『ライザのアトリエ』における複数の「時間」

Twitterで考えながら書いていたこと(以下のスレッド)を整理したエントリです。

https://twitter.com/murashit/status/1404730372273762306

あらかじめことわっておくと:

  • アトリエシリーズはエリー以降やったことがない、つまりシリーズ他作品でどうなっているかは、ごめんなさい、知りません……
  • 当のアトリエシリーズを含め(以下で説明しているような特殊性をおびた)類例はほかにもあると考えられますが、おれ、そんなにゲームやってないので……

また、この話をもし本作全体の評価につなげるのであれば、最後のほうで言ってる「そのほかの要素とあいまって」の内実やガスト制作チームの意図あたりを詰めなければならないのですが、それはさすがに自分には荷が勝ちすぎる(し、その情熱もねえ!)。ということで、ほとんどこの2つ(以上)の「時間」についての整理のみです。

あと、ネタバレもある……かな。

TL;DR

『ライザのアトリエ』では、ゲームシステムとしての「昼夜のサイクル」という「時間」と、ストーリー全体を内包する「ひと夏の物語」という「時間」とが噛み合わないさまがそのままプレイヤーの前に露呈している。

こうした複数の「時間」の噛み合わなさは多くの(ストーリー性のある)ビデオゲームにおいて見られるが、一般的にはそれをプレイヤーに意識させないような「配慮」がなされている。これに対し『ライザのアトリエ』ではその「配慮」がほとんど行なわれておらず、結果としてプレイヤーが両方の「時間」をシリアスに、かつ同時に受け容れなければならなくなった。

ところが、それが本作が意図しているであろう「田舎の島っぽさ」「ひと夏の濃密な体験」「小規模だけど大冒険」といったテーマをより強く感じさせることにもつながっている。

『ライザのアトリエ』とは

『ライザのアトリエ』は、ごく小さな田舎の島(ラーゼンボーデン村)に暮らす「なんてことない普通の少女」ライザが、親友やライバル、新たに出会った仲間たちとともに冒険を通じて成長し、ついには世界の危機を未然に(かつ密かに)防ぐ……といったストーリーのゲームです。お話の始まりからエンディングまでの期間はおおむね「ひと夏」、すなわち数週間から1〜2ヶ月程度(おそらく100日には満たないであろう期間)1と推測され、移動範囲もその「田舎の島」から徒歩で行ける程度に収まる、ある意味で小じんまりした話といってよいでしょう。

ストーリーはそれでよいとして、ゲームシステムについてはどうでしょうか。以降の議論に関係のない錬金術やバトルのシステムについては措くとして、「時間」に関係するものとしては……探索や調合を行ううちにゲーム内時間が経過し、それにともなって昼夜のサイクルが繰り返される一方で、ゲーム全体での時間制限などはなく「日付」も表示されない、という形をとっています。深夜になると街から人がいなくなったり、雨の日や夜には敵が強くなったりと、(本作はオープンワールドではないものの)オープンワールド系のゲームでは珍しくないシステムですね。ベッドで眠って時間を飛ばすこともできるんだ。

ビデオゲームは時間をごまかす

ここまでの説明ですでに「あれ?」と思った方もいらっしゃるでしょうが、そうです、ストーリー全体は「ひと夏」の話としてまとめられている一方で、ゲームシステムとしては何百日とその「ひと夏」を続けることができます。逆に言えば、システムのうえで何百日が経とうとも、それらはすべて「ひと夏」に内包されてしまうのです。

とはいうものの、ビデオゲームにおいてこれはべつだん珍しいことではありません。たとえば昨年いちのビッグタイトルであった『Cyberpunk 2077』だって、「病気」(ボカした言い方)の進行によるタイムリミットがあるはずなのに、それをほっといてナイトシティで好きなだけ過ごしていられる。『Final Fantasy Tactics』だって歴史もののはずなのに、ゲーム中のマップ移動で日数が経過するものだから、やろうと思えばアグリアスさんを100年以上生きながらえさせることだってできる。こうした例は枚挙にいとまがありません。ビデオゲームというのはもともと「そういうもの」であって、「おいおいサイバーパンクライフ満喫してる場合じゃねえだろwww」みたいなのは(たいていの場合)無粋なツッコミなのです2。だってさ、ほんとに「病気」にビクビクしまくるよりも、サイバーパンクライフを満喫できたほうが楽しいに決まってるじゃないですか。そしてぼくたちは、そうやって飽きるまで満喫したあとに、それでも物語としての結末にしんみりしてしまいもするのです。

『ライザのアトリエ』における4つの「時間」

というわけで「よくあることならそれでいいじゃない」で話は終わってしまうように思えるかもしれませんが、ここからが本題です。

それにあたって、まずは上述した「ストーリー全体の期間」や「昼夜のサイクル」を含めて、本作における「時間」を次のとおり整理しておくことにします3。なお、箇条書きの2階層目にまだ詰めきれていない雑なアイデアも含まれていますが、このへんは以降の話には直接関係してこない、はずです。

  1. 現実の時間:プレイヤーにとっての現実の「時間」
    • 「今日は30分ほどライザやろうかな!」とかいうときの「30分」はこれ。ゲーム内の(虚構の)時間ではないのですが、以降のベースとなる部分なので最初に置いておきます
  2. 動作の連続性にもとづく時間:キャラクターのアクションから認識される「時間」
    • たとえば、スティックを倒してライザに「歩く」という動作させたとき、まるで早送りしているみたいに見えたりスローモーションに見えたりしたら違和感を覚えますよね。本作のように「3Dモデルを動かす」ようなゲームにおいて、プレイヤーはおおむね「画面のなかでも現実世界と同じはやさで時間が経過している」と素朴に認識しているはずです。このときの「時間」は(ちょっと感覚的な物言いになってしまうのですが)画面内での「動作の連続性」に支えられているように思えます。(もっと言えば、2Dで離散的に移動するゲームにおいて、「右ボタンを押せば右に1マス移動する」から感じる「時間」もおおむねこれにあたるはずです)
    • そして、当然ながらこれは虚構です。動作が連続して見えるように、かつそのスピードが1と同期するように、うまく作られているからにすぎません。ここでは「わたしが右手を挙げる動作をあなたが見ているときに、時間の経過を感じる」ことをシミュレートしているのです
    • この構図が意図せず崩れるケースとして、たとえばなんらかの理由で処理落ちが発生してしまったような状態を考えてみるとわかりやすいかもしれません。また、たまに見かける「倍速モード」や、アクションゲームでのバレットタイム演出みたいなのもこの1と2の同期のズレにあたりそうです
  3. 単位が繰り返されるものとしての時間:ゲーム中の昼夜の繰り返しで認識される「時間」
    • これは先述したとおりです。(相対論的な話は置いといて、日常的な直感のうえでは)時間は一定のスピードで「流れて」いるとわれわれは認識しています(2の時間の感じ方も、この直観と因果あたりがもとになっているはず)。そして、それを「単位」に分割することで、「経過した時間」を測っています。単位があるからこそ、ある程度の客観性をもって「これこれの期間が過ぎた」と考えたり、コミュニケートできるんですよね
    • 一定のスピードで流れているということは、「単位が繰り返されていること」と言い換えてもよいでしょう。「日」や「年」といった単位は、まさにそういった繰り返しのひとつひとつを数えているわけですし
    • これは本作のように昼夜の繰り返しとして表現されたり、ゲーム内の「時計」をとおして表現されたりします。そして、そのサイクルのなかで2の意味での時間経過が積み重なることにより、ゲーム内環境の不可逆な変化が引き起こされることになります。「サッカーゲームの一試合はほんとうの90分ではない」というのはこれと1/2のズレ(1と2は同期しているがそれらと3が同期していない)として考えられるかもしれません
  4. 物語としての時間:ストーリーのなかで経過する、「ひと夏」と認識される「時間」
    • これも先述したとおりです(われわれが過去を思い出すときなどにはこれに近いことをしているような気もするしそうでもない気もする)。多くのゲームでは、これはメインイベントの連なり(とその描写のなかでのゲーム内環境の変化)によって表現されることになるでしょう
    • もちろん、こちらもある意味では日常的な感覚にもとづくものではあります。なんの説明もなしにそれとは異なる時間の進み方などなどを想定するのは「ふつう」ではないでしょう。「この世界では夏が5,000日あるよ」とか「商談をまとめる際の話の進みがめちゃくちゃゆっくりなんよ」とか「この世界の人間は200年生きるんよ」(実際リラさんは長命種なんですけど)とかわざわざ考えることはしません。これはフィクションを理解する際の一般的な態度ではあるはずです

めっちゃ長くなってるな……。ともかく、今回問題にしたいのは、このうち3と4の「噛み合っていなさ」ということになります。

調停されない「時間」、その効果

この3と4の「噛み合っていなさ」については、繰り返しになりますが、ビデオゲームにおいてべつだん珍しいことではありません。われわれはふだん、「それはそういうものだ」と気にせずにプレイしています。というのも、あたりまえといえばあたりまえなのですが、たいていは「それはそういうものだ」と思えるように作られているからです。

たとえば……再び『Cyberpunk 2077』を例に挙げてみると、たしかに「病気」の進行による「タイムリミット」はあるとされているのですが、そのリミットが「何月何日である」あるいは「(おおよそ)何日後である」とは明言されないのですよね。メインクエストの進行によってナイトシティは変化していくものの、結末に至っても、「じゃあ具体的に、どれだけの時間が経ったのか」については、実はかなりボヤけたままです。たしかに、よくよく考えてみたらおかしいんですよ。おかしいんですが、一方の「時間」にのめりこんでいるうちにはもう一方の「時間」のことを忘れられるような、最低限の配慮はされているように見える。であるからこそ、「時間」のことなど気にせず、頭を切り替えつつプレイできているのです。

一方われらが『ライザのアトリエ』についてはどうでしょうか。本作の場合、そのあたりを配慮しているようにはみえないし、もっと言えば、3と4を両方同時に受け容れさせようとしているのではとさえ思えるんですよね。いくつか挙げてみると:

  • モブキャラたちはおおむね3の昼夜のサイクルにのっとって生活しており、それがサブクエストにも影響してくる(たとえば3の意味で「1日」が経たなければ、続きのクエストが発生しなかったりする)。じゃあモブキャラが暮らすラーゼンボーデン村の表現において3が支配的なのかといえばそうではなくて、このように昼夜があるからこそ、4とつながる「変わらない田舎の島の夏」の雰囲気が強められてもいる
  • ライザの錬金術師としての成長の速さは、(現実世界の常識で考えれば)4の「ひと夏」ではちょっと考えられないくらいものすごいスピードである。ただ、3の意味で何百日も経過してるのであれば違和感はない(いつもの?アトリエだ)。しかしそれでも、その成長があったからこそ4という限られた時間のなかでハッピーエンドに辿りつけたこともたしかである。子供時代の夏の記憶といえば「ひと夏だけなのにものすごい密度があった」ように感じられるもので、それがノスタルジーをかきたてもするものだが、ここでは文字どおり「ものすごい日数」が経っている。結果としてはその夏の「濃密さ」の演出にもなっている
  • ピンチに陥ったキャラクターを「急いで」助けに行くメインクエスト(つまり4におけるイベント)があるが、その準備のための素材集めや錬成に3の意味での何日をかけてもまったく問題ない。そのうえ、助けるための目的地でさえ、普通に歩いていくには3の意味で何日もかかる距離だったりする。けっきょく(かかる「時間」で測るという意味で)「どのくらいの距離か」がわからないのだけれど、それによって「小さな島」のなかで「大きな冒険ができている」という気にさせられる

たぶんこの、「田舎の島っぽさ」「ひと夏の濃密な体験」「小規模だけど大冒険」って、いずれも本作の意図するところなんですよ。実際にそれが感じられる良いゲームなんです。そして、もしこれらの「噛み合わなさ」がなかったとしたら、もしほかのゲームと同じくらいの「配慮」があったとしたら、おそらくここまで強く「田舎の島っぽさ」「ひと夏の濃密な体験」「小規模だけど大冒険」を感じられなかったんじゃないかと思ってしまうんですよね。

もちろんこの「噛み合わなさ」があればいつでも効果をあげられるってものではないでしょう。そのほかのさまざまな要素とあいまって、そのように感じられているのだと思います。それに、ほんとうに「3と4を両方同時に受け容れさせようとしている」、つまり製作者たちがはじめからそのように意図していたのだとも思っていません(結果的にそうなっていたから、「配慮」せずにおいた、くらいはある……かもしれない)。

ただ、いずれにせよ、ぼくはこの噛み合わなさがゴロっとしているようすに、なんだか感心してしまったのでした。

2021/7/8追記(参考文献について)

すこしだけ日本語を修正。あと、(このエントリのTwitterでの告知につなげたスレッドでもちょっと触れているのですが)『ビデオゲームの美学』(ビデ美)の時間について触れられている章がわりと参考になりそうだったことを思い出したので、ここにも書いておきます。

まず、このあたりの話に興味がある方はなにより『ビデオゲームの美学』を読むことをおすすめします。今回のエントリで用いた分類とはまた別の視点からの整理がなされていますし、(学術書なので当然ですが)きちんとした議論がなされています。っていうかべつに時間の話だけでなくゲーム全般についてふつうにおもしろいおすすめの本です。

そして、ここで紹介されていた文献のうち Zagal, José P., and Michael Mateas. 2010. “Time in Video Games: A Survey and Analysis” についてはタダで読めるっぽいです。しばらく放っていたのですがさっきやっと読んだので追記しなきゃと思ったのでした。ここで行われているTime Frameの分類もやはり、今回の分類と(多少援用できるとはいえ)完全には重ならないのですが、「噛み合わなさ」についていえば本論文で触れられているTime Anomalyの一類型として考えることができそうです。

繰り返しますが、いずれもちゃんとした論文ですから、今回のエントリみたいなボヤっとした話にはなっていません。というか、比べて読み返してみてこのエントリの話じゃまだまだぜんぜん整理が足りていないと感じました。もちろん、こういった話をするトレーニングを受けているわけではないのであたりまえといえばあたりまえなのですが。

だったら先にチェックしとけよという話ではあるのですが(とくにビデ美についてはけっこう感銘を受けていた本だったはずでしょ)、こうやってブログにまとめてみないとしっかりした問題意識をもって読む(読み直す)こともなかなかなかっただろうなというのも正直なところ。あとは……こういった分析美学っぽい話題が実際のゲームプレイの感想にも活かせるんだなというのも収穫のひとつかなと個人的には思っています。

ということで、みんなも読もう『ビデオゲームの美学』!


  1. ストーリーの冒頭から末尾までは、おおむねクラウディアとの出会いから別れまで、すなわち「バレンツ親子がラーゼンボーデン村にやってきて、商談をまとめるまで」に対応しており、ストーリーで起こるできごとの「常識的な密度」を考慮すれば、これに何ヶ月もかかっているということは考えづらい。また、ゲーム内では「暑い乾季のあとに雨季がくる」程度しか(おそらく)明言されていなかったものの、「寒い(ないしは「それほど暑くはない」)時期」→「暑い時期」→「雨季」……といたなんらかのサイクルがあるっぽい雰囲気ではあります。それがわれわれにとっての1年=365日程度の期間なのかまではわかりませんが……。

  2. もちろんそのあたりをきっちりやっている……というか、ゲームのなかに取り入れているものもたくさんあります。というか、それこそ「日数マネジメントゲーム」なアトリエ過去作がそれですよね。

  3. 冒頭に挙げたツイート群だと3つに整理していましたが、よくよく考えてみるともう1個あるなと思ったのでここではそうしました。また、いちおう「本作における」と限定しておくことにします。

来たるべき因習

これからしばらく、ぼくの伯父がはまっているらしい新興宗教について書きます。
ええと、あまり特定されたくないので——特定しようとする人なんていないと思ってはいるんですが——まあ、広大なネットの世界、なにがあるかわかりません、ですから、ある程度フェイクをまじえて書きます、ですから、もしかすると矛盾しているところがあるかもしれません、けれども、そのあたりには目をつむっていただければと。あなたも物好きですね。

さて、「新興宗教」について説明するにあたって、まずはその伯父がどんな人か、どんな境遇にあるのかということから説明しておかなきゃですね。
ぼくの父母ともに、三人きょうだいの末っ子、それぞれのきょうだいのうち真ん中は女性、いちばん上が男性、そんな構成になっているせいでややこしいんですが、これから話題にしたい伯父は父方のほう。たいていは住んでる土地の名、ここではひとまず後沢——「ごのさわ」と読みます——としましょうか、その後沢からとって、「後沢のおじさん」と呼んでいる、その伯父の話です。呼び方、まんまやね。あんまりカタい言い方に慣れていないので、以降は「おじさん」と呼ばせてください。
そのおじさん、歳はたぶん六十代半ばくらい。父よりも五つ年上ということだけはなぜか覚えているんですが、そもそも自分の父がいまいくつなのか、あまり自信が持てません。誕生日は(かろうじて)覚えています。なので、たぶん六十代半ば、そういうことにしておいてください。
うちの親戚連中のなかではめずらしく酒飲みで、しかも飲むと説教臭くなる。お盆やらで父方の実家、つまり後沢の家に集まった夕食どきなど、ぼくを含めた親戚の子供たちはなるべくおじさんの標的にならないよう、さっさと夕食を済ませ、いとこの兄さん——とりあえず「俊一兄ちゃん」としておきます——の部屋に逃げこむのがならわしでした。ときどきわざわざその部屋までやってきてちょっかいをかけてきたりもするんですけど、まあね。

せっかくですからなにか具体的な、うっとうしいエピソードを。
あれくらいの歳の人だったら——自分の観測からいえばもうちょっと上の世代のような気はするんですけど——好きな人多いじゃないですか、浜村龍一の歴史小説が。酒の入った説教をするとき、いつもおじさんの言うことにゃ、まず第一声が「本を読め」なんで、「読んでますよー」などとはぐらかしてはみるものの、「何の本読んどるねや」「いやそりゃ、えーと……」モゴモゴ、つって。「やっぱ物語、物語を読まないかん。浜村龍一とか、な、読んどるか?」ぼくは読んでいませんから、「それは……読んでないっすね……」ほらほら、もうめんどくさい、「ありゃええぞ」とか、「はーやっぱ最近のは本読まへんねんな」とか。呆けたように笑ってみるほかにやりすごしようを知らなかったし、今も知りません。しかもそれが、盆と正月が来るたび飽きずに繰り返される。こいつ読む気ねえなとか思わないのかといえば、きっと思わないんだろうな——というよりそもそも、そんな話をしたこと自体忘れているんでしょう。いや、あのおじさんのことだ、覚えていても言いそうな気だってしますけど。だいたい、中学生くらいの子供が浜村読まないでしょってのがわかっていたんだろうか。これだってわかっていたようないなかったような。だからけっきょく、おじさんの真意なんてなにもわからず、知っているのは(酒を飲んだら)うっとうしいってことだけ。そうはいってもべつに怒るような雰囲気じゃなかった、むしろふしぎな親密さで、それこそほんとうは心地良いものじゃなかったのか、と考えてもみようとはするものの、やっぱ嫌だったなあ。
あとは、そう、これもあるあるなんじゃないかと思うんですが、家系——「いえけい」じゃなくて「かけい」のほう——を自慢をしてくることもありました。むかしむかし配流された帝についてきたお武家さんがとおりすがりの娘に遺していったその血をひいたうちの一族に伝わる刀を祖父の祖父が失くしてからはもう証拠もなくなりその血筋の秘密は一子相伝、お前にゃこっそり教えたろ、俊一はモテへんからな、本家はうちの代で途切れてまうかもしれへんから、とかなんとか。いやうちとこずっと百姓やないですか、というか、それこそうちの父だってあれ嘘やからななんていつも言っていたから、だからこっそりもクソもねえ、そんなステレオタイプな絡みをしてくることもありました。具体的な行動の指示としては「ちゃんと墓参り行かなあかんで」程度の話ではあるので、本を読めって言われるよりはだいぶんマシなのかもしれません。墓、まあ後沢の家に行けばだいたい参ってましたし。
だいたい親戚の集まりってものはですね、おじさんの酒臭い説教はうっとうしいし、そもそも出てくる飯だってそう美味いもんじゃありません。あんなもんはなあ、年寄り連中のための味付けばかりだ。あるじゃないですか、おばあちゃんの作ったおせちみたいな。あれが好きな人だっているのかもしれませんが、十代のころから大好きでしたって人は——相当高級なおせちを食べていた人か、相当舌が年寄りじみていた人なんじゃないですか? でもだから、茶色い煮物みたいなやつを箸でもてあそんでもつまらない、話しかけてくるのはうっとうしいおじさん、縁側から見える庭は親戚一同の車で埋めつくされてる、そんな場にいるくらいだったら、俊一兄ちゃんに格ゲーでボコられるほうがなんぼかましでしょって。そんなこと決まってるわけです。

とかなんとか、挙げてけばもっといろいろあるんですが、そうはいっても普段なら、普段ならうっとうしいわけでもなく、多少面倒見がいい人だなという程度、むしろ「好きにすりゃええやん」という雰囲気、あっけらかんとしてこだわらない人でもありました。楽観的といえば楽観的。うちの父のほうがよっぽど粘着質で陰気なんですよね、こっちのおっさんは性格悪い。
とはいえ「伯父」くらいの距離感の人がじっさいどんな人間だったかなんて、そんな隅から隅までわかるものではありません。会う機会が、そんな、めちゃくちゃあるわけでもない、それこそ盆と正月くらいってなると、どうしたって酒の席でのイメージばかりになってしまいます。

仕事はなにしてるって言ってたっけかなあ。いや、ふつう、伯父の仕事とか気にしないもんですよね。少なくともぼくはそうです。おばさんのほうは介護の仕事やってたってのを覚えてるんですよ。山んなかだから介護の仕事には困らない。でもおじさんの仕事は知らない。俊一兄さんは大学には入って、卒業して、今もまだ実家住まいってこと、そこまでは知ってるんですけど、仕事でなにやってるかはさっぱり知りませんね。市外に働きに出てるってのは、それだけは知ってる。
そういえば俊一兄さん、一昨年くらいにもうすぐ結婚するって言ってたんだけど、ここんところいろいろあって——まさに今から書く話ですね——どうなったやら。実家のほうだとわりと結婚、もう遅いほうなんじゃないかななんて思うんですが。結婚式の招待状とか、届いてないですね、そういえば。
いや、俊一兄さんの話はいいか。だからとりあえず今日はここまで。結局おじさんの、酒の席での人となりくらいしか説明できなかった……っていう感じで始まる話を寄稿したので、そうです、だからここ数年の通例どおり今回も告知なんですけど、したので、告知です。

来たるべき因習 - ねじれ双角錐群

今週末、11月22日に迫った文学フリマ東京で購入できるほか、昨今の社会情勢も鑑みまして、Boothでの通販も文フリからほどなく開始される予定です。各作品の内容について紹介していこうかとも考えたのですが、すでに冒頭部分を載せることによって十分に長くなってしまいましたから、賢明なみなさんは上記の公式ページのほか、笹帽子さんのブログなどで確認していただけましたらと。そして、ここでは自作について少しだけ言い訳をさせてください。

先ほどの冒頭部分をざっとでも見ていただければ分かるとおり、この2020年にブログで小説をヤっています。いくらなんでも時代錯誤じゃなかろうか。そのリアクションはごもっともで、自分もそのように思うところが大であります。ありますが、まずは自分の意識として、こういうのをいっぺんやっておかなけりゃ、「やってはみたいけど……」という感じでずるずるひきずってしまうんじゃないかというのが最初にありました。それを言えば前回の「箇条書き」だってそうです。箇条書きのほうが適していることなんていっぱいあるでしょ、考え詰めてみるとなんかやることができそうだな。……だったらやるわよね。もちろん、これがめっちゃ新しいと思っているわけではありません、それだったら、いやこんな人がもう、こんなふうにやっているよ、というのを教えてくれるとかでいい。そんなもん自分のほうがよくできるから、やるわ、とかだったら、そりゃもう、それがいちばん嬉しいことだ。ブログで小説をヤっているのだって同じで、今どきだったら不特定多数に向けて、なんぼか嘘も混じえて、話しかけるってことが、みんなにとってあたりまえのことになっているのだから、そういう形の喋りはもうちょっと開かれてくれよと、なんたって自分がそういうの好きだから、みんなもやってみてほしいと思っているわけで、それをこうして、ちょっと自分がやってみせれば、俺のほうがよくできらあ! って思ってもらえると考えて、こうしてやったんですってば。

Twitterで付き合いのある方とかならご存じかもしれませんが、自分は、ひとにブログを書いてくれ、俺は読んどるけえな、と、ちょくちょく言っています。そしてそのわりに、自分は、こうして告知でもなけりゃ書くこともない状態でもあります。でもね、やっぱりこうしてなにか書くことができる場があるというのは大事なんすよ。「大事」って……いきなりフワッとした話になったな。ブログでなくてもいいんですけど、なにか長い文章を残しておける場所があるというのはなんらか良い形でなにか良いことに寄与しているんじゃないかなといつも思っています。そんなもん読ませんなって? うーん、いや、それはたしかに正しいといえば正しいんですけど、そうだな、たしかにあなたにはそうかもしれない。んだけど、めちゃくちゃ長い目で見て、興味を持ってくれる人がいるという確信が自分にはある。あるので、いったん残しておかなけりゃならないと思うんですよ。なにかを思い付いてしまった人間がいる、ある程度拙くてもまあやっとる人間がいる、なんらかプラスアルファで資してたりそうでなかったりする人間がいることを、知ることができる、ようにしておかなければならない。べつに同時代の人間に読んでもらうためでなくてよくて、べつに未来人や宇宙人向けでいいんですよ。

もっと言えば、そうやってみんななんか考えとって、それ自体にめちゃくちゃ新奇性があるのかといえばそうでもないけれど、それでもやっぱり、各々がたどってきた道はちょっとずつでも違うものなのだから、それ自体にしかない考えの片鱗みたいなものは、どんなブログのどんな記事を読んでみたりしてもやっぱり見つかるんですけどね。マジで見つかる。これに関しては、自分はそこらへんの人よりもずっといっぱいブログを読んでいるというちょっとした自負があるから、自信を持って言えるんだ。おれだってだてにFeedlyに1500くらいフィードをつっこんでいるわけじゃないんだよ。さらにいえば受け取るほうだって同じで、同じものを読んで、おおこれはって思うところはぜんぜん違ったりするはずなんですよ。だから読んでみて、やってみてくれって思うんだよな。

……みたいなことを小説として書きました。

紙魚をかかぐる人々

いろいろあって(というのは、ひとつには今日の本題にも関係して、であるのだけれど)過日しばらく、徳永直『光をかかぐる人々』を読んでいました。青空文庫にあるものはいうなれば「前編」で、「中編」にあたる雑誌『世界文化』連載分も青空文庫の当該作品を入力された内田氏が公開しています。そして「後編」は未発見原稿のままなのだといいます。それを読んでいました。

書誌的な情報はともかく、内容としてはおおむね、日本における活版印刷の誕生をひもとく、しかもそのための著者の奮闘込みで……といったもの。「前編」では日本の活版印刷の先駆者として知られる本木昌造の足跡を追うのですが、話題があっちにいったりこっちにいったり、どうも迷いながら進んでいる様子もあり、それこそ素直に進みません(これは駄洒落です。人の名前で洒落を言うのはやめましょう)。前編のうちとくに後半などは、通詞(本木の生業、いわゆる通訳)からみた開国史といった内容で、活字の話は出てくるけれど、そうでない記述や直自身の述懐などのほうがよほど多い。また、それに続く「中編」の前半では、もう一人の先駆者である木村嘉平の業績を探りに(終わったばかりの戦争というものを振り返りながら)薩摩へ、あるいは彼の子孫を訪ねます。そして後半では日本に近代的な活版印刷/活字鋳造の技術を伝えた外国人の足跡をあきらかにしようと、阿片戦争前後の上海周辺での中国語活字や日本語活字の様子を知るために、慣れない英語を読みとこうと四苦八苦するさまが描かれます。

要はいずれも調査報告半分にエッセイ半分といったスタイルで、それなりにおもしろくはあるのですが、奇妙な読み物であることは間違いありません(直自身は「小説」としているけど、いやこれは……いわゆる小説ではないでしょ……。いやでも、私小説とかからの文脈でいうとこれもそうなのか……?)。漢字の文字数の多さそして複雑さにより活字の製造が難しく、電胎法(ググってくれ)の発明と伝播を待たねば実用化できなかったという事情、そしてそれをとりまく社会すなわち当時の鎖国-開国や海外情勢などなどから解き明かさねば活字史は理解できない、だからこのような散漫な構成となったという直の言い訳は、言い訳とはいえ読んでみればしごく当然のことと思えはします。もちろん個々の話だって(直自身の印刷工としての経験との絡みもあって)興味深く読めるんです。ただそれでも、繰り返すけれど、奇妙な読み物ではある。

……で、なぜいきなりそんな『光をかかぐる人々』に触れたかといえば、とりあえずよさそうな用語を知らないから(知らないだけでありそうなんだけど)勝手に造語するんですけど、「直列化の欲望」みたいなものの話をしたいがためです。


みなさん、本読んでますか? 読んでる? 本は読んどけ! いや読まなくてもいいんですけど、読んでる人はお手元にある(かもしれない)本を開いてみてください。それ、文字が一次元に並んでいるタイプの本ですか? あるいはそうじゃない? どっちの場合もありうるでしょう。小説とかビジネス書とかだと一次元に並んでることがほとんどのはず。辞書は……これもまあ一次元でいい気がする。漫画は違いますね。レシピ本や地図もたぶん違うかな。とかとか。さっき「直列化」と言ったのは、このうち前者寄り、「(文のレベルを大きくこえて、おおむね冒頭から末尾まで)文字を一次元に並ばせる」ということだと思っておいてください。そしてきっと、ことばが主体の本になればなるほど「直列化」されているんじゃないでしょうか。たぶん。

そもそも、本、そして新聞などなどの印刷物というのは、ご存じのとおりたいへん便利なものです。情報の伝達や共有、それにもとづいた知識のコミュニティの形成などなどのために大きな役割を果たしてきました。メディア論みたいな話ができるなにものも持っていないため一般的な話しかできませんが、活字というものを生みだし、その鋳造から文選、植字、印刷、製本、さらには流通までを工業化することは、文明の発展(デカいことばだな)になくてはならない要素であったはずです。その工業化の過程こそが『光をかかぐる人々』のテーマなわけです。そして、そのおかげであなたの手元に本があったりなかったりする。なかったら関係ない感じになるかもだけど、まあ広い意味では手元にあるでしょ!

さて、工業化とは同時に規格化でもあります。ある程度の型にはめるからこそ部品やらが交換可能になるとか、まあなんかいいことがいろいろあって、大量生産が可能になるわけです。そして、ことばを主な伝達手段にする媒体を規格化しようとなったとき、「文字は原則として一次元に並ぶものだよ」という前提を置くことは、言語のもつ線状性からいって自然なことであったはずです。要は、送り手のコストを下げんがために「直列化」するようなある種の圧力があったであろう、と。

一方、直列化されていることは、情報の受け手にとってもうれしい話です。たいていの場合理解しやすくなる(これは後述するとおり一概に言えないんだけど)というのはもちろんですが、文字を追っているだけで「最初から最後まで読んだ」気になれることも、実はけっこう大きなことなんじゃなかろうか。もちろん、送り手のコストが下がりより安価に情報を得られるようになったことこそ、なににもまさるメリットでしょう。

さらに、こうしてブログなど書いていると痛感することではありますが、考えていることを直列化する過程で、思考が整理されるという効能だってあります。ぼくみたいにいきなり文章を書きはじめるという素人じみた方法をとらずともも、たとえば論文作法に沿うような、直列な型にはめようとする過程は、受け手だけでなく、送り手にもおおきなメリットをもたらしてきたはずです。ある意味ではこれ、送り手がそのまま受け手としても作用しているからかもしれませんね。

というわけで、直列化、めちゃくちゃ大事なんですよ。これまでずっと大事だったし、おそらくこれからも重要でありつづけるはずです。ここまでの話で「コイツ直列化を否定したいのかな」と思うかもしれませんが、そうじゃないんです。大事なんですよ。というか、それこそ『光をかかぐる人々』を読んで、日本語の活字をつくるまでの苦労を知ったうえで、そんなこと言えるわけがないじゃないですか。フランクリンが印刷屋じゃなかったら世界は変わっていたかもしれへんねんで。だいたいな、直列化されたことばから複数の線……線? ポリフォニー……はそれではないか。なんここうそういうのだよ! そういうのをみせてくれるさまとか、あるいは見事な構成の実用書とかだってそう、そういうものほどおもしろいものは、ぼくにとってはほかにそうそうないんだし……それは経験と知識に裏打ちされた技術であり、ときにはそれ以上のものだったりするんです(いや、ここで「以上」という優劣をあらわす言葉を使うのははっきり間違っているのだけど)。

ただ、でもね。必ずしも直列化しなければならないなんてことはないじゃない。それ以外の方法で伝えられるならそうしたほうが、送り手として楽なことはじゅうぶんにありますし、受け手だって、いったん直列化されたものを経ることで逆に理解しづらくなってしまうことだってあるでしょう。たとえば、ずっと直列に書かれたレシピ本をめちゃ頑張って作ったとして、たんに使いづらいことのほうが多そうじゃないですか? わかるわからないだけじゃない。おもしろさだってそうです。ぼくは上のほうで『光をかかぐる人々』を「奇妙な読み物」呼ばわりしたわけですが、もしかしてこれ、直列化しなければもっと広くいろんな人におもしろく思われるものになってたっておかしくないんじゃないかと、そういうスタイルで書かれるべきものだったんじゃないかと、正直感じてしまったんです。いやなんだろう、これはこれでもちろんおもしろいんだけど、なんか違う方法のほうがよりおもしろくなるのではないか? 活字についての本であるにもかかわらず、それこそが規格化に向かなかった一例でさえあったんじゃないだろうか?

まあわからんのだけど。

わからんのだけど、ただ、今は、Web技術があり、DTP技術がある現代は、活版印刷の時代よりもずっと直列化の欲望から自由になれる時代であることは間違いありません。だのに、たとえばこのブログだって、こうして直列に書くことを前提とされている。それはそう。そのほうが実装は楽だもの。直列であるものをつくることはそれより一層容易になっているのだもの。そのほうがより長い伝統に属する「型」にはめられるのだもの。HTMLだってインデザだってそうなってる。ただ、それ以外の方法だって、もっと気軽に試されていいはずなんです。試せる環境になっている。たとえば直列化の権化みたいな散文、小説だって、たとえば図や箇条書きで書かれたところでなんの問題もないはずなんです。いや知ってるけど、そういうものはたしかに相当数はあることは知っているのだけど(たとえばこのブログだと過去に『紙の民』の感想を書いたりしています)、でもそれらが未だ実験的と呼ばれるのであれば……そんなさあ……オタクくん……そりゃ「今」はそうかもしれないけれどさあ……それをしつこくやっていく人間がいれば、きっとあたりまえになり、その技術も積み重なっていくはずなんです。そしてぼくは、あたりまえになり、積み重なっていってほしい。たかが直列化の軛を逃れるくらい、なんでもないことじゃありませんか?


そこでようやく今回の本題に入るのですが、今回も告知です。告知でしか更新してねえなお前。「リフロー型電子書籍にすることが絶対にできない小説」という縛りのもとで集まった6作を載せた合同誌『紙魚はまだ死なない』に参加させていただきました。今回もありがとう笹帽子さん。以下が告知サイトだ。

https://sasaboushi.net/silverfish/

実は5月の文フリ東京に出すという話だったんですが、昨今の状況により中止となったため、現在通販にて取り扱い中です。

https://sasaboushi.booth.pm/items/1949940

「なぜリフロー不可能なのか」については6作ともに異なっており、上掲告知サイトのサンプルにて各作の冒頭見開きを見られるので、まずはそちらを参照していただきつつ、主宰笹帽子さんによる下記のエントリの紹介もぜひどうぞ。

https://www.sasaboushi.net/blog/2020/04/24/1610/

で、サンプルと紹介文である程度はおわかりいただけると思うんですが、単純に一次元に文字が並ぶだけじゃない小説、小説か? いや小説だろ、小説が、こうして集まっています。リフロー型の電子書籍というのは、直列化の圧力をかける新たな規格化です。EPUBありがたいよね、どんなデバイスでも不自由なく読めるし、プリントディスアビリティにもよりやさしい。HTML/CSSが「本」のほうに近付いてくれた結果がこれだ。ぼくもいまどきレイアウト固定の電子書籍を読む気にはなれません、ありがたいよね。ありがたいんだけど、さっきから言っているとおり、直列化以外のプレゼンテーションのほうが適している、おもしろい、あるいは、それ以外でなければならない場合ってのはやっぱりある。『紙魚はまだ死なない』に載っているのは、たしかにそういうものなんです。

正直申し上げましてサンプルで見られるものだけで値踏みするのは早計で、実際読み進めてみると各作ともにさらなる意匠が待ち受けており、本来ならそれらも含めて「ほら実際こうやぞ、みんなもやろうや」と言いたいところなんですけど、プレゼンテーションと内容がわりと密に結び付いているせいでやりづらいんだけど、とりあえず自分のものについてだけ言っちゃおうかな、自作解説……しちゃおっかな……。

今回は2行でワンセット(意味がわからない向きはサンプルを見てくれ)ということでやってみました。一昨年のね群に出したやつは2段並行だったし、昨年のね群に出したやつは箇条書きだったので、それの延長です。文字数をあわせて、ときにひとつの行にあわさって、また離れて、裏返ってズレて、そういうのをやりたかったからやったんです。だけど、自分としては特別なことをやっているつもりはないんです……と強がらせてもらえないでしょうか。こういうことをするのが普通であってほしいからやっているのであって。だからやってくださいよ。リフロー万能派のベゾスに一泡ふかせてやりましょうよ。ぼくたちにはそれができるんだから。InDesignを手にとって(Adobe税に苦しみながら)、なんかおれはようしらんが、Webデザインツールみたいなのを手にとって、テーブルの上で踊っていきましょうよ。巻き起こしていきましょうよ、きっとうまくいきます。ぼくには分かってる、自分がそこにいるんだから。

でもさ、たぶんみんなこんなしょうもない理由で参加しているわけでもないんじゃない?

心射方位図の赤道で待ってる - ねじれ双角錐群

今日はあなたに直接的なメッセージを届けようと思います。文学フリマ出展の告知です。告知と聞いてタブを閉じようとしたそこのお前! お前に言ってるんだよ! 3分だけ読め! 3分のうち以下の告知ページをざっと眺めるために1分30秒を費やせ!

https://nejiresoukakusuigun-kamimachi.tumblr.com/

費やしてくださってありがとうございます。残り1分30秒ですね。表紙かっこいいよな。あと1分25秒くらいでしょうか。主宰いつもありがとう。1分20秒。本書のテーマは「神待ち」です。「神待ち」と聞いていかがわしい想像をしたあなた、正解です。「神待ち」と聞いて、ベケットを思い浮かべたあなた、あなたも正解です。まだ1分あるかな。みなさんが「神待ち」と聞いて思い浮かべたもの、すべて正解です。思い浮かばなかった人、なんで思い付かなかったか、明日まで考えといてください。そしたらなにかが見えてくるはずです。なぜなら、「神待ち」という3文字がSFに出会い、起こることのすべてがここに射影されているからです。極を接点とした心射方位図において、赤道は無限遠をとりまいています。あと40秒で以下の全作紹介を読んでください。一作品あたり5秒で読めば間に合う。あなたの速読力が試されます。

✊「神の裁きと訣別するため」 murashit

箇条書きで語り尽くせる着想を散文によって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、あらゆる事象を項目として書き出して、並列に差し出すことだ。より論理的で、より無能で、より怠惰な筆者は、じゃんけんにかんする完全でしかし短いリストを書く道をえらんだ。

拙作。タイトルは置いといて(勝手に使ってごめんねアルちん……)、ボルヘスから引いてきやがってと侮るな、いや気持ちはわかるけど、お願いだから侮らないでください、だって「箇条書きで語り尽くせる着想を散文によって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」というのは嘘偽りのない100パーセントの本気なんです。箇条書きってこんだけ普及したある種の強みのあるスタイルなのに、小説にはほとんど使われていない気がするんです。2ちゃんねるなどのSSはやや近いはずだが……。

🗻「山の神さん」 笹帽子

家出少女の神籬菜々は、神待ちアプリの暴走によりタイムリープし、大正時代の高校生・広瀬とマッチングしてしまう。下宿の部屋に泊めてもらうことなどできるはずもなく、代わりに広瀬と共に高みを目指す神籬だったが、背後には家出少女の時空補導を狙う魔の手が迫っていた!

いいですか? 時代は姉SFです。あなたはもちろん、すでにそのことをご存じですよね? よろしい。タイトルどおり、山に登る話です。山に登るとき、わたしたちの身体にいったいなにが起きるのでしょうか。身体を「機械のように」動かす意識が発生します。SFっぽくなってきたな。舞台は旧制第四高等学校。それに準じた文体で綴られる……といえば、私のような笹帽子ファンはいつもの軽妙さはどうなるのかと不安を感じるかもしれません。心配御無用、すべてが噛み合います。軽やかさをいかに導入すべきか、それは常に困難なことでありつづけました。ここでその答えの一端が読めます。

🔮「囚獄啓き」 小林 貫

地獄とは、とあなたは思索する。死、罪と罰、終わりのない苦しみ……あるいは閻魔。取り留めのないイメージが交錯する。あなたが創り出す「地獄」へと続く道は無関心で舗装されている。念入りに、決して剥がれ落ちることのないよう幾重にもそれを塗り固めるあなたの姿は否応無しに物狂おしく、また少しだけ滑稽でもある。

地獄とは、人工的な責め苦とは、すなわち刑罰のことです。人間が社会生活を送るようになってからこのかた、刑罰には長い長い歴史があります。しかし、枯れているわけでもありません。現代においてさえ、ときおり喧喧諤諤の議論が聞こえてきたりこなかったりするものです。SFの醍醐味にはさまざまあります。現在にはなく、しかしそこにつながる未来にはある「当たり前」を仮構することによって、現在における問題を浮かび上がらせる……というのはそういった醍醐味のひとつと言えるでしょう。近未来の刑罰と愛を扱う本作品でそれを目撃してくれよな!

🦌「杞憂」 鴻上 怜

北米先住民族の少年杞憂は老呪術師焼き脛の命を受け、機能を喪いつつある〈ポアソンの分霊獣〉の夢へ潜る危険な〈ビジョンクエスト〉を決行する。純情報空間キウィタスで働く女子工学情報生命体の棗と茘枝は、客として訪れた杞憂と出会い彼の秘密へと迫るが……

綿密な考証に裏付けられ、この分量に対してヘビーな設定のうえに立つハードコアなSF(これは上述したのとはまた別のSFの醍醐味を持っているということです)なんですが……これ、ネタバレにならないように魅力を紹介するのがむずかしいんですよね。「設定」という、下手をすればつまらない説明に終始してしまう厄介なかたまりを、いかに魅力的に展開していくか。勘のいいあなたは上記の紹介文からなにか感じとれるかもしれませんが、たぶんそれ以上です。マジでそれ以上なんだよな。ふたつの側面がともにビジュアル的におもしろく、ついに融合するという、そんな愉悦をここでアレしてくれ。

🍄「キノコジュース」 国戸 素子

俺は美少女魔法使いルシエが大好きな冒険者。大剣を振るって金を稼ぎ、いつかルシエに告白するんだ。でも最近、村のみんなの様子がおかしい。さらにルシエにも不穏な行動を見つけてしまう。村はどうなる?そして恋の行方は?俺は美少女魔法使いルシエが大好きな冒険者。いつかルシエに告白するんだ。

めちゃくちゃ好きなんだよな。ナンセンスというものは、文章では間がもたないものだと浅はかなぼくは考えていました。そう、ぼくは浅はかでした。理路のつながらなさを、ゲーム的な世界観、そして苦しむ顔がかわいい女を好きな思い込みの激しい主人公とで成り立たせている。それを支える数々の紋切り型。ひとつの紋切り型をバカにするのはたやすいけれど、それが怒涛のように押し寄せたときにいかにバカにすべきか? 本来つながらないものが不条理につながってゆき、笑いながらもめちゃくちゃ腹の立つ感動でしめくくられる。いやもう、ぼくはこれ、こういう文章が書きたいんだよな……。

🦀「蟹と待ち合わせ」 cydonianbanana

あたかも青く、青という言葉が失われてなお青みがかったような月下の海で、僕たちは今日も漂着物を探して歩く。人類が肉体を失う過渡期を生きる俺たちの日常と、私たちの《普通》。一人称複数の語りが重奏する、百年後のあたしたちによる克明な記録。

まったくただしいポストヒューマンSFです。あらわれた3つめのSFの醍醐味。まずそれを言っておきたい。そして、ポストヒューマンの生態を一人称で述べることはとてもむずかしい。本作はその困難な課題に挑戦している。紹介文にあるとおり、本作品においてそれが顕著にあらわれるのは、一人称「複数」であることによります。三人称とのちがいはなんだろうかな。語りかけられることにより、説得力が増すというのはあると思うんだよな。そうやっていつのまにか彼らの思考になじんだころに現れるオチ。だけれども、これはあくまで夏のバカンス、さわやかに乾いた空気を感じながら読んでくれよな!

🐢「ブロックバスター」 津浦 津浦

ひたすらに大きくなっていく放浪大亀/大亀の帰還を待つものども/ものどもの王/その世界にあったもの/その世界にないもの/その世界の外にあるもの/どこにもないもの/どこかにあるもの/生きている私たち。

ひたすら文章がかっこいいなと感じるんだけど(これは上述の「キノコジュース」と対照的である気がする)、これはなんでなんだろうな。たとえば、小説における「列挙」というのは読者に対して一定の効果を与えるための常套手段なのですが、これをうまくいかせるためには、一定の共通点のもとでなるべく射程を広げることが肝要である。その「射程の広さ」という点をとってみても、自分にはちょっと手のとどきそうにない地平が見えているなという感想をもってしまう。そうやってつい細部にだけ注目したくなるのですが、そこここの呼応関係も見物で……見物で……ぜひ読んでこのように言葉を失ってください。

ここでちょうどあと5秒ってとこかな? 第29回文学フリマ東京ク-39に、神は訪れるのか……真相は君の目で確かめてくれ! あと、本記事を何秒で読んだかをSNSで共有してください。ついでにほかの箇条書き小説情報もどしどしお寄せください。


以下、主宰および同人のみなさんの紹介記事です。そう、ロスタイムだ。

Night in the Woods

しかもさあ、あたしがこんなさあ、ダメ人間になっちゃってんのって あたしのせいなんかじゃねーんだかんなあ!

store.steampowered.com

ちいさいころ、ぼくはおじいちゃん子だった。

ぼくが幼稚園から帰ると、おじいちゃんはいつも相撲か時代劇をテレビで見ていた。ぼくはそれをそばで眺める(とくにおもしろくはない)。そんでもって、いい時間になったらばおじいちゃんは風呂を焚く。ぼくはそれをそばで眺める(これはわりとおもしろい)。杉の枯れ葉で焚き付けて、木の棒をぽいぽい入れていく。

そんなとき、おじいちゃんがよく言っていた。

「おめえもわしみたいにならにゃあいかん、ちゃあんと金を貯めてな、ここらへんで家を建てて」

個人的には「そうかな?」と思っていたけれど、あえておじいちゃんの機嫌を損ねることもなかろう、ふむふむそうですなあという顔をするのだった。なんたってぼくはおじいちゃん子で、ものわかりのよい孫だったからだ。実際、おじいちゃんはなかなかやるもんだと、今も思う。

それで得心がいったのか、おじいちゃんはまた黙り、火かき棒で灰をかき出す作業に戻る。もちろんそうじゃなく、つい言葉が溢れてしまったらしいときもあった──あったけれど、どんなことを言っていたっけ、ほとんど忘れてしまったな。いや、それでもひとつだけ覚えていることがある。そのとき、おじいちゃんはこう続けたのだった。

「じゃけどの、そうもいかんときもあるかもしれん。そげなときゃあな、Night in the Woodsをやりゃええ」

松の枯れ葉がパチパチとはぜる。炎のゆらめきがおじいちゃんの横顔を照らす。ぼくはそのとき、はじめてNight in the Woodsを薦められたのだ。

ぼくのいた中学校には、ぼく自身が通っていた小学校を含め、近隣の3つの小学校を出た生徒が集まっていた(その小学校も中学校も、今はもうない)。小学校のひと学年は10人ちょっとほどだったから、気が合うだの合わないだのといった贅沢を言うこともできず、みんなとそこそこに付き合っていた。けれど、いざ中学校、3つ集まればひと学年で40人近く、2クラスにもなる! そうすると、「なるほど、気が合う友達とそうでない友達というのがいるのだな」ということがしぜんとわかってくるものだ。

となりの小学校から上がってきたなかに、いつもぬぼーっとしているFくんという子がいた。ぬぼーっとして、のっぽだった。きっかけはなんだったか忘れてしまったけれど、すぐに仲が良くなったぼくとFくんは、放課後にぼくの家で遊ぶようになった。ぼくの家のほうが学校に近いんでね。

初代プレイステーションの末期、まだぎりプレイステーション2未発売のあのころ、Fくんはいろいろなプレステのゲームを持ってきては貸してくれた、いっしょにやったりもした。かわいい女の子が出てくるゲームが多かったな(だったらセガサターンではと今となっては思うのだけど、ぼくの家にはなかった。Fくんは持っていたのだろうか)。なぜか特に印象に残っているのがエリーのアトリエで、貸してもらったそれを家でやるのがなんだか恥ずかしかったことを覚えている。エリーのアトリエ程度で!

貸してくれないまでも、いろいろなゲームを薦めてくれもした──薦めてくれたのだけど、どんなゲームを薦めてくれたのだっけ、ほとんど忘れてしまったな。いや、それでもひとつだけ覚えていることがある。もう暗くなったから帰るというF君が最後に付け加えた一言。

「あとそーだ、Night in the Woodsってのがあってな、グフフ、ありゃやらんとおえん。俺は持ってないけどな。近所の兄ちゃんがこっそり貸してくれたんよ。もうあの兄ちゃんもおらんけど。まあどっか探してみ」

それから1年も経たないうちに、Fくんは学校に来なくなった。放課後にしか会うことがなかったし、携帯電話もなく、連絡先も知らなかったから、すぐに疎遠になり、会うこともなくなった。ほんとうに仲が良かったのだろうか? 気にもとめなくなってしまった。

高校生になってからそのころの同級生に聞いたところによると、Fくんの家はあれからすぐに親が離婚して、母と息子でしばらく二人暮らしをしていたという。ただ、知っているのはそこまでで、今はどこにいるかもわからないということだった。

それから大学生になった(高校生のころはあまり思い出したくない)。一人暮らしの初日に大学のまわりをぶらついてたらエロ本がまんさいの書店を見つけてもちろん買って、「これが一人暮らしというものか!」というのが京都の第一印象だ。勉強もいろいろあったが、その一方、ぼくはジャズ研みたいなところに入ってトランペットを吹いていた(ひどく下手くそだった)。その仲間たちとともに、飲みに行くなどのことはひととおりやった。つまりそれなりに楽しんでいたと言ってよいと思う。市内の平地部分の路地を隈無く自転車で回った。あのころはまだ河原町丸善があった(今また復活している)。鴨川デルタで缶ビールをダバダバ流し込むとかそういうのもやった。いや、どっちかというと四条大橋の下とかのほうがダバダバ流し込むことが多かったような気がする。

ダバダバ流し込むときにどんな話をしたのだっけ。書生気質! 人生の話などしたにちがいない──ちがいないけれど、ほとんど忘れてしまったな。いや、それでもひとつだけ覚えていることがある。総人で心理学やるんだつって岩手のほうから出てきたY君が言うことに。

「おめーも地元がやんなって出てきたクチっぽいけどな、そりゃ今はええけども、こん先もうまくいくかわからへんで。うちの兄ちゃんは結局戻りよってな、んでこないだ実家帰ったらNight in the Woodsやっとった。おれはそうはならん」

むりやり関西弁喋ろうとしているのがまるわかりやないけ。

で、なんだかんだあって、大学院にと東京へ出て、まあいろいろあって辞めちゃって、花屋でバイトとかして、そのうち就職が決まったからいったん実家にでも帰るかってんで帰ったことがある。そのあたりの話はこのブログにも書きました。自転車で帰ったんですね。帰ってみると、地元の街(ってほどの街はない)は妙に狭い。ぼくが広い世界を見てきたから? 違う。単にすいすい走る自転車に乗っているからだ。しかしこの歳で自転車になぞ乗っている奴はいない。みんな自分の軽自動車を持っている。

そんなことを考えながら、うちはちょっと坂の上にあるからってんで、自動車ならば楽なのにと、自転車を押し押し坂を上る。Y村さんちが見える。リフォーム中だ。屋根に上がって作業してるのは──あれは小中で同級だったIくんではなかろうか。

「ありゃ、帰ってきたんか? てことは、Night in the Woodsやったん?」

やってない。やってないけれど、そんなものに聞く耳は持たんぞ、俺は持たん。

だからぼくはまた東京に戻り、カイシャではたらき──もう何年になった? 故郷のことも忘れたんじゃなかろうか? だから、だからこそ、そろそろNight in the Woodsと向き合うときではなかろうか。


──以上が、ぼくがNight in the Woodsをプレイした経緯だ。キミもやろう。

まともなレビューについては以下などを参照のこと。

夜のみだらな雨と月

まずは最近読んだ本の話から。

夜のみだらな鳥 - ホセ・ドノソ

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード) *1

どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか? それとも外部の現実でしょうか? 現実がわたしの脳裡にあるものを造りだしたのでしょうか? それとも、わたしの脳裡にあるものが、この眼前のものを造りだしたのでしょうか?

むちゃくちゃな本だった。

内容、そして特徴についてはこちらの記事に詳しく、不足も付け加えるところもない。あらすじ(よくこんなきれいにまとめたものだと舌をまく)はもちろん、このあと触れる妄執と現実の関係や入れ替わり/簒奪についても端的に触れられており、実際に本書を読んだあとに読むとまさにそのとおりだとわかる、と思う。

わかると思う一方、実際に本書を読んでいない人にとって、これだけでは本書の異常さがわからんよなとも思う。いや、「異常な出来事が起こる(ように読める)」のはわかるんだ。たとえば、「起こった」らしいことのタイムラインを引こうと試みても、とうに死んでいるはずの人間が「その後」らしき時系列に当たり前のように現れるなどし、さくっと破綻すること。全体に通底する入れ替わりのモチーフがいつのまにかモチーフでなくなり、実際に「起こって」いるかのように読むしかなくなること。ただ、それだけならば「妄想が現実と混淆するんでしょ。境目がね、そうそう、曖昧になって。よくあるあれッスね知ってる」したり顔のお前は誰だ。出てくるんじゃない。そうじゃないんだって。この本がどうにもおかしいのは、そもそも混淆どころの話ではないところにある。「異常な本である」ことを伝えるのはちょっと難しい。

さて、以降の話の前提として、本書とそれをとりまく環境として以下の3層構造を仮定することにする(いろいろ物語理論の話とか引いてくればいいのかもだけれど、そこまで精緻な話ができるわけでもないので……許してくれ……)。一般的に、上のほうがベースになり下が生み出される形になっている。

  1. わたしやあなたの世界における現実
  2. 1を何らかの意味でベースにした(でないと小説は書けないし読めない!)作品世界のなかでの現実。その客観的な叙述
  3. 語り手による2に対する主観的な叙述。本書における「妄執」

リアリズム小説であれば、1と2がおおよそ一致するだろう。いわゆる幻想文学であれば、2が1から乖離している/乖離していくさまにおもしろさの一端がある。場合によっては3が強く出てきてそれが2に影響を与えることもあるかもしれないが(先述の誰かが言ってた「混淆」はこれか)、この場合も2と1の対比が焦点になってくる。マジックリアリズムみたいなお話であれば、1と2の緊張関係、往還に一般の幻想文学からきわだった特徴がある(このへんの整理はこちらに詳しい)。

話の流れからわかるとおり、本書にはこれらにあてはまらない特徴がある……あると感じたから変な小説だと、思った(本来本書もマジックリアリズム作品として分類されるのだが、それはそれとして)。まずは、最初に挙げた記事で(『百年の孤独』との比較として)端的に述べられている以下の点をとっかかりにしよう。

百年の孤独』はマジックリアリズム=どれだけ非現実的なことがあっても最後には「リアリズム」に落ちつく客観的描写・文体を徹底していたが、『夜のみだらな鳥』は主観的な描写・文体を突き詰めている。一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく筆致は見事である。

百年の孤独』は先述したマジックリアリズムの特徴のとおり、2が1から離れていったあとで1に引き寄せられる。その重力があの本のおもしろさのひとつだった。一方本書は3をベースに語られており、2は(われわれの1の知識をもとに)「たぶんこんな感じか?」という形で読み手が想像するしかない。三人称が出てきたりもするけれど、あくまで妄執の論理に回収される叙述としてしか読むことができない。だとすればばふつうは、2をそれなりにしっかり措定しておいて、3と2の落差を際立たせようとしがちではなかろうか(1と2の差異を強調することの応用だ)。実際本書の場合、冒頭と結末あたりはこれに近いことをやっており、実際に効果を上げている。だが、それだけでこのページ数はもたない。もっとほかのものがある。

ここでポイントとなるのが「一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく」という話。いや、失われていくこと自体は珍しくないのだけど、ここまで述べてきた事情、および、語り手であり主人公である〈ムディート〉=ウンベルト・ペニャローサが(自称)作家であり、彼が本書の叙述を組み立てていることと組み合わせるとちょっと特異な話になってくる。いったいどういうことか。手掛かりが自分の感覚にしかないため正直うまく説明できる気がしないのだけれど、ちょっとがんばってみよう。

そもそも、作家がなにかお話を書くとき、あるいは伝記などのノンフィクションを書くとき、そこで書かれる世界は現実をアンカーにしていなければならない。「でないと書けないし読めない!」だ。妄執もしかり、いかにその内実が現実から離れていこうとも、きっかけ自体は現実であるほかない。だからこの2つは似ている。のだが、決定的に異なる点もある。前者の場合は、それが小説であれ伝記であれ、その表現のしかたがどうであれ、書き手は書かれる世界全体を俯瞰できる視点から逃れられない。どのような焦点化を選ぶにせよ、書き手としては俯瞰できている状態を作る必要がある、作らざるをえない、作りながら書くしかない。現実をアンカーにすることと同じくらいどうしようもないことではある、と思う。もちろん、もう一方たる妄執はそうではない。妄執のなかの論理にかなっていればよく、逆に原理的に俯瞰することができない、俯瞰していると信じ込むことが精一杯だ。作家としてのウンベルトはまずそこで引き裂かれる(ウンベルト自身もこれが妄執であることを知って書いていると思う)。自己と他人と神をすべて取り込んでいくように見えても(お話を書くことはしぜんそうなることなのだ)、実際には妄執であるがために、自己以外の視点が入りこむことは不可能だ。ただ、本書ではその外部たる「現実」がドノソによって描かれないため、読み手がそれらの違いを区別できない。

さらに、本書でしつこく繰り返されるモチーフ──黄色い犬や魔女、インブンチェの怪物、入れ替わり──これらすべては、序盤で語られる魔女の伝説が下敷きになっている。伝説というからには実際とても強固な物語であって、作家であるウンベルトは、妄執という観点からも、作家であるという観点からも、その重力から逃れられない。現実をアンカーにすべきなのか、強固な物語をアンカーにすべきなのか(そうそう、だから、先述の「現実をアンカーにしなければならない」には「(現実をアンカーにした)物語をアンカーにする」も含まれる)の間でも、やはりウンベルトは引き裂かれている。結果、物語によって現実が捻じ曲げられることそのものが、さも現実のように描かれることになってしまう。

彼は「現実」をアンカーになにかを書こうとするが、それは同時に物語の重力に絡めとられ、その結果出てきた叙述はすべて妄執であると判じるほかないが、だからこそ彼にとってそれは「現実」でもあり……

本書はしばしば悪夢のようであると形容されるけれど、これはたしかに夢っぽい、というより「夢を文章として書き出すこと」に似ている。ただ、ウンベルトはその夢から覚めることができないのだから、「見ている夢を、その場で文章として、夢の外に書き出すこと」に近いかもしれない。だから、それ自体が悪夢なんだよな……

……というわけで(まとまったことにする)、上掲以外で3つ挙げておきます。いずれも海外文学強者たちのレビューだぞ!(いつも楽しみにしています!) 読んでへんのはお前だけ!

雨月物語×SF

で、『夜のみだらな鳥』の話に乗じてというか、ほんらいの意図としては実は逆なんですが、告知だ。 みんなだいすき『雨月物語』を下敷きに、SFで再解釈した9編を載せた合同誌『雨は満ち月降り落つる夜』に参加させていただきました。詳細は以下、まずはこちらを見てくれ。

https://www.sasaboushi.net/ugetsu/

また、雨月物語そのものの魅力や各話の内容については主催の笹さんのエントリに詳しい。さらに、(本記事投稿時点では前半分のみですが)掲載作品全話レビューもあるぞ!(4/22追記:後半も公開されました!

以下、せっかくなので私もざっくり感想じみたものを書きます。

「ノーティスミー、センセイ!」(笹帽子)

「願い事インジェクション」「クロス賽銭スクリプティング」といったパワーのある語彙が重なるポストシンギュラリティなサイバーセキュリティSF。笹帽子さんの軽妙な会話劇っていったいどこから出てくるんだといつものように恐しく思いつつ、そのうえに「じゃあいったい、そんな世界でのAIの恨みってなんだろね」というテーマが乗っかってくる堂々たる巻頭作。

「飛石」(cydonianbanana)

温泉地を訪ね菊花の約の二次創作を書こうとする主人公、つまりそのまま筆者自身という構造となっていて、そこから創作が現実を固定する話にSFっぽい説明が加えられ、本作自体が湯けむりのなかに収斂する。ばななさんの小説はメタ構造が特色であることが多い印象なのだけど、そのなかでもとくに完成度の高い一作になっているように思う。

「荒れ草の家」(17+1)

雨月物語の魅力のひとつに、説教臭いなりの下で舌を出すところがある。本作の元ネタである「浅茅が宿」も「待ち続ける」という「美点」が持ち上げられているようなそうでもないような話だ。本作では待ち続けるものがいったいどうすべきかというところに意外性のあるアンサーが提出されており、今回の作品群のなかでもいっとう雨月物語の精神を体現したものだと感じた。

「回游する門」(Y. 田中 崖)

みんなも好きだよね、おれも好きだよ、わちゃわちゃした軽快なSFアクション。ちょっとした引っくり返しもありつつ、だんだんその設定にも必然性が出てくるとさらにワクワク感が増す。ゆうたらこれも機械生命体の魂の話で、やはり軽快さを保ちつつ希望のあるオチでとてもいい。舞台となる都市から細かな言い回しまで、しっかりメカメカしさを通していてそれもうれしい。

「boo-pow-sow」(志菩龍彦)

ひと夏の物語っしょ!百合っしょ!はいこれ! ってことで、広い意味での怪異譚であることをまず提示しつつ、そこにSFっぽいガジェットをとりこんで、うまくしんみりさせてくれる一品。いやほんとに「一品」という感じでシンプルにまとまってるんだよな。短編かくあるべしである。

「巷説磯良釜茹心中」(雨下雫)

ひるがえって、こちらはむしろ最初SF色が濃いのだけど、徐々に肝が冷える感じ。もともとの「吉備津の釜」の主人公じたいかなり人間くさいというか、ホラーの登場人物らしいある意味憎めないクズっぽさがあるのだけど、こっちもこっちでしっかりそう。ところどころトンチキに見える展開が見え隠れし、しかしそれが不思議に収まっていくところが怖さにつながる。

「月下氷蛇」(シモダハルナリ)

シモダハルナリ……いったい誰なんだ……。

「イワン・デニーソヴィチの青頭巾」(鴻上怜)

あの収容所文学が「青頭巾」の世界にどうやって……そう、異世界転生トラックを介して繋がるんだ。そこがいきなり良すぎるんだよな。語り口はあくまでロシア文学(の翻訳)っぽさを維持しているのだけど、そのまま日本の怪異譚が語られるズレもまたおもしろい。そしてなんとなく抹香臭いオチだからこそやっぱり雨月物語っぽいと感じるのがまたうれしい。

『斜線を引かない』(murashit)

で、最後が私のやつで、なんでこの雨月物語×SFの話のマクラに『夜のみだらな鳥』の話をもってきたのかというと……というところを書こうとしたのだけど、ここまででなんとなく感じていただけるんじゃないかと……いや無理か。ひとつ言っておくと、『夜のみだらな鳥』はこれまでみてきたとおりオブセッションの話ですし、『雨月物語』の怪異を生むのもやはりオブセッションだ。だから「貧福論×情念経済」としました。ほんまかいなって? ぜひ実際に読んで、君の目で確かめてくれ!

*1:水声社の本であり、Amazonでは版元からの販売がないため注意してください

劇場版 のんのんびより ばけーしょん

「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」むちゃくちゃ良いんですよ。泣けたから良いと言うつもりなどさらさらないんですが、ともあれ自分はボロ泣きしてしまったんだよな……。

nonnontv.com

どうしてだったのだろうか。

そもそも「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」という舞台がもうひとりの主人公たる本作において、「沖縄に場所を変えて、これまでどおりのキャラクターたちが遊ぶ」という沖縄編はどこか物足りなく、原作においてそこまで好きなエピソードというわけでもなかったんですよね。4、5回に分かれ、それでも紙幅が限られている漫画版だとどうしても仕方のないところではあるのですが。

で、そこにオリジナル展開を加えて70分ほどのアニメーションにまとめたのが本作なわけですが、この「問題」をどうにかするとなった際に、夏海のシリアスな面を出すというのは自然な流れだとは思うんです。舞台の不足を補う……いや、けっして沖縄が魅力的でないという意味ではないのですが、「登場人物としての田舎」が不在であることを補うという意味で。

ただ、夏海に真面目な顔をさせる話って、そのままやってしまうと単に「なんか居心地が悪いな……」みたいになっちゃいがちなところでもあると思います。そこをを逆手にとってくれたのが本作で、その居心地の悪さが夏海とあおい(オリジナルキャラクター)との距離のとりかたの緊張感に反映されているんですね。まずここがむちゃくちゃ良いんですよ。

この居心地の悪さに慣れる……というより、丁寧なエピソードの積み重ねによってこの夏海の感情が自然に感じられるようになるのとシンクロするように、彼女たち2人の距離も近づいていく。もちろん、れんちょんも小鞠せんぱいもほたるんも、あおいとの距離がちぢまる。とうぜんのことながら、最終的に別れなければならないという古典的な悲劇の前提のもとで。

そして終盤、(原作を読んでいる方ならご存じのとおり、本作にも)夏海とひか姉が帰りたくなくて泣く「ギャグシーン」があり、その場はひか姉がいるおかげで原作どおり「型としては」ギャグとしてオチがつくんですが……って、ここからはさすがに言わんとこうか。実際に観ていただくとして、なんだろう、夏だったんだよな、越谷夏海っていう名前は伊達じゃないよ。

もう一点、じつはもとの舞台である「田舎」が忘れ去られているわけでもない(「『登場人物としての田舎』が不在」と言ったな、あれは嘘だ!)という話もあります。

というのが、「田舎」と沖縄(竹富島)とをつなぐモノとして、れんちょんのスケッチが出てくるんですね。具体的にどんなふうに出てくるのかは、これも実際に観て確認してほしいんですが、沖縄のなかで「自分たちの田舎」をその都度思い起こさせ、対比させるはたらきをしてくれている(さらに言うと、自分の記憶が正しければ、沖縄パートにおいてはおそらく意識的に夕暮れどきの描写がオミットされていて、帰宅時の「山間部の夏の夕焼け」と対比されていたように思う)。

先述のとおり、そもそものんのんびよりっていう作品は「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」の話です。いっぽう、本作における隙のない美術で描かれるのは「竹富島という実在の、典型的で、エモーショナルな夏の海」のイメージです。

正直なところ、SNSなどで流れてくるエモーショナルだったりノスタルジックだったりする夏のイメージには「もうええやろ」という気持ちがありました。あったはずなのですが、この対比のおかげなのか、さらに個人的な話として「山間部の子が海を見るときの驚き」に共感(共感!)してしまったからなのか、あまりにストレートな2つの夏にノックアウトされちゃったんだよな……へへへ……。少なくとも種々のエピソード(これは原作にもあった良さですね)や美術の細部における「夏」のイメージの補強にまったく手抜きがないというのは間違いないところだとは感じています。

ということで、とりあえず2点、言葉にはしてみたのですが、例のごとくうまく表現できているとはまったく思えません。思い切り雑に言うと、前者は(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)百合が好きな人が好きそうなところのような気がしますし、後者は文字通り(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)エモい夏が好きな人が好きそうなところのような気がします。

……いかんな、締めが妙に冷笑的なイメージになってしまった……実際に泣いてしまったぶん照れ隠しだと思ってくれ……「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」、なんたって、めちょくちょ良かったので……。