『文体の舵をとれ』練習問題(7)「視点(POV)」問一

400〜700文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。

出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしても構わない)。

ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが 起こる 必要がある。

今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。


問一:ふたつの声

①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で——老人、こども、ネコ、なんでもいい。三人称限定視点を用いよう。

午後四時のコンビニに客は少なく、雑誌を立ち読む男がひとりだけ、いつも通りならあと半時は動くまい、来たる夕食どきに備えて品出しを一段落させたユウジは、続いてなにを片付けるべきやと思案しいしいレジへと戻る。戻って、立ち、見れば、自動ドアの向こうに少女がひとり首をかしげている。センサが反応しないらしい。立ち往生とみえる。察したユウジはドアへと近づく。ひとりでに開く。おそるおそる入ってきたワンピースの少女は、ユウジに向いて立ち止まる。反射的にいらっしゃいませと音声したユウジは子供が好きだ。少女は震えていたが、ユウジにそう見えたというだけのことかもしれない。ユウジは子供が好きだから、どうしたのと声をかける。かけたところで立ち読んでいた男が動き出す。半時は動くまいと踏んでいた男に、お前こそどうしたんだよ、と思うや、少女はおつかいに来たのだとユウジに告げる。牛乳を買いに来たのだと。なるほど。だから、あそこだよ、と、ユウジは指差してみせる。少女はどこか楽になったと見え、膝を高くに歩きはじめる。もちろん、付いていってやるというのは、それは、やりすぎであろう。それに店員として男を待たねばならない。ユウジは思案しいしいレジへと戻る。戻って、待つ。パック飲料の棚はレジからも見渡せる。少女はプライベートブランドの牛乳を眇めている。しっかりしたものだ。いや、そっちは低脂肪乳だ。そう、そう、それだよ。選ぶことに満足したらしい少女はおっかなびっくり牛乳パックを抱え、レジへと歩きだす。ユウジはため息をつく。安堵して、男が居ると思しきを見れば、いつも通りのチューハイを片手に、つまみを片手に、やはりこちらもレジへと歩いてくる。あぶない、とユウジは反射する。なぜって、ちょうど二人がかち合うと見えたからだ。けれど、そうはならなかった。歩を早めた男が先着だ。ぶつかるだろうが、大人気ねえ、そう思ったユウジではあったが、もちろんおくびにも出さない。いつも通りにレジを打つ。先手をとられた少女を横目に、なぜって少女が気がかりだったから、いつも通りならレジ袋は不要だと考え考え、先手をとられた少女を横目に見ながら、なぜって乱暴な大人に横入りされたなんて気落ちしているのではと気がかりだったから、ユウジは少女を横目に見ながら、男の差し出す金を受け取る。そんなユウジの心配をよそに、少女はレジ前の通路に並ぶポケモンのグミを物色している。グミを買うだけのお金は持ってきているのか、それになにより、牛乳を床に置くのはやめたほうがいい、そうやってユウジがまた別の心配をはじめるころ、男はすでに影もない。

②別の関係者ひとりのPOVで、 その物語を語り直すこと 。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

タケルは焦っていた。誰がどう考えたってコンビニで立ち読みなぞしている場合ではないのだから。社長室とは名ばかりの会社の倉庫、タケルはそこに鎮座する古びた金庫から、滞納した家賃の足しにするためと、締めて三十万を持ち出した。会社では小心者で通るタケルがそんな大それたことをするなんて、誰ひとりだって思うまい。タケルは実際小心者だ。だから、タケル自身にだって信じられなかった。けれど、タケルの羽織るジャケットの内ポケットには裸の札束があった。いくらもあったうちのたった三十万だ。締め日までは誰も改めないに決まっている。それでも三十万だ。タケルは胸にその厚みを感じる。用心するに越したことはない。さっさと逃げるに如くはない。どうせ逃げるなら家賃の足しにする必要なぞないはずで、そんなことは誰にだってわかるはずだが、いまのタケルが気付くはずもない。これでまずは家賃を払うのだとコンビニへやってきて、それなのに少年漫画誌を立ち読みしている。タケルは焦っていたのだ。焦っていることは自分でも分かっていたから、どうにか落ち着くことが肝心と考えた。タケルにしては良い考えと言える。なにごとも形からだ。ルーティンだ。誰だって知っている。だからそれを証立てするように、タケルは少年漫画誌を立ち読みしているのだった。今日はマガジンの発売日だ。グランドジャンプの発売日でもある。いつも通りであれば、タケルはまず、そのふたつを読みきる。それから檸檬堂とつまみを買って、未払いの積み重なった部屋へと帰る。今日だってそれができるくらいには冷静であると、それをするからこそ冷静になれるのだと、タケルは思い込もうとしている。もちろん、誰がどう考えたって、あのタケルがそんなことで落ち着けるはずもない。飛ばし飛ばしに読んでいるマガジンは、三十分経って、それでもまだ半分だ。はじめの一歩が頭に入らない。と、店員がタケルのほうにやってくる。いつものタケルなら、そんなことに気がつかない程度には読みふけっているところだ。だが、今日のタケルであればすぐに気づいてしまう。もちろん、なにかがバレだなんて、そんなことがあろうはずもない。そんなことは誰にだってわかる。入り口に子供がいて、店員はそれに気がつき、やってきた。それだけのことだ。けれども、それを横目にしたとたん、タケルの心中に、なんとなしに厭な気持ちが起こった。厭な気持ちはすぐに具体的な言葉に結ばれる。もうやめたほうがいい。タケルは突然そう思う。誰もが知るとおり、啓示というのは突然であるからこそ啓示たりうる。もうやめたほうがいい。タケルは声に従う。マガジンを棚に戻す。わかった、これが最後だ。例の子供に目もくれず、飲料水の棚へ向かって、檸檬堂を一本、それから今日選んだのはカルパスだ。タケルはこれを最後にするつもりだ。飲んだら、飲んだ勢いで、金を返しに行く。タケルは歩みを早める。景気づけの日にはいつもカルパスだ。レジへと向かう。もう決めたことだ。会計を済ませる。ただ、最後に酒を飲むことくらい。踵を返す、と、子供の横顔が目に入る。子供は駄菓子を物色している。小学生のときに好きだったタカセに似ている、だからかもしれない、そうタケルは気付いて、足早にコンビニを後にする。だからなんだというのか、誰だってそう思うにちがいない。

『文体の舵をとれ』練習問題(6)「老女」

今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。

テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。

ふたつの時間を越えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。  この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。

一作品目:人称―― 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。

二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

なお、この二作品の言葉遣いをまったく同じにしようとしなくてよい。人称や動詞語尾だけをコンピュータで一括変換してはいけない。最初から最後まで実際に執筆すること!  人称や時制の切り替えのせいで、きっと言葉遣いや語り方、作品の雰囲気などに変化が生まれてくる。それこそが今回の練習問題のねらいだ。

三人称、現在時制

石畳に火花が爆ぜる。刀身実に六尺の大剣が地を削り、杖突き歩く老婆を狙う。一弾指、足元も覚つかぬと見えた標的は腰を撓り、鉄塊がその鼻先を掠める。だがそれも承知の上か、刺客はすぐさま得物を翻し、今度はまるで木の枝でも振り回すかのように、左から右へ、右から左へと打ち込みに転ずる。それでも老婆には擦りもしない。か細い杖一つで大剣を往なす彼女は、既にその太刀筋を知り抜いているとしか思われぬ。

それもそのはず、瞬く形勢から過去の記憶を呼び起こし、呼び起こした記憶そのままに、敵、そして自らさえも操る能力者、かの《記憶の模倣者(メモリ・トレーサー)》とは彼女のこと。こたび呼び起こさるるは三十余年を隔てた襲撃の記憶。目前にはあれと見紛う大男、これと見紛う大男。どちらが「いま」か、どちらが「あの時」か、つまらぬ区別など最早彼女には意味をなさない。寸分違わぬ呼吸、寸分違わぬ軌道の一太刀一太刀に、通暁を尽くした型をなぞるが如く、彼女は泰然と応じてゆく。

これ以上は切りがないと悟ったか、襲撃者も立て直すべしと決めたらしい。締めの一振りを大きく外した勢いがそのまま、身体ごと右回りに後方へ飛び退く。しかし、《メモリ・トレーサー》がその隙を見逃すはずがあろうか。老婆の手元に何やらぎらりと見えたその刹那、既に彼女は五十六年前の記憶の裡に立っている。見れば、ざんばら髪に隻眼の、ひょろりと伸びた美青年。巨躯に大剣の醜男とまるで形は違えども、肩口そして太股の肉に固さが見える。然らば彼女が追うべき動きもまた、毫と違わぬはずだ。仕込み刀に虚を突かれ、二間の縮地に怯え切り、三度の刺突に体幹を崩した男には、敵が左の手に取った一丁の手筒にさえ気付けまい。

銃声が響き、巨漢と鉄塊はともに地に伏す。止めの瞬間に何を思い出したのだろうか、対する老婆は慄然と立ち尽くし、目を潤ませている。

一人称、今=現在時制/かつて=過去時制

顔を上げれば、ほうら、馬鹿みたいにおおきな剣が地面を引っ掻いて、ものすごい勢いで——いや、ひどくゆっくりと、こちらに迫ってくるのが見える。またお客さんかい。やれやれとわたしは腰を反り、それから空を仰げば、馬鹿でかい剣の切っ先が前髪をかすめる。あの年はひどかった、厄年だったからだろうか。あのときもやっぱり、馬鹿がひょっこり来たのを避けながら、透いた空を見上げたんだった。大柄ななりに似合わぬ童顔で、その釣り合わなさのせいか、そりゃもう不細工な男だった。ぞんざいに得物をすくい上げ、それから力任せにぶんぶんと振り回していた。そうそう、ちょうどこんな男に、こんな得物だった。だからわたしは五寸ほど身を引き、右手首をひねりつつ、腰から杖を振り上げて、受け流し——いやはや、これじゃあまるで、わたしが稽古の相手をしてやってるみたいじゃないか。まるであのときのまんまじゃないか。知ってるよ、次が最後の一振りだろう。だから膝からひと屈み、お次はわたしの番。仕込み杖の掛け金を弾いたとたん、またべつの記憶がまとわりつく。あのときは、そうさね、なかなかの男前だった。それに比べてこんどのはひどい醜男だ。だけども、肉の動きに見える妙な癖はあの若い衆といっさい同じ。まずは左膝から外三寸にひと突き。それから上がって左脇。肩を大きく引いたなら、最後に右の脇腹にもうひと突き。身体が崩れ、男前が引きつったあの瞬間、こんな出会いをしたのでなけりゃ、なんて思ったっけ。私もまだまだ若かったってことだろうね。それに引き換え、目の前の馬鹿には、むしろこの引きつり顔のほうが似合って見える。これはこれで男前かもしれないよ。そうしてわたしは腰の手筒に手をかけて、腰だめに——ほうら、出た。やっぱり師匠の顔だ。止めを刺すとき、わたしはいつも思い出す。齢八つのおかっぱ娘がはじめてひとを殺し、ひとりだちした日のことを。

最近なんか書くときに断続的に考えていること

ね群の新刊告知と遅ればせながらの夜ふかし百合参加報告をしたいなと思って、その前置きをと考えはじめたところで、「これ、まとめるのにたぶんめちゃくちゃ時間がかかる(あるいは無理)」と思ったので、いったん雑な箇条書きのまま残しておこうと思いました。でないと成仏できそうにないので……。

というわけで、問題意識薄い!などなどご笑覧ください。用語の使い方についてかなり吟味が甘いのは、はい、そこは、すみません(そこをちゃんとするのが今はしんどいと思ったんですよ!)。

  • 問題意識1:そもそもなんで苦しんで小説書いてるわけよ
    • 最終目標としては、端的には文章うま太郎になりたいんすよ。注意したいのは、ここに物語的なおもしろさみたいな含意はいっさいないということ。なので、べつにノンフィクションでも詩でもいいということになる。ほぼ純粋に技法的な側面からの話
      • じゃあこの欲望のもとにあるものはなんだろう?というのは現状ちょっとわからないのだけど
      • 実際問題、物語を考えるのがマジで超苦痛なんすよ、そういう意味でメインの目的でないから
    • ではなんで文章うま太郎になるために小説を選ぶのかといえば、こちらはいくつか理由が考えられそう
      • 端的には書き方の自由度が非常に高いからではないか。ノンフィクションだとどうしても事実の軛がある。フィクションであればノンフィクションのふりもできる(でもって、それを分けるのは後述するとおりけっきょく語用論的なレイヤの話であり、ベタな技法面には直接関係してこないのではと考えられる)
      • 散文詩でもいいんじゃない?というのはもちろんある。あるんだけど、しんに言葉だけで自立させるのは正直ちょっと自分には荷が勝ちすぎると感じるところがある。ついでに言えば、最低限は読んでもらいたい(「こうせいああせい」とか「こういうのあるで」とか言われたい)というのももちろんあり、そのためには不慣れな物語制作をしたほうがまだましなのでは、と。かろうじてであれ、書くときの芯にもできるし、読んでもらうときの芯にもできるというメリットがある
    • 「技法」をもうちょっとだけ分解すると、構造(情報のマクロな配置みたいな話だったり、もっと抽象的な、全体が準拠するモデルだったり)、形式(文体みたいなミクロな話でもあるし、もっと表層的な、それこそプレゼンテーションの話である場合もある)に分けられるのかな?これもなんか直交してない気がするが、まあいいや
  • 問題意識2:けっきょく小説書くとき何してんのよ、なんでこんなにしんどいわけ?
    • そうはいってもやっぱりしんどいものはしんどいでござんす。そうなってくると、「そもそもおれは、いったいなにをやっとるのや」という疑問が生じるのも必定。そこでこの疑問になるというわけ
    • 何をしてるかって、端的には「フィクションを書いている」ということにはなるわけだけど、もちろんこれだけではけっきょくどういうことかはよくわからない。なのでフィクション論や、組まれた物語をどう整理できるか(ナラトロジーとか?)そのほかいろいろ気になってくる。実際にいくつか読んだりもしている
      • もうけっこう前だが清塚『フィクションの哲学』を読んでみたところから、ちょうど今シェフェール『なぜフィクションか?』を読んでいたりするのもそのため。ウォルトンの『フィクションとは何か』(積んでる)やライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(これもけっこう前に読んだけどどうもわかった気がしなかった。今改めて読むと違うんだろうか)とかもそうでしょうか。なんかそのへんいろいろ、あと分析美学関連のものを目下読んだりしているのもそういうことだと思う
      • ナラトロジーについては……まあいいか、最近とくにおもしろかったのは大岩「物語に『外』などない」あたりとか
      • 構造というかモデルの観点からは、円城塔の話につなげて改めて数理論理学ちゃんとやっとかねば……というのもそのあたりに近いだろうか
      • ミクロな技法についていえばまさに文体の話ではあって、そういう意味では文舵のおもしろさというのはあきらかにその一種だし、あとはもちろん日本語文法とかについてもちゃんとやりてえと思っています
    • ただ、読んでくと、上記のような領域のなかでもそこまで興味のない分野があることが見えてくる
      • 端的には虚構世界やそこに住まう?キャラクターなどなどについて、ちゃんとした存在論?を考えることにはあんまり興味がないっぽい。もちろん虚構指示だなんだと考えるならある程度整備できておく必要はあるんだろうけど、そこからそれらの「実在」ってなんぞやみたいな話にまで持ってくモチベーションはないというか。それに、整備するったってガチガチに様相論理学とかができる気もしないし……。上述したとおり、どちらかといえば日常的な実践のほうに興味の出自があるからだとも思う
      • また、フィクションとは厳密にはなにか、というところもそこまでは……。いろいろ読んでいると、けっきょくのところフィクションとして読まれるのって、書き手と読み手の共有するモードの話としか言えない(統語論からも意味論からもうまく定めることが困難で、語用論の範疇でしかいえない)っぽいなということになってきて、自分自身そんくらいでいいやと落ち着いているところがある。理由としてはこちらも実践上それで問題ないしなというのはあると思う
  • 番外編:ボトムアップな論点
    • ここまではトップダウンな話。ここでは実際に書いたもののなかから見つけてみようと思うのだけど……ざっと見ると、たしかにいくつか挙げられるように思う。以下自作の名前が出てきますが、恥ずかしいからリンクを張るのはちょっと勘弁な
    • 表層的な形式について
      • 「神の裁きと訣別するため」の箇条書きや「点対」の二行ワンセットでの記述はちょうどこれ。「点対」の告知で書いた文章はこのへんへの意識をまあまあ書き出せているんではないか
      • ただ、この方向性については、正直「点対」がぼくの実装力の限界ではあったと思う。もっとやるならむしろビデオゲーム方面から詰めていったほうがいい気がするが、そこまでの実装力もモチベーションも、いまのところはないのであった……
      • Google Mapsで無段階に拡大縮小できる小説」みたいな話をどこかでしたことがある気がする。ほかにも環境ストーリーテリングみたいなのも興味ないこともないんだけども。逆に言えば、べつにこれ、いわゆるマルチエンディングみたいなのにはそこまで興味がないってことになるのかもしれない
    • 虚構世界の限りなさについて
      • 虚構世界のとっかかりを種としてつくれば、そこからばば〜っと虚構世界が立ち上がってくるでしょ、みたいな話といえばいいんかな……。無限に語れることが出てきてしまうわけで、だからこそ「問題はその切り取り方だよね」という次の項目への萌芽でもあるのかもしれない。もちろんそれは現実の世界という栄養があって育つものではあるが……とかとかちょっと比喩が過ぎるなこれ
      • なぜか最近ではいちばん明確に意識していることのようだ。なんでだろうね、よくわからないんですけど。「できるかな」は完全にそこから書いたものだし、次のね群の「大勢なので」はまあ、わりとわかりやすくそういう話もできている……はず(いや、直接的ではないが、十分そういう部分があるというか)
      • 端的には『はてしない物語』の有名な「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」でもある。それこそ「点対」の紹介文にも使ったくらいだし……
      • あと、どうも自分は、バラードの有名な錆びた自転車の車輪の話をそういう話としてとっているフシがある。おそらくもともとのバラードの意図とは違うと思う
      • 突き詰めていけばさっきの存在論?の話になりそうとか、あるいは数学っぽい意味での健全性や完全性みたいな話(でアナロジーできるなにか)にもつながりそうなんだけど、とはいえ上述したとおりそこまでやりたいか?といえばそこまでではなかったりする、とおもう
    • 語り手・書き手の位置付けについて
      • 広くとればそんなもん誰でも意識するだろって話でありつつ、特殊化するといかにもな感じでメタフィクションにつながるやつ。でもでも「なんでこんなしんどいことを……」と思うとき、ここが頭をもたげてくるのは、そりゃあ、あるでしょうと。こっちも「はてしない物語』のさすらい山の古老とかの話と言えるのか……どんだけ気になっとるんや……
      • ただやっぱり、どちらかといえば情報を切り出すときのデザイン面での問題意識のほうが大きい、だからなんというか、それこそナラトロジー方面の意識はそれなりにある、んだと思う。一方で、じゃあ『紙の民』みたいな「書かれたものが反乱を起こします」みたいないかにもなメタフィクションについては(好きは好きだけど)自分でやりたいかといえばそういうわけでもないと思う
      • それでも、なにが記述できるのか/記述しなければならないのか、みたいなところはそれなりに意識的になるところではあって、このへんは円城塔とか読んでるときに気になっている点でもあるのかもしれない。先の項目とも、どうしても関連してしまう
      • あるいは、(この問題意識の芯を突いているかはよくわからないんだけど)SFとかで、人間とまったく違う思考をもっている者とかの心的表象(?……そんなものがあれば)を日本語に翻訳するという過程において、じゃあどう書くの、みたいなのは、「斜線を引かない」あたりでやろうとしてみたやつだと思う。端的にいえば、できないんすよね……
      • 最近語り手-書き手-作者の三項でうんぬんとかTwitterで言ってたのはこのへんの話のはず

総じて、なんか無駄な努力をしている感じだとか、そもそも勘違いしているのではという感じが否めねえんだよなあ……。

『文体の舵をとれ』練習問題(5)「簡潔性」

一段落から一ページ(四〇〇〜七〇〇文字)で、形容詞も副詞も使わずに、何かを描写する語りの文章を書くこと。会話はなし。

要点は情景(シーン)や動き(アクション)のあざやかな描写を、動詞・名詞・代名詞・助詞だけを用いて行うことだ。

時間表現の副詞(〈それから〉〈次に〉〈あとで〉など)は、必要なら用いてよいが、節約するべし。簡素につとめよ。

「プレイボール!」の声におれたちは土を蹴りだす、先導するのは「職人」マクソン。向こうのベンチからも九人、トップを切るのは「迅雷」スタージェス——打率は三割四分九厘。

 二十五秒後に会敵。マクソンには三人が付く。おれには一人、スタージェスだ。監督はいつまでマクソン任せにするつもりなんだ——来月には孫が生まれるんだぞ。今日こそ次世代のエースとして認められ、マクソンには隠居してもらう。だからおれはスタージェスと向き合う。右手には、今日のためにと娘のエバが掘り当ててくれたビンテージのメープル製。迅雷といえど、この体勢なら五分と五分だ。先制攻撃——スタージェスのボールめがけ、縮まった耳をめがけ、右斜め上方から片手で振り抜く。

 だが、おれが叩いたのは球場だった。「ストライク!」の声。右手に痺れ——復帰まで〇・二秒。スタージェスはその隙をつき、両手持ちに振り被る。大振りが当たるとでも思ったか——おれは右腕を残し、後方に跳ねる。「ストライク!」の声が——いや——スタージェスは振り抜いては——翻ったバットがおれの顎をめがけて迫る。

 衝撃。

——おれの身体はどこだ。「ホームラン!」と球審——頬には芝が刺さり——「迅雷」がホームベースへと歩きだす——バットを放り投げ——おれはそれを目で追う——晴天に太陽——見知らぬ男たち——おれに微笑む——あれは、タイ・カッブだ。それから、ベーブ・ルースロバート・ジョンソンジャッキー・ロビンソンもいる。核戦争前の、本物の球界の偉人たち。ハンク・アーロンカニエ・ウェスト。親父から聞かされた。ノーラン・ライアンロバート・オッペンハイマー。野球の殿堂へと。ショウヘイ・オータニ。ジェイ・ギャツビー。ジョー・ディマジオロバート・マクナマラランディ・ジョンソン。おれを迎えに来る。

『文体の舵をとれ』練習問題(4)「重ねて重ねて重ねまくる」

問一:語句の反復使用

一段落(三〇〇文字)の語りを執筆し、そのうちで名詞や動詞または形容詞を、少なくとも三回繰り返すこと(ただし目立つ語に限定し、助詞などの目立たない語は不可)。(これは講座中の執筆に適した練習問題だ。声に出して読む前に、繰り返しの言葉を口にしないように。耳で聞いて、みんなにわかるかな?)

 ババア、花の供えられた墓石、墓石と萎びた菊、黄色と白の花と同じ色の砂糖菓子と墓石(ババアの来し方)、蝉の止まっているらしい桜(声の主は見えず)、持ち慣れない水桶が揺れて水滴が跳ね、幹から密度の薄い葉々の向こうに寺の漆喰壁、屋根、鱗雲と傾いた日に通路を挟んで墓石(蚯蚓の死骸と乾いた苔)、花の供えられた墓石、それから墓石(蝉の抜け殻と川村家之墓)、水桶を置き(日の光と水滴が跳ね)、裕樹の名前はあの石版にあるか、柄杓で水を掬い(跳ね)、花立に注ぎ(跳ね)、あとで見てやろう、仏花を挿し(最安値の菊束を、慎重に)、面倒でも線香くらい持ってくるべきだったか、手を合わせる(戒名、なに童子だろうか)。

問二:構成上の反復

語りを短く(七〇〇~二〇〇〇文字)執筆するが、そこではまず何か発言や行為があってから、そのあとそのエコーや繰り返しとして何らかの発言や行為を(おおむね別の文脈なり別の人なり別の規模で)出すこと。

やりたいのなら物語として完結させてもいいし、語りの断片でもいい。

 いわゆる「名送り禁止法」の法案可決が濃厚となり、この夏で最後となるであろう名送りの様子を、兵十は橋の上からぼんやりと眺めていた。ここ十年ほどのひどい赤潮は川に流された名前が原因であるとの報道、それからはじめは漁師たちのあいだで、次いで環境活動家、それから全国へ廃止運動が広まり、このような顛末に至るまで三年とかからなかった。名送りの様子は昔もいまも変わらない。それなのにこんなことになったのは、なにより海のむこうからやってきた最新鋭の刳り機のせいだろう。名を刳り付け替えるのに熱心な人間がずいぶん増えた。似た風習のある別の国では、刳った名を土に埋めると聞く。それを不浄として流すのは、山と川ばかりで平地の少ないこの国ならではか。それでも国は各地での名埋め地の造成を急ピッチで進めている。こちらはこちらで反対運動も厳しいと聞くが、赤潮被害の深刻さを考えればやむなしというのがもっぱらだ。自分の家の近くにできるわけではないのなら、と。

 それにしても、これで見納めとは。兵十にはどうにも実感が湧かなかった。河原では男女数人のグループが、次に付ける名のことで盛り上がっているらしく、その声がこちらまで聞こえてくる。互いに名を贈り合うつもりらしい。そういうことはやめておけ、自分で付けるものなのだと、大人たちから口すっぱく言われてはいるはずだが、年頃ではある。そういう子供は少なくない。すぐに後悔し、こっそり親につれられてやってきた子供たちの新しい名をまた刳るのも——例の刳り機のおかげでずいぶん減ったとはいえ——やはり兵十の仕事であった。十五になって親につけられた名を送るこの風習は、それでも自立への第一歩なのだ。それがなくなるとしたら、どうやって大人としての自覚を持てるというのか。

 先ほどの若者たちのぶんも含め、たくさんの名前たちがほの灯りとともに下流に進んでいく。会社員生活で身体をこわし、入院中に読んだ雑誌の隅に見つけた刳り師の話を読んで、合わない仕事に見切りをつけこの世界へ入ろうと決めたのが四十過ぎ、それから歳下の師匠に弟子入りしてから二十年。なんとか我が子を大学までやれたのは、兵十のぶんも妻が稼いでくれたおかげだ。いまでも妻には頭が上がらない。それでも我が子の名を自分で刳ってやれたのは、兵十の密かな誇りであった。

 職人というのはなんでもそうだが、刳り師にも繊細さと大胆さの両方が求められる。怖気付いて小さく刳ればもとの名前が悪さをするし、かといってエイヤと大きく刳ると新しい名前のひっつきが悪い。ちょうどいい塩梅を見極められるようになるまで、師匠には何度も叱られた。はじめはそこいらの花や虫の名を刳って練習するのだが、やつらは自分で名前をつけることもできないから、二、三日のうちに死んでしまう。名もなき花や虫たちが、だんだん覇気がなくなっていき、内側から腐るように死んでいくのだ。はじめのうちはそれが嫌で、刳るたびに新しい名前を付けてやろうとしたこともあった。ただ、毎日練習のために新しい名前を考えるのは刳る作業よりずっと骨が折れることだった。だからそのうちやめてしまった。そうやって何年も修行して、ようやく人間を相手にする。刳り師にとっての卒業試験というやつで、自分の名前を刳って、それから別の名前を付ける。一度で済むことはまずない。刳り師の界隈では、はじめて刳ったあとの名は決まって「一」とするという。元来おおざっぱな正確であった一は、どうやらひどく大きく刳りすぎたようで、その前の名前といっしょに刳ってしまったなにかは、兵十となったいまでも戻ってこない。刳り師ってのはみんなそういうものだと師匠は笑っていた。それに続けて、九度繰り返しても認められなかったのは、あんたが初めてだ、とも。そんな回数繰り返すような奴のために決まった名なんてない。だから兵十というのは、十度めの試みの際に自分で考えた名だった。結局師匠はしかたないとでもいうように認めてくれたし、実際そのあとすぐ独り立ちしてから今まで、ひどい失敗をすることもなかった。ひどく運が良かっただけなのかもしれない。

 修行していたころのことを思い出すなんて、ずいぶん久しぶりだ。そのせいだろうか、兵十のなかにある抑えがたい気持ちがふと湧いてくる。そうだ、おれというのはこの名前こそがほんもので、それを入れる身体なんてものは、いつ捨てたってかまわなかったんだ。だったらどうだろう、今ここで、それを試したっていいじゃないか。そう思うや、兵十は肌身離さず持ち歩く鞄から仕事道具を取り出す。名を刳るのではない、この身体をきれいに脱ぎすてるのだ。それから――

 誰かが落ちたぞ、という声が耳に届く。もう「誰か」でもなんでもないだろうと、男は笑いながら、暗い流れに身を任せる。

『文体の舵をとれ』練習問題(3)「長短どちらも」

問一:一段落(二〇〇〜三〇〇文字)の語りを、十五字前後の文を並べて執筆すること。不完全な断片文(間投詞や体言止め)は使用不可。各文には主語(主部)と述語(述部)が必須。

 今日も妹が泣きながら帰ってきた。今日も柳くんが泣かせたのだ。だからまたぼくは腹を立てた。ぼくは今日もまた腹を立てた。怒ったぼくの力は学校を動かすほどだ。怒ったぼくの気迫は町内を覆うほどだ。ぼくが柳くんちに殴り込むのだ。ぼくが仕返しをしなきゃならない。だけど柳くんの家はちょっと遠い。柳くんの家は三丁目のはじっこだ。それにあたりはすっかり暗い。六時に帰らなきゃぼくが怒られる。だのにぼくの自転車は壊れている。チェーンが外れてギアはだるだるだ。自転車のないぼくになにができよう。ぼくには殴り込めず仕返しもできない。明日にはこの力もしぼんでしまう。明日にはこの気迫もしぼんでしまう。妹よ、妹よ、ぼくになにができよう。妹よ、妹よ、ぼくにはなにもできない。

問二:半〜一ページの語りを、七〇〇文字に達するまで一文で執筆すること。

 数日前から塗り替えがはじまり、前日にはまったく塗り潰されていた、立体交差をくぐった先に見える看板にまさに描かれつつある、歯ブラシをくわえながらもどうにか笑みをつくろうと顔をゆがめる女の塗られたばかりの白い歯に目をやった瞬間に、背から腹を抱える腕の力がゆるんだと感じて、続く交差点にそなえ車線を変えようと後方を確認するついでに、危ないからちゃんとつかまれと言ってはみたもののやはり伝わらない様子だったから、スピードをゆるめ、英語だとどうだったろうかと迷ううち、後続のトラックに追いこされ、威圧感とともに横をすりぬけられ、取り残されるままに腕はだんだんほどけてくるようで、そうだホドミだ、ホドミ、ホドミタイと叫びながら車線を移せば、後ろの日本人がオッケオッケと、なにがおかしいのかやけに弾んだ声色で、せんだってよりずっときつく抱き付いてきたときの腕の感触が、それから空港に着いて金を受け取り、すぐに別の客をとって市街まで戻る道中も、それどころか今こうやって飯を食ってる最中も忘れられないままで、おかしなもんだと思い浮かべつつバオが腹をさすると、いっぽうのミンは、バアさんヌクマムが空だから持ってきてくれと瓶を振って、そんなにいい女を乗せたのかと笑い、バカ言え男だと答えようとするバオを制して、そういえば大カーブ、彼らは空港に向かう最後の大きな交差点に続くカーブをそう呼んでいたのだが、大カーブの手前の看板に最近描かれている、だからバオは看板というきっかけについては発話しなかったのだ、その新しい看板絵、屋台の裏手にも同じポスターが貼ってあることに二人は気付かないが店主は知っていて、これのことだろうねえ、その歯ブラシの広告のモデルは俺の姉貴の友達で、ほんとうさ、いっぺん寝たことがあるんだが、嘘だ、バオは気付く、ミンはわかりやすいやつだから、その絵の女より美人だったか、それほどでもないねえとひとりごちる声がする、そんなさまを思い浮かべながら離陸を待っていた。

『文体の舵をとれ』練習問題(2)「ジョゼ・サラマーゴのつもりで」

一段落〜一ページ(三〇〇〜七〇〇文字)で、句読点のない語りを執筆すること(段落などほかの区切りも使用禁止)。

 長かったとにかく長かった昇降機の揺れが止まれば約束の時間から二十一分といったところでドアが開くのももどかしくきっとオオヤギは怒ってるから踏み出せ踏み出せと踏み出し左を向いてもこっちじゃない右を向けばなるほど十五メートルほど先にそびえるのはでかい樹でオオヤギが見りゃわかると言ってたとおり首が痛くなるほど見上げたって中腹までしか見えやせずその大きさのほかになんの特徴だって見あたらないでかい樹だったから幹のはじはじをいちどに視野に入れることさえできやせずそのあまりの大きさにわたしの心のほうが耐えられなくなった結果頭のなかから樹の存在は追いやられわたしはオオヤギの姿をいつものように追うしかなくなった結果もう二十三分過ぎだからいつものように怒られないようあちらから歩いてくる男をひらりこちらの女をするりと樹の自若をよそにしたわたしは雑踏の駅前でオオヤギと待ち合わせるいつものわたしともう変わらない。