうど14時半から放映だとのことだったのも手伝ってさっそく申し込む。それまでしばらく時間があるということで、「美術博物館」の博物館的側面であるところの飯田市の歴史などについての展示を眺めることに。フォッサマグナ!とか考えながら地質について知ったり、中生代の動物のかっこいい模型を見て興奮したり、飯田周辺の街道を「あー、明日どこ通って名古屋に下りよう……」とか考えながらぴかぴかさせてみたり*1すっかり楽しんでしまったところで、ちょうどプラネタリウムの時間ですよとの館内放送が流れる。

さすがに平日の昼間、自分も含め3人しか観客がいなかったけれど、プラネタリウムのおじさんはしっかり今日の夜空の説明をしてくれた。次いで放映されるのは飯田周辺の集落のお祭りについての番組。冬至を迎えるにあたってこういう祭りを一昼夜行うんだよというドキュメンタリーで、プラネタリウム用に作られたものであるから、祭の様子が魚眼レンズで撮影されていたりもする。NHKで深夜にやっていそうな地元色の濃い簡素なドキュメンタリーで、僕はわりとこういうの好きなんですよ。最後のプログラムは、チリのチャナントール山頂に赤外線望遠鏡を設置することについての……ドキュメンタリーとかじゃねえのか、ドラマかよ、ほほー。坂口憲二みたいな感じの俳優さんが出てきて、地元の少年と心を通わせるという筋立て。わりとどうでもいい感じだったけれど、最近はこういう番組もやってるのだなあオリンパスが配給してるんだなるほどなるほどと、プラネタリウムを観るのは15年ぶりくらいだったので、これはこれでえらく感心してしまった。なんだかんだ言ってすっかりプラネタリウムを堪能し、そういえば原広司設計だったんだこの建物と思い見て回ったり屋上に上ってみたりしつつ「ほほう……原広司……っぽい……かもしれんなあ……」と建築学科卒とは思えない感想を漏らしつつ、屋上から見た天竜川方面の景色(飯田の城下町あたりはちょっと小高くなっており、鼎のあたりがよく見渡せる)がいい感じだった。遠くにイオンが見えて、農道を軽トラが走り、鳶が空を飛んでたりするだけっちゃだけなんだけど。

えらく長々書いてきたけれど、まだ見どころあるよ飯田市美術博物館。柳田邦男館および日夏耿之介記念館だ。日夏耿之介飯田市出身だとは知らなかった。柳田邦男がどう飯田に関係あるんだ、たしかあの人兵庫出身だよなと思ったら、婿養子になった先が旧飯田藩士の柳田家だったというゆかりがあるんだそうで。知らなかった。各々の住んでいた家を移築し人となりを伝える感じのなんてことはない施設だったけれども、柳田邦男館には彼の蔵書の一部が寄贈されていたり、民俗学についての書籍が集められている図書室みたいなところがあって、いろんな地方の「○○町史」や「××民俗会報」みたいなのが置いてあったりしたのは面白かった。好きなんですよ、地方の図書館とかでそういうの読むのが。地元のおっさんの趣味が嵩じてそういうのに寄稿してたりもするけれど、こういうのってどういうコミュニティがあってどういう気持ちでやってるんだろうなといつも気になる。インターネットが好きなのと同じような心理なのかもしれないと思う。


そんなこんなですっかり満喫していたらもう夕方、そろそろ例の会合の時間。……なんだけど、ちょっと長くなってきたので今日はここまで。次回、知らないおじさんに囲まれた飲み会、ムラシットはいったいどうなってしまうのか!!!

*1:よくあるじゃないですか、でっかい地図板があって、手元のボタンを押すと街灯箇所のランプが点滅するやつ、あれです

自転車で帰省した話(2日目)

10月18日。

8時半に起床。沼津駅前で朝飯を適当に食って9時過ぎくらいに出発。静岡県内の国道1号はほとんど自動車専用のバイパスらしく、どういうルートをとったらいいのか悩んだけれど、とりあえず380号線沿いを進むことにする。信号も少なく交通量もそれほど多くないのでしばらくは快調に進めたのだけど……富士市に入ってからはそうでもない、というか、どうやって富士川を越えたらいいのかしばしGoogleMapsを見ながら悩んだ。今回の帰省のために(貧弱すぎてまともにGoogleMapsも使えない)iPhone3Gを4Sに新調したのだった。それがここでようやく功を奏した。ありがとう。

でもって、富士山がすぐ近くに見えるということに気がついたのは富士川を渡る直前。そういえば昨日だって見えていたはずなのにぜんぜん気がつかなかった。けっきょくこの日通して、富士山をじっと見つめたのはそのときだけ、富士川を渡る橋の手前、水神社のところで一休みしていたときだけだった。進行方向にあるもの以外を見る余裕なんて、あるわけがない。ここらで10時半過ぎ、再び富士川沿いに太平洋の近くまで下り、国道1号はやっぱりバイパスなのでその横、線路を挟んだ県道396号(だったはず)をずっと進む。あまり覚えていないけれど、由比のあたりはいかにも街道沿いといった風情で、しかも舗装が綺麗でわりあい走りやすかったような気がする。しかしその先を地図で見てみると、あれ……バイパスに合流しちゃう……もう脇に道とかないし……どうしよう……昨日の藤沢バイパスみたいになりたくない……トラウマ再燃……

そんなふうに思ってみたものの、実際に合流地点に来てみると、なんてことはない、バイパス沿いに自転車道が。道、というよりは護岸と道路の隙間をそのまま舗装して放っている感じではあったがぜんぜん問題ないじゃないか!!そんなこんなで12時過ぎには清水駅に着いた。前日は1号線迂回どうしようどうしようと悩んだ区間だったはずなのに、富士川の手前あたり以外は思ったほどルートに不安を感じることもなく、ここまでだいたい40km。清水駅あたりでちょっと休憩。でもって、ここからこの日の目的地である浜松まで、御前崎方面を経由するか国道1号をまっすぐ行くか、つまり、平坦だが遠まわりな海沿いの道を選ぶか、東海道では箱根・鈴鹿に次ぐ難所と言われる小夜の中山を越えるかのどちらかを選ぶことになる。パンを食いながらいろいろ調べてみた結果、バイパスしかなさげな宇津ノ谷峠あたりにも自転車の通れる側道があるらしい上に小夜の中山峠はそんなたいしたもんじゃねえよという話がちらほらしていたので、国道1号そのまま行こうという結論に。さっきからバイパスバイパスと連呼しているけれど、ほんとにこの日はバイパスのことばかり考えていた。そんなこんなでとにかく清水駅を出発する。


で、ここからはしばらく国道1号。とくに何ということもなく静岡を過ぎ、静清バイパス(これも国道1号!)との合流手前、事前にここが美味いと聞いていた麦とろ屋*1で昼飯。たしかに美味いし白飯おかわりもできるしでありがたかった。これが14時くらい、だいたい60km。調べていたとおりバイパスの側道を進む。微妙な上り勾配が嫌らしいなあとか思いながら宇津ノ谷を過ぎ、国道1号から一瞬離れて岡部を過ぎ、また国道1号に復帰。国道1号が現れては消えてよく分からない。大井川を越えるといよいよ峠だ。

……結果から言うと、小夜の中山、たいしたことなかった。いやすいません、半分くらいは押して登りましたけど!それでも30分かそこらでてっぺんまで行くことができた。箱根を越えたことによる精神力の向上!ここらへんで16時過ぎ。ガガガーッと下ってその先、掛川、袋井と寂しい道をダラダラ進む。夕日が赤くてとても大きかった。西に進んでいるものだからずっと目に焼きついていた。走行距離も100kmを超え、磐田市に入ったころにはもう暗い。でも浜松までもう20km、もうなんてこたあねえなと思っていたのだけど……夜の道を甘く見ていた。車道を走るのがやけに恐い。皆さん帰宅していらっしゃるのでしょうか、交通量も多くて、路肩もほとんどなくて……すみません、歩道を走ることにしました。ごめんなさい。ごめんなさい。そいでもって……

コケた。夜の歩道の何が恐いっていくらライトを照らしていても路面の状況が急に変わるのにはなかなか気づけないことで、おかげで完全にタイヤをとられて投げ出されてしまったのだ。ブレーキが壊れた……のは、すぐに直せたからいいんだけど、やっぱり歩道はいけませんねと身に沁みた。いやほんと、よくない。

そんなこんなの這う這うの体でどうにか天竜川を越え、もうやる気もなにも残っておらず、やさぐれながらどうにか浜松に着いたのが19時半。駅前が(駅前だけ)すごく都会だった。10時間で137kmでありました。


でもって、諸事情によりこの後車で長野県へ行くことになるのですが……それはまた次回にしましょうか。とりあえず、今日のところはここまで。

*1:ここです http://r.tabelog.com/shizuoka/A2201/A220101/22000068/

自転車で帰省した話(1日目)

写真もなにも撮っていないのでブログのエントリとしては何も面白くないのですがとりあえず日記だけ。東京から岡山までのうち、とりあえず1日目。東京から沼津まで。


***


10月17日。

下宿を出たのは深夜3時半。本当は5時くらいに起きて準備してから出ようと計画していたはずなのに。前日は早く眠らなければ早く眠らなければとそればかり考えていたけれど、けっきょく一睡もできなかった。元気な17日のうちに箱根を越えようという予定だった。はじめてのことだからどのくらい時間がかかるか分からない。分からないから不安になる。不安になって眠れなくて、それじゃあ「元気な一日目のうちに」なんてできるのかとさらに不安になる。くよくよするのはやめよう、とりあえず早く出れば早くには着くのだろうということでとりあえずもとりあえず、家を出たのが3時半。

東海道を行くならとりあえず日本橋から出ねばなるまいと日本橋。深夜というか早朝もいいとこだったから自動車もほとんど通らず、また都内だから街灯も多い。これは快適で、けっきょくこれより快適な道は最後までなかった。この調子で行けば意外と楽勝じゃねえかと一瞬考えたけれども、いや、実際そんなことないぞ、サイクルコンピュータの距離がいっこうに稼げない。下宿から小田原まで100km行かなきゃなんないのに、10kmほど走るのだって長く感じる。目的地が遠いからまったく進んだ気がしない。東京を出るのにも一苦労だ。川崎を過ぎたあたりで夜が明けてきて、横浜まで行ってようやく40kmほどだったか。

6時半に保土ヶ谷あたりで最初の休憩。朝こんなに早い時間だというのに、早くもこれ、やめておけばよかったんじゃないかと思いはじめるがもうどうしようもない。コンビニでおにぎりを買って店の前で食い、さっさと道路に戻る。そこから一号線をそのまま、戸塚を過ぎ……れない、すっかり忘れていた、有名な戸塚の開かずの踏切、ここって一号線(の旧いほう)と東海道本線が交わるところだったのか、と、カンカン鳴る踏切を前にイライラを募らせる。はじめはどこか迂回するよりは待ったほうがいいだろうと思っていたのだけれど、ぜんぜん開かない、仕方ねえクソどっか迂回しようと思ってくるりと逆を向いたちょうどそのとき一瞬だけ遮断機が上がる。向こうからおっさんが走ってくる。音は止まないけれどもうここで突破するしかないというわけで、なんとか渡って、通勤で軽く渋滞する一号線をゆっくり走る。上りが既にキツい。そしてどこでどう間違えたか藤沢バイパスに入りかけてしまい(自転車侵入禁止の標識がなかったというか、いつの間に入ったのか記憶がない)横を高速で通りすぎる自動車に肝が冷える思い。トラウマになった。「死ぬ!死ぬ!」と言いながらなんとか出る道を見つけ迂回。もう二度とこんな道通りたくないというのが以降の指針となる。登校する小学生を横目に「もういやだ……もうあんな道いやだ……」と呟きながらどうにか進む道を見つけつつ一号線へ復帰し、茅ヶ崎あたりのマクドナルドで本日二度目の休憩。これが8時くらい。小田原まであと30kmほど。

茅ヶ崎 - 小田原間はたいして面白いこともなく、まだ着かんのか、もう着くだろ、まだなのか、と思いながらひたすら進む。なんだか自転車乗ってるおじさんがたいへん多い地域だったような覚えがあるが、それ以外に覚えてることがアップダウンが多かった(と感じた)ことくらい。既に疲れていたんだと思う。箱根に向けた昼飯のために小田原駅に着いたのが10時半。さすがに4時前に出ただけあって予定よりもずっと早い到着であった。うどんを食べて眠くなりつつも、まだ午前中(100km走ってきてまだ午前中なのが不思議な気がした)だということから箱根越えに楽観的な空気が広がる(自分のなかで)。

11時半くらいに出発。今日の、そしてこの帰省でいちばんの難所であろう箱根越えをはじめる。登山鉄道では湯本あたりまでしか行ったことがなく、湯本がこんなに近くにあると知らなかった。箱根駅伝だって、正月になんとなくテレビに映っているだけ、ときどき目にするけれども、最初から最後までちゃんと見たことがあるわけでもなかった。湯本がこんなに近いのなら案外たいしたことがないんじゃないかと思ったけれど……当然甘い。甘すぎるわ!!!!

実際ここから宮ノ下までが精神的にはいちばん辛かった気がする。山のなかの九十九折りを、もう乗ってなんていられないと、8割がた押して歩いた。バスが横を通る。立ち止まってニヤけた視線を送ってみたりしたけれど何にもならない。しんどい。死にたい。死ぬ。と思いながら宮ノ下に着いたのが13時半。正直どこに最高地点があるのかよく知らなくて、もうこのへんだろう、いやあ、よくがんばった、これはキツかったなあと思ったのだけれど……当然甘い。甘すぎるわ!!!小涌谷を越えて(宮ノ下から小涌谷あたりまでは人の気配が濃くていささか楽だった)ふたたび何にもない道を上っていく。もちろん押して。たまに乗ってもすぐヘタれる。あのカーブをこえたら最高地点(看板があるらしいというのは知っていた)だろう……ない……あのカーブをこえたら……ない……というのを繰り返し、けっきょく最高地点に着いのは15時過ぎ。よくわからん笑いが漏れる。「874mて!アホか!アホやな!アホだ!!ゲラゲラゲラ!!!」気違いみたいだった。一人でよかった。

そこからいっきに下り。あれだけしんどい思いをした後だから爽快感が半端ではない……が、それもあまり長くは続かず芦ノ湖畔に到着。ここでちょっと団子でも食おうと休憩をとる。標高のせいもあるし、漕がずに風を切って進んできただけっつうのもあるし、時期が時期だからやや日も傾むいてきつつこともあって、やや寒い。30分ほど休憩するも、おい、ここからまた上るなんて聞いてねえぞ。結果的にたいした上りではなかったのだけど(と言いつつしっかり押して上ったんだけど!!!!!!)、もう下りしかないんだろうと思い込んでいただけに精神的ダメージはなかなかのものだった。そして「箱根峠」の交差点。いつの間にか16時もずいぶん過ぎてた。

ここからの下りがやばい。10kmか、もっとあったかもしれないけれど、ずっと急峻な下り、ゆるいカーブ、広い道、自転車で50km/hを超えたのはさすがにはじめてだった。風が強いこともあって緊張感を強いられもしたが、それでも、このためだけにもういちど箱根を登るのはアリなんじゃないかと思ってしまった。それくらい苦労が報われた気がした。すごかった。

下りでなんだか元気が出つつ、三島過ぎたあたりで、日が暮れてきたなあ、みたいな気分、そんななかをゆるゆる進んで17時半に沼津駅着。飯食って(魚が美味いらしいというので奮発した)、ネカフェ泊。前日眠っていなかったのもあり一瞬で眠れてしまった。


3時半発18時着の、休憩含めて14時間半。146kmでした。

みんな〜、文学フリマの告知だよ〜☆

今日は宣伝です。手短かに宣伝をしておこうと、そう僕は思っているんです。つまり、文化の日、そして我が両親の結婚記念日にもあたる11月3日、平和島に御座す東京流通センターにおいて催される代十三回文学フリマにおいて出展される同人誌に僕も小説を寄稿させていただいている、と、ですからぜひ読んでくださいね、と、そういう話をしようと思っているんです。

どこで何を買ったらいいのでしょうか

B-10: 暁Working*1
新刊、「littera3」です。
murashitさんの小説のタイトルは「これは自伝です」という身も蓋もないものです。よろしくお願いします。

ちなみに僕は当日行けません。悔しい。

どんな本ですか

っていうか、そうですよね、どんな本か分からなきゃなかなか買う気にゃなれませんよね、漫画のようにある程度さらりと判断ができるわけでもなく、批評誌のようにテーマで興味を持てるでもないのですから(この本はそのどちらでもありません)難しいものです。

そんなわけですから、内容に興味を持っていただけるよう、すこしだけ各稿についての僕の感想を書きつけておきたいと思います*2。もしこれで興味を持たれましたらぜひ当日ブースまでお越しください。

ちなみに僕は当日行けません。悔しい。


というわけで、以下感想。

埋もれる檻 - @yuurika

主人公の少年が家族と廃墟にゆっくりと蝕まれていく様が、するどくつめたい、抑制の効いた文体で描かれる、やむことなく膨らんでゆく不安に、読んでいる自分まで徐々にとり込まれていく、そんなお話でした。
少年期に、家族のことをなにか呪縛のようなものとして考えたことのある人がどれだけいるのかは分かりませんが、もしもあなたが、ちょっとでもそういうことを考えたことがあるならば、思い出してみてください。家庭という空間そのものからどう足掻いても逃れることはできないのだと絶望したことがあるかもしれません、あるいは、たとえ直接的なそれから逃れられたとしても、なにか呪いのようなものは残るのだと、それは無駄な足掻きなのだと、諦めのような気持ちを持ったことがあるかもしれません。
もちろん結局のところ、そんなものからはすこしでも、あるいは完璧に自由になれるであろうと希望を持ちつづけ、実際その通りになったり、それは「呪縛」などと呼ぶような暗くてどろどろとしたものなんかじゃないと考え直すに至ったりすることが大半でありましょう。
けれどここでは……

カレイドブルー転生 - @tsuitakotonasi

「ミイラ化した人魚の手」みたいな妙なモノっての、テレビとかでたまに出てくるじゃないですか(じゃないですか話法)。まさに、それにまつわる因縁のお話。
まず前半、戦後すぐくらいまではまだ残っていたんじゃないかっていう、まったく閉鎖的な田舎における奇譚として、人魚伝説として、たいへん面白く読みました。異形と徐々に心を通わせる少女、そして予想どおり血腥い結末を迎えたように思えた……のだけれど……それだけでは終わらないんですよ。
というか、もしかするとこの前半部分は、これを活かすための前置きだったんじゃないだろうかと思うくらい(というかそうに違いない)。とりあえず多くは語りません、美しい百合をほんとうにありがとうございました。

誰彼ラジオ彼誰ノイズ - @noir_k

全体的に重苦しい雰囲気を漂わせる今回のこの一冊においては抜群に爽やかでありました。自分を、相手を、そしてあるいは、unidentified であることこそが identity である unidentified flying object を identify すること、そういった、自分と外界との、他でもないあなたと赤の他人との境界について考え、区別しようとしたりしなかったりってのは、言ってみれば古典的なテーマではあるのかもしれません。
ただ、そうはいっても、そんなに拘ったりはしない、ちょっとした思考の寄り道の小気味よさも伴いつつ、心地良い風に吹かれてる楽しみみたいなものを感じるよな、そんなお話。

ながい ながい ながい ねこ - @sunface

どうたいを ずっと ずっと ながく のばすことの できる ねこの おはなし。しあわせを さがしに とおくの ほしへと どうたいを のばすのですが ……

もしもいつか僕に子供ができたなら、読み聞かせてあげたい。もしも僕に絵心があったなら絵本にだってするのに!

生活愛してる - @hetaremozu

そしてこちらは短歌。
「星野しずる」ってご存じでしょうか。端的に言うと、短歌生成スクリプト。とりあえず下のリンクをクリックして見ていただければ、すぐにどんなものか分かっていただけることと思います。
http://www17.atpages.jp/sasakiarara/sizzle/
でもって、この「生活愛してる」という小歌集もまさにそれ。短歌生成スクリプトを自分で作り、かつ(ここが大事なのですが、というか、このためにスクリプトを自作したとのことなのですが)そのスクリプトの結果に人間の手を加えて手直ししてやるぜ……!という企画です。そうだ、共作だ。
僕自身こういった機械がなにかを自動的に創りだすっていうことにたいへん興味があって、自分でもいろいろ試行錯誤していたりもするため、最初にスクリプトが吐き出した短歌からどんなふうに手を加えたかについて、いくつか例を挙げて説明しているくだりも興味深く読むことができました。
せっかくなので、僕が気に入った歌のうちのひとつだけ、ここに引かせていただきます。

あのひとの肋骨に還れ。ベランダで煙草を吸っていた女だろ

paranoid - @uinyun

とある保存則についての、みじかいみじかいお話。
そんなみじかいお話だからというのもあり、詳しくは語りませんが、ふと気がついた違和感が、ついには心地良く肯定される瞬間がたまりませんでした。

冷血 - @fuminashi

女子高生が修学旅行へ行く。そんななかで女の子どうしの甘酸っぱい感じがあればだいたいもう僕としてはごちそうさまですといった感じなのですが、いきなりそんなこと言うのも失礼というものでしょうか。
なんだろう、等身大の(古くさい言い回しになってしまった)女子高生という感じがすごくするんですよ。変な話なんですが、たとえば僕や、他のどっかのおっさんでもおばさんでもいいんですが、そういう人が頑張って「女子高生はこう考えてるに違いない!」って女子高生を描いてみようとしたところで、こんなふうに自然な女子高生って想像できないと思うんですよ、想像できないにも関らず、「あっこれ女子高生!」って思う。思った。思いました。ごちそうさまでした。

And Now The Day Is Done - @Anklang

親族の不幸による里帰りと、それにともなう友人の墓参り、そこでいろんな人と喋る、おおまかに言えばそんなお話。
他人というものが「理解」できるかできないか、完全に白黒つけろって言われたならばそりゃ「できない」と答えるのが正しいでしょう。そのときの「理解」の定義はむずかしいのですが、例えばイーガンの「ふたりの距離」を知っている方はそれを思い浮かべていただければなんとなく分かっていただけると思うんですが、完全にその他人になりきって、かつ自分の記憶や意識を排除しなければ、完全に同じことを腹から考えることなんてできない。部分的な理解だってそうだ。その人の思考なりなんなりってのはどうあっても絡み合っているものだから、やはりそれを一つ個別に取り出すことが理解であると言ってしまっていいのか、それはちょっと傲慢にすぎる話なんじゃないかと、僕は思うわけです。それは、近しい親族であっても、いつもいっしょにつるんでいた少年時代の友人であっても。
もちろん、だからといってそれを諦め開き直ろうぜなんて言うつもりはありません。実務的にはどうしても、できるだけ擦り合わせるなり、それができないとしてもとりあえず場所だけは認め合ってやろうとか、まあその、いろいろやりようがあるし、その必要があるわけです。「理解」ってのが究極的には不可能であることを分かった上で。
で、あるからこそ、その運動、理解してみよう、理解したいという動き(と、時にはその挫折や諦め)ってのは、自分がやっていてもそうですし、他の人がやっているのを見ていてもそうですし、とても面白いものだと僕は考えます。そうですよ、好きなんです。
その理解への運動をはじめるきっかけはなんだろう(ジェネレーションギャップを感じたとき?もうその人と会えなくなったとき?同じものを見たいと願ったとき?)、どのように自分の気持ちと折り合いをつけるのだろう(葬式や墓参りというのは、そういえば、そういうものでもあるはずです)、ある程度でも理解を達成できたと思うのはどんなときだろう、それが実はまったく外れていたのだと知ったときの居心地の悪さとはどんなものだろう、まったう理解し合えないと感じるのはどんなときで、それでいいのだと思えるのはどんなときなのだろう。
……このお話は、だいたいそんなふうなことを書いてるんじゃないかな。

これは自伝です - @murashit

いちおう自分のもってことで、主宰の暁さん(@aquirax_k)の感想を引いておきます。

人が望むような文章は書かず、あえて心ない文章をあえて馬鹿馬鹿しく書く、というのは本当に徒労でしかないひどい言い方をすると誰も喜ばないしろものだと思うのですが、僕が注文したのは村下氏の自伝なので、今回の小説は自伝であると認識して読むと、最後のセンチメンタル過剰の部分で多分彼の人柄を知ってる人は感動するかもしれません。なんか含みのある言い方になってるなぁ(笑)馬鹿馬鹿しい文章の中に時に本音を入れるというやりかたは中原昌也氏の専売特許といえるやり方だと思うのですが、それは今回かなりうまく出来てると思います。

とのことです。



なんやかんやで長くなってしまいました。とりあえず以上です。

ちなみに僕は当日行けません。悔しい。

*1:どうでもいいですけどこのサークル名大丈夫なんですか

*2:寄稿者のみなさま、勝手なことばっかり言っててごめんなさいね……

あなたのための物語 - 長谷敏司

小説を書くワナビについてのお話でした。


あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)


でしたよ。人工知能SFなんだけども、その人工知能に付けられた名前が《wanna be》で、何のために生み出されたかといえば、それは物語を書くためであって。したがってさきほどの紹介はなにも間違っていないんだ……!!


それはそうと。

このお話は「死に直面した、人工知能研究者である人間」「ITPという神経科学技術によって生み出された、身体を持たない人工的な知性」を二人の主人公として置いています。したがって、人間のもつ"自然な"人間性をそれぞれ微妙に回避し*1マージナルな部分から身体性および人間性とかいううさんくさいものを描きだそうとしているわけです。さきに言ってしまうと、そうして至る結論は、イーガンや、そしておそらく伊藤計劃よりも人間に同情的と言ってよいものだと僕には感じられました。

それはもちろん、開発段階にある技術を描いており、しかもその理想的な形を既に構想しているにもかかわらず実現できるはずの時間が残されていない状況に不条理にも陥ってしまった研究者が主人公である、そういうもどかしさから来ているところが大きいのも事実です。さらには、倫理の箍のはめ方がSFと聞いて想像するそれよりもやや不自由にも感じられるため、イーガンのような一般化された説得力にはやや欠けるといった理由にもよるのでしょう。

ただやはり、いくら技術が革新していっても、死、欲求、都市、物語(あるいは信仰という、いずれも「逃げ場」)たちが旧時代という速度のもつ慣性のままにいつまでも取り残されているさまが示されてしまうと、物語の/愛の駆動に組み込まれた《彼》は道具でも人間でもない、宙に浮いたなにものかになってしまうと考えざるをえない。物語はシーケンシャルな出来事に意味を見出すもので、それは目的のために生み出された道具にはないよ、それは死で終わるんだよということになれば、なるほど"知性"の定義はそこから発することになる、それは異種の知性として尊厳を備えてしまう……と、やや過剰に読み取ることも十分に可能な説明がなされているわけです。やっぱ人間賛歌やん。


……ちょっと言いたいことが分からなくなってきましたので別の話をします。

いきなり難癖をつけるようですが、このお話、なんだかアイデアが過剰に詰め込まれている、悪く言えば散漫な印象を受けたんですよね。最初にも書いたとおり動機としては単純なんですが、そこから思考の枝がほうぼうへ伸びまくっててストーリーというよりそれら展開された枝々の結実をひたすら見せつけられ続ける感じ。

いちいちアイデアを挙げていけばキリがないんですが、文化の慣性力であったり、プロテストとしての科学(という、皮肉にもそれは「物語」)であったり、ITPの問題にたいする主人公の出した解であったり、逃避としての物語であったり、ITPを用いた、既に記録あるいはプログラムされた情動を脳内で再現するという人工人格(ってちょっと分かりにくいですけど、仮にこう言っておきます)であったり、灰色の死であったり……エトセトラエトセトラ。それぞれが一つの大きなテーマとして扱うことのできるくらいの強度を内包しているのだけど、それらはあまり深められず、またそれほど統合されることもなく、直接的である種卑近な表現に留まっている。

このような欠点というのはじつは《wanna be》のもつ本質的な欠点(=「平板化」)としてお話の中核に据えられているものとよく似ていて、なるほどそういう構造を持っているのかという納得感はありました。


うーん、まとまらないんですが、ちょっとこのへんで、すみません、投げさせてください。再読しないと把握しきれそうにない。

とにかく相当に考える種の詰まっている、たいへん面白い小説でありました。おすすめです。

*1:肉体の死に直面することで理性的な思考から逃れるさまは、たしかに広義に「人間的」ではあるが、人格的ではない。逆に、人工知能ってのは、人格が模されているものの、人間的な肉体を持たないし、本質的に有用性を備えた道具である

紙の民 - サルバドール・プラセンシア

ドンキホーテの昔から、それは。


紙の民


筋書としては、小説の登場人物が、これ以上俺のことを監視し運命をいいように扱うのはやめろよ!と、著者に対して反乱をしかける、というもの。分かりやすいといえばその通り、たいへん分かりやすい話にみえます。マジックリアリズムとはちょっと違うような気もするんだけど、そういった小説でちょこちょこ出てくるような不思議がガシガシ出てきて、まずそういう面白さがあるのだけれど――

――普通だったら、わりと笑えるんですよね、そういったものって。もちろん時には感傷を高めてくれる役割を果たすこともあるんだけれども、やっぱり「馬鹿馬鹿しい!ゲラゲラ!!」みたいなところが主だと思っています。すくなくとも僕はそういう読みかたをする。なんだけれども、この本のなかではそうはいきません。なんたって、主人公(と言っていいと思う)であるところのフェデリコ・デ・ラ・フェ(寝小便の人)と、著者=土星であるところのサルバドール(背が低くて包茎)の両人が(ついでに言えばフロッギーとか他にも何人か)、妻/恋人に逃げられてる。お話ぜんたいがこの失恋の悲しみってものに貫かれているため、どこを見てもなんだかもの悲しく切ないし、すごく情けない。そういったイメージが、こと細かで現実にありそうな描写ではなく、奇天烈なイメージの具現化、および、ちょっと変わった版の組み方を通して描かれています。


で、フェデリコ・デ・ラ・フェにとってそんな不条理なこと(妻が逃げた!)が起こった原因はと言えば、そういった悲しみを商品化しようとする著者であるところの、空から見守る土星の野郎なわけです。じゃあ戦争だ!という話になる。そこでまた悲しいんですが、この本が書き上げられている時点で、それが負け戦に終わってることは間違いないわけです。最後まで読まなくてもそれは分かっている。負け戦を、それでも無理して戦ってるんですよ。悲惨じゃないですか。それも、(第一部では)著者=土星に見つからないように鉛で自分たちの家を囲い、外に出るときには「小説にならないような単純なこと」を考えるという方法によって。

そして、中盤ではそれがある程度うまくいったように見えるのです。実際はそれだけじゃなくて、著者=土星の側が失恋の痛みに耐えかねてこの小説を書くのを半ば放棄してしまうからなのですが。そこからが第二部で、著者=土星の側のお話が主として描かれる。ただ、こちら側の世界も、じつは小説のなかの世界とびみょうに交じりあっていて、空の上なのかと思いきや、そうでもなかったりして、やっぱり不思議な世界ではあるのですけれども。でもってこの著者=土星がまた情けねえんだよなあ!ウダウダ言ってんじゃねえよもう!!みたいな感じではあるんですが、個人的にはすごい、なんか、責められない感じがしてしまったことをここにこっそり認めておきます。最初にも書いたような、その情けなさが良かったっていうのは間違いなくある。これ、こないだアレクサンドリア四重奏(ジュスティーヌ)を読んだときもそうだったんですが、もしかしたら僕が好きなだけなのかもしれない。しかもこいつ(こいつ呼ばわり……)、もっぺん失恋したりするので、踏んだり蹴ったりです。そりゃそうでしょうよ、著者はそれでも小説を書くんだから、その相手とどんなセックスをしたのかまで世界中の人に知れわたっちゃうし、嘘はつくし、勝手に死んだことにしちゃったりするし、ひどいもんな。

とはいえそれを怒りに変えて、著者=土星は戻ってきます。そして最後の戦いだ。思考を黒塗りにして読めなくしたり(このくだり、フェデリコ・デ・ラ・フェの娘の場面なんですが、わりと泣きそうになってしまったくらいよかった)、あるいは、とにかくいろんなことをしていろんなことを考えることで(としか言いようがない)著者=土星による語りのスペースを小さく押しやってしまったり。まあいろいろあって、結局は先にも言ったとおり、当然著者=土星の勝利で終わりはするんですが――けっきょく失恋の痛みなんてものは癒えるわけもない。それは登場人物たちにとってもそうです。書かれたものはもう取り返せない。あるいは登場人物たちの側が勝利していたとしたならば、最初からご破算、なかったことになるのかもしれませんが、実際そうはなっていなくて、だからこそ僕たちはこうしてこの本を読んで、したがって僕たちのなかに彼ら登場人物が生きづいたわけですし。


こうして長々とあらすじを説明してきたのですが、いくら小説を書いたって、著者に戦いを挑んだって、変えられないものは変えられない、そういった悲しみがあることが、痛いほど感じられる。ループなんてできない。物語は線形に進み、読者だってそれを忘れることはできない。組版メタフィクションと寝小便とライムとノストラダムスと紙の民とレタス収穫労働者と鉛の甲羅と火傷とカーネーションと聖人と白人の男と灰と蜜蜂と戦争と基金と奇跡と光輪と数学と農学と空とマスクと凧と熱と修道士とジプシー女と土星と手紙とナポレオンと包茎と……のすべてが説明してくれるのは、失恋の悲しみ、失恋の悲しみ、悲しみ、悲しみ、悲しみ。

ただ、誰にもほんとうの未来のことなど書けないし、物語の終焉を迎えたいま、土星の監視下から去った登場人物たちの未来も描かれない。最終段落に至って、それは恐しいことでもあるのですが、あえて希望と呼ぶべきことなのかもしれません。