『フィクションとは何か』第4章のメモ

第4章 生成の機構

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

例が豊富でおもしろいんだけど、というか豊富だからこそ、結論としては「一筋縄ではいかんよね」くらいのことしか言ってない章とも言える。

生成の原理

小道具とともに虚構的真理を生み出す生成の原理について。

まずそもそも、解釈の不確実性や不一致が起こりうることが確認される。一つの作品=小道具に対して解釈結果=どんな虚構的真理が成り立っているかが異なりうるということは、生成の原理の適用が異なるということ。

というわけで、鑑賞や批評の際にどのような生成の原理が作動しているのかを観察し、さらに、なぜわれわれがそのような生成の原理を持っているのかを考察する必要がある。これが本章の目的である。

生成の機構は虚構的真理を機械的に生み出す手段ではない。機構とその作用のあり方は鑑賞者が詳しく調べることができ、その機構から帰結する虚構的真理よりも興味深いものであることもまれではない。画家や小説家の作品の芸術性の多くは、芸術家が見出した虚構的真理の生成方法に存しているのである。

直接的生成と間接的生成

まず、表象体が直接的に生み出している虚構的真理を「第一次の primary」もの、間接的に生み出している虚構的真理を「含意される implied」ものと呼ぶこととする(最終的にはこの区別自体に疑問が付されるため、あくまで作業仮説として解するのがいい……はず)。

たとえばゴヤの『戦争の惨禍』中の一作「見るにたえない」では銃の筒先のみが描かれており、その銃を構えた兵士は描かれていない。このとき、狙いをつけた銃が存在することは第一次の虚構的真理であり、それを構えた兵士が存在することは含意された虚構的真理であると言える。

また、単純な虚構的真理からであってさえ、たくさんの虚構的真理が含意されうる。

『グランド・ジャット島』において、公園を散策している二人連れは、食べるし、寝るし、働くし、遊ぶ、ということが虚構として成り立つ。二人には友人もライバルもいる。野心があり、満足したり落胆したりする。二人は地軸の周りで自転し太陽の周りを公転する惑星に居住しており、その惑星には気象と季節、山岳と海洋、戦争と平和、工業と農業、貧困と豊穣がある。

こういった含意される虚構的真理の多くはたんに「反対を示す証拠がない」というだけで生成されるような(むしろ反対である場合は興味深いものとして示されるであろう)ある種の背景である。けれども、たとえば肖像画における顔のパーツの配置が(その作者が表現したいであろう)「その人物の感情や漂わせる雰囲気」を含意しているケースのように、先んずる虚構的真理よりその含意のほうが重要であることもある。

以下ではひとまず直接的生成/間接的生成それぞれの原理に分けて考察していく。

間接的生成の機構

はじめに間接的生成における原理について。有力とされる説として次の2つが紹介される。

  • 現実性原理 Reality Principle
    • 「核心部の第一次の虚構的真理が許容するかぎり、できるだけ虚構世界を現実世界に似たものにする」という戦略。言い換えれば、「虚構世界と現実世界との間を最小にする」ような原理
    • 「矛盾した虚構的真理からは(少なくとも実質含意をそのまま使うなら)あらゆることが帰結してしまうのでは?」とか「作中で世界のごく一部しか描かれないとき、その虚構世界は現実世界の大半を含んでしまうのでは? それでは含意するものが多すぎるのでは?」といった(おそらく次のMBPでも生じ得る)疑問について、ウォルトンはとくに問題視しない。そもそも表象体のなかで焦点が当たっている虚構的真理はごく一部分であり、それも表象体ごとに違っているのだから、強調されていない部分は単に無視するだけでよいといった立場。わりとプラグマティックで好感が持てる!
  • 共有信念原理 Mutual Belief Principle
    • 「最初に作品が生み出されていたときの共同体で『公然と』信じられていたこと、ないしはその共同体の傾向性に含意関係の基礎を置く」ような原理。たとえば「地球は平らだと信じられていた文化における航海譚」みたいなときにRPとの違いが出てくる
    • これは「(共同体ではなく)作者本人が信じていることのみに基礎を置く」のでないことに注意。一般にわれわれはそのような形での想像をしながら鑑賞したり批評したりはしない

このうちどちらが優先されるのかについては、ざっくり言えばケースバイケースである(実際には自然の表象体に関する話や道徳に関わる虚構的真理の話、解釈や鑑賞の際に求める意義に関する話など細かい議論をしているが、ここでは略)。まとめは以下のとおり。

共有信念原理は、どのような虚構的真理が含意されるのかを決定する仕掛けとして理解されるとき、芸術家に何が虚構的かに関するより有効な支配力を与え、芸術家の身近にいる鑑賞者に、虚構的なものへのより容易な接近経路を与える。そして、共有信念原理は、芸術家が鑑賞者の想像活動を導くために表象体を利用するのをより容易にする。現実性原理は、どのような虚構的真理が含意されるのかを確認するために鑑賞者によって利用されるとき、鑑賞者のごっこ遊びへの参加をより豊かで自然なものとすることに貢献する。

その上で、(どちらがより本質的か決められないことはもとより)そもそもこの2つだけでは実際に生じている含意の繊細さと複雑さを説明できないとする。たとえば証拠とは言えない連想や慣習規約的な含意(お約束とかステレオタイプとかも含む)などが挙げられ、それらが発揮されるケースの不規則さについても示される。ここも例示が豊富でおもしろいんだけどやはり割愛

結局のところ、以下のように結論付けられる。

含意関係は何らかの単純な、つまり体系的な原理、ないし原理の集合に支配されているようには見えない。そうではなく、入り組んでいて、動きやすくて、しばしば競合している一連の了解、先例、局所的な慣習、顕著さ、といったものに支配されているように見える。異なる必要に応じるはっきり異なった原理たちが、違う事例でそれぞれ作用していて、どの原理が適用できるのかを決める一般的で体系的な高次の原理が存在するということはありそうにない。

直接的生成の機構

続いては直接的生成。含意と同様にこちらもまったく単純ではない。

たとえば、信頼できない語り手を持つような小説において、虚構として成り立つ命題はしばしば含意されるものであり、第一次のものではない。言い換えれば、なにかしらの命題が明示されているにもかかわらず、その命題が直接に虚構的真理とならない(どのような事柄が明示されている通りに虚構的真理として成り立ち、どのような事柄がそうではないかが、解釈=別の虚構的真理に依存する)ケースがある。信頼できない語り手によるものでない場合でも、どこまでが第一次的な虚構的真理でどこからが含意なのかはしばしば不確かである。このへん地味にもって回ったような書き振りをされてるので、結論はともかく理路にはちょっと自信がない……。

絵画についても同様で、たとえばデュシャン『階段を降りる裸婦』を「列を成して階段を降りる複数の女性たち」ではなく「ひとりの女性の連続的な歩み」を(直接的に)提示しているとみなせるような原理ははたして容易に見出せるだろうか。ほかにも、漫画における漫符のようなものや演出的な描写などさまざまな事例が挙げられる。

結局、ここまでをひっくるめて以下のようにまとめられる。

作品によって生み出されるいろいろな虚構的真理は、相互に依存しあっていて、そのどの一つとして他のものの助けなしに生み出されはしない。第一次的な虚構的真理というものは存在しないのだろう。では、どうやってその全体が始まるのだろうか。作品の言葉や色の配置は何らかの虚構的真理たちを示唆する。そして、この不確かな位置づけのまま、あるものが別のものの支えとなり、不確かさを取り除くのに十分な水準となるのだ。だから、作品の解釈者は、暫定的に受け入れ可能な虚構的真理の間で、納得のいく組み合わせに出逢うまで、往ったり来たりするほかないのである。

愚かな問いかけ

ムーア人の武将で知識人でもないオセロが、どうやってこんな素晴らしい詩句を組み立てられたのか」「『最後の晩餐』ではどうして全員が食卓の同じ側に並んでいるのか」といった「愚かな問いかけ」について。

  • エッシャーの版画やタイムパラドックスを含んだ作品のように、矛盾や不協和を真剣に受け取ることが重要であるケースもあるが、本節で扱うのはその種の問いではない
  • こうした問いかけに執着するなら、さまざまな表象体において虚構世界と現実世界の食い違いからいくらでも緊張関係を見出せるだろう
  • こうした問いかけの種になるような事象は、「レオナルドは13人が普通に食卓を囲むことが虚構的に成り立つほうを好んだかもしれないが、13人全員の顔貌を描くためにそれを犠牲にした」といった、異なった要求の衝突と選択の結果でありうる

ともあれ、こうした愚かな問いに対し、あえて答えるとしたらどのようになるだろうか。たとえば以下のような戦略が挙げられる。いずれにせよ説明の方法はあるというわけ。

  • パラドックスの原因となるような虚構的真理を退ける
    • 含意関係のどのあたりで差し止めを入れるべきかははっきりしない場合も多いが
  • (拒否するのではなく)たんに強調しないことにすると明言する
    • したがって、そこから含意関係を辿っていったりもしない
  • 相矛盾する虚構的真理を受け入れ、それらをともに強調しつつも、それらの連言が虚構的に成り立つことは拒否する
    • これは夢を理解したいときなどには適しているだろう

このような説明が可能であることから、生成の機構には(ごっこ遊びをより良いものにできるから、といった意義のある)ある種の寛容の原理のようなものも働いているということが観察できる。

いろいろな帰結

  • 生成の機構は、ときに単純で誰にでも認知できる、ときに複雑で工夫に富んだ、つまりなかなか首尾一貫しない、体系化を拒むものである
  • 作品の解釈や評価は作品が生み出す虚構的真理に大きく依存する一方、逆に「なにが虚構的に成り立つか」に関する決定のほうもその作品の解釈や評価から影響を受ける
  • 「虚構的な命題」とはいつでも「想像せよと命じられた命題」であることに尽きるという点に改めて注意せよ。不規則なのはあくまでその命令が確立される手段に関してである
  • このように不規則な原理であっても、ともかくわれわれはそれを習得できる(「私が与える根拠はすぐに尽きてしまう。そこからは根拠など無くやっていくのだ」「私の与えられる正当化が尽きてしまったら、私は岩盤に達したのだ。私のシャベルははね返る。そして私はこう言いたくなる。『私はこうするんだ』」という『哲学探究』の文言が引かれる)
  • ある意味では、なにが虚構として成り立つかについての特定の意見が最終的に正当化されるということはあり得ない。ある程度「概念的枠組み」なりなんなりに相対的であることも認める。けれども、さまざまな判断がどれ一つとして真または偽ではありえないということを認めるつもりもない

以上で第1部「表象体」おしまい。表象体がなんなのかはわかったということで、次は第2部「表象体の鑑賞体験」として、表象体が何のためにあるのか、虚構という制度の眼目とはどんなものかについて観察する。

つづき:

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『フィクションとは何か』第3章のメモ

第3章 表象の対象

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

※今回も実際の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。また、本章はこれまでに増してまとめ方に自信がないです……。

表象の対象

第1章で出てきた「想像のオブジェクト」と本章で出てくる「表象の対象」が同じなのか異なるのかについては「想像の対象」と「表象の対象」再訪 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめあたりも参照。

ある物についての想像を命令することがある作品の機能であるとき、その作品はその物についての(物の水準の de re)虚構的真理を生み出す。このとき、その物はその表象体の対象となっている。

おおざっぱにいえば、「この作品は〇〇についての作品である」「この作品は〇〇を描いている」などというとき、たとえば、「セザンヌの『サン・ヴィクトワール山』はサン・ヴィクトワール山を描いている」とか「『戦争と平和』はナポレオンについての小説である」などというとき、サン・ヴィクトワール山やナポレオンを、本書では「表象体の対象」と呼ぶということ。

以外諸注意。

  • 表象体は、たいていは「ある事物が存在し、その事物に関する命題が虚構として成り立つ」というかたちで表象するけれど、「ある事物を存在しないものとして表象する」ことも可能
    • たとえば「朝起きてみるとジョージ・ブッシュが1988年の大統領選で当選したことが夢にすぎなかったとわかる」など。このときでも、やはりこの表象体の対象はブッシュの当選という出来事である
    • 表象体の対象は、その虚構の中に必ずしも存在するとは限らない、ということ
  • すべての表象体が「現実の」事物を対象として持つわけではない
    • たとえば「ユニコーンを描いたタペストリー」など
    • このケースにおいては、記述の水準での de dicto 虚構的真理、すなわち、いかなる個別的な事物にもかかわらない虚構的真理が生み出されている。が、「ある非現実のユニコーンについての(de re な)虚構的真理を生み出している」と考えるべきではないとする
  • 「表象する」と「(表象体が現実の事物と)一致する」とは異なる
    • ここでウォルトンは「一致すること」を「表象体と世界の中のあるものとが完全に照応する correspond こと」としている(やや大ざっぱな説明だが、細かくは略
    • たとえばロングフェローの「ポール・リヴィアの真夜中の騎行」はリヴィアを間違って表象している(一致しない)が、それでもあくまでリヴィアを表象している(リヴィアは表象体の対象である)
    • あるいは、かりに『トム・ソーヤーの冒険』のトム・ソーヤーとまったく同じ身なり、まったく同じ行動をした少年が作品とは関係なく偶然に現実に存在した(一致する)としても、トゥウェインの作品はこの現実の少年を表象したものではない(この少年はトゥウェインの作品という表象体の対象ではない)

ここで使われている de rede dicto の違いはちょっとややこしい(ほかの本とかでもこの区別をつける必要があるときはだいたいややこしいんだよな……)。訳注によれば、この箇所での「『物の水準の虚構的真理』とは、ある対象についてどのような表現や描写がなされていようと、現実に存在しているその対象に対し、当該作品の虚構世界において成り立つ虚構的真理」と思われる、とのこと。

まずは現実に存在する事物についてのみ扱い、ユニコーンなどそうではないものについては後ほど。

表象と指示

「何かを表象している」といったことを決定する要因はなにか。すなわち、どのような生成の原理がそこで働いているのか。詳しくは次章にて検討するが、ひとまずは「表象することは指示することの一種である」と考える(このあとの「対象は重要でない」と併せて考えると「なんらかの対象を表象することはなんらかの対象を指示することの一種である」と言うべき?)。

何かが表象体の対象になるには、作品が作られるときにそれがなんらかの因果的役割を持たねばならない(先述のとおり、これは「一致する」には要求されない)。このへんの絵画の表題や作者の意図との絡みの話はおもしろいんだけど、いったん略。 かといって、作品にモデルがあるからといってそれがそのまま表象の対象になるわけではないことに注意。絵画はもちろん、たとえば『デイヴィド・コパーフィールド』が「自伝的」である、すなわちディケンズを「原型としている(と思われる)」からといって、『デイヴィド・コパーフィールド』がディケンズについての虚構的真理を生み出しているとは(ふつうは)考えない。

表象があくまで指示の一種でしかないからには、表象体による指示作用ならなんでも表象する働きになるわけではないことにも注意。たとえば、風刺画において怪物がなにか実際の人物になぞらえられているとき、この怪物はその人物を寓意的に指示しているが、その人物を表象しているわけではない(その人物が風刺画にある怪物そのものであることを虚構的に成り立たせているわけではない)。

対象の使い道

現実の事物を表象することの便利さについて。たとえば以下のようなものが挙げられる。

  • 記述/読み取りの無駄な手間を省ける
  • 一般性のある教訓を与える際に、説得力を増すことができる
  • 想像活動をより生き生きとさせられる

反射的表象体

表象体のなかには、自分自身の対象になっているものも存在する。これを反射的表象体 a reflexive representation と呼ぶ。たとえば人形は、子供たちに赤ちゃんを想像するよう命じているだけでなく、その人形自身が赤ちゃんであると想像するよう命じている。手記や自伝、書簡などの体裁をとった小説もやはり反射的表象体(『完全な真空』もこの例として挙げられている)。

ガリヴァー旅行記』の言葉を『ガリヴァー旅行記』が表象している対象のうちに入れるのは、ある程度までそれらの言葉があの作品に登場するということなのであり、読者はそのテクストそれ自身の言葉が表象されていると理解することなく、言葉が表象されていると気づくことはないであろう。

絵画などにもやはりこれに当てはまるような(ある種自己言及的な)作品がある。

もちろん、虚構世界の中に虚構世界を立てるためにある種の自己言及性が必須というわけではない。カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』を反射的表象体と解釈するかどうか。コルタサル『欲望』はどうか。ベケットマロウンは死ぬ』はどうか。

対象は重要ではない

「現実の特定の犬を描いたのではないような、犬の絵(子供が落書きした犬の絵を想像せよ)」だったり小説の登場人物だったりといったケースのように、表象的であるからといって必ずしも表象の対象を持っているとは限らない(ウォルトンは非現実の存在者を認めない立場であることに注意)。実際第1章の説明のなかでは、表象の対象についてまったく言及されていない。

以下、グッドマン(「表示作用は表象作用の核心である」)への反論という形でいろいろ述べられているが、そもそもグッドマンのもとの議論をよく知らないので以下のまとめもかなり怪しい。また、以前に「表象は指示の一種」と述べられていたこととの関係もちょっと整理しきれてない。

結論から言えば、ウォルトンの主張としては「表象的なるものという概念は、表示するという概念とは独立」というもの(とりあえず、指示 reference ないし表示 denotation には対象が必要になるが表象はそうではないから、と解すればよいか)。

指示ないし表示にこだわるなら、非現実の対象を認めるという手段もありうるが、ウォルトンはその立場をとらない。たとえば、『白鯨』におけるエイハブは彼を表象している作品から独立していない。これは表象作用の現実の対象とは異なる。また、もし「『白鯨』はエイハブを創造し、それに加えて彼を表示する」としたとしても、そもそも後者の「表示」は必要だろうか(たとえば表示することなく創造することはできないであろうから、独立して分析できないのに)。ごっこ遊び説であればそういった不要な二段構えを置く必要はない。

あるいは、表象作用を指示表現ではなく言語的述語を範例として理解するという立場はどうか。こちらもたしかに似ている点があるにはあるが、けっきょくのところ術語は(現実の)事物に特性を帰属させるためのものである一方、表象体はそういうことはしない、ということで却下される。

非現実の対象は?

まず、架空の対象がなんらかの形で存在すると考えたいのは、まあわからんでもないよ、みたいな話がされる。たとえば「洞窟壁画が現実の対象を描いているかどうかは鑑賞体験に根本的な影響を与えるわけではない(ので、現実に存在しているかどうかを重要視する必要はないように見える)」など、(前節ですでに不要ということになった)よくある意味論/存在論的なのとはちょっと違ったやや美学寄り?の観点から述べられる(おかげでここは新鮮味があっておもしろかった)。

なかでもとくに紙幅を割かれるのは下記のように「個別的な」事物の想像を命じているかどうかの違いに関して。

(A) ジョージは、年老いてひどく疲れ果てた幽霊で、スプルース街の荒れ果てた屋敷に住んでいました。おしまい。

(B) 幽霊たちがいました。スプルース街の荒れ果てた屋敷に住み着いているものもいました。おしまい。

Aでは(小説の登場人物などのように)「個別的な」幽霊を想像することを命じているがBはそうではない、と区別できる。そして、表彰体が虚構の対象を持ちうると認めなかった場合、この違いが失われるように見える。

こういった問題について詳しくは第4部で取り組むが、ひとまずこの時点でも、(架空の対象の存在を認めないままでの)ごっこ遊び説で説明できるとする。大雑把に言えば、これらの区別は表象体がどのような虚構的真理を生成するか(つまりなにが存在するか)ということに存しているわけではなく、その表象体を用いて行われるごっこ遊びに存している。Aは「ある幽霊について(知るということだけでなく)知りつつあるところだと想像する」というごっこ遊びであるが、Bはそうではない(おそらく、第1章 p.44 で触れられていた「命題的でない想像」の話と関係するかな?)。

ともあれ、当座のところは「存在する」と考えておいても大きな問題はない(し、そのように語っているときに意味しているのはどんなことなのか、なぜそのように語ってしまうのか、そしてなぜそれでも大方は問題ないか等々も追って考察する)が、最終的に第4部で明確に排除するよ、という感じで本章はおしまい。


2022/04/15追記

冒頭で貼った記事を改めて読んだ結果、たぶん自分はどこか誤解している……と思ったので、以下メモっておきます。

というか「反射的表象体であるか否か」には「表象の対象が存在するか否か」は関係してこないか。「なんらかの想像を命じ、かつその 想像の対象 がそれ自身であるような表象体」というだけの話なのか。であれば赤ちゃん人形もトワイライトスパークルのぬいぐるみも反射的表象体だ。『完全な真空』も、表象の対象(になるような実在の書評集それ自体)は存在しないが、やはり反射的表象体である(手元にある本をそのような書評集であるという想像の対象とするよう命じている)。

いやでも、以下の通りやっぱ言ってるんだよな。

このお人形は、それ自身についての虚構的真理を生み出しており、それ自身を表象しているのである。

(c)id:Monomane https://proxia.hateblo.jp/entry/2022/01/28/020035#f-d339e856


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『フィクションとは何か』第2章のメモ

第2章 フィクションとノンフィクション

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

※今回も実際の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。

2022/05/02追記:本章の内容については、清塚『フィクションの哲学』の大部分がこれに割かれており、かつ話としても詳細なのでそっちのほうがおすすめかもしれない。(さっき読み返していて、これかなり書いてあるやんけといまさら気がついた……)

虚構と現実

まず、「フィクション(虚構)作品」という語と「表象体」という語は(人工物でない表象体は別にして)おおむね同義であることが改めて確認される。つまり、「ごっこ遊びの小道具としての機能を持つ」ような作品がフィクション作品である。

なお、たとえば学術論文のように相手に信念を抱かせるよう意図して作られたものについて、「その論文によって何かを信じるときにはその何かを想像することを必ず伴うのであって、その意味でその論文は小道具と言えるのではないか」と考えるかもしれないが、そうでない。小説においてはその記述がそのまま想像を命じている一方で、論文の記述はその内容を信じよ、想像せよと命じるわけではない。あくまでその命題が真理である証拠を提示するなどしているだけであり、その結果として読者が論文の主張を信じることになる……という建て付けとなっている。このへんの説明に「現実世界」「虚構世界」とかの概念を組み込む必要がないのはたしかにいいなと思う。 もちろん論文を無理矢理フィクションとして読むこともできるが、それは論文のもつ機能ではないということで退けてよかろう。

そして本書では、フィクション作品に対する「ノンフィクション作品」を「ごっこ遊びの小道具としての機能をまったく持たないもの」とざっくり定義づける。対して、小道具としての機能を備えたすべての作品は、その機能がその作品において周縁的であっても「フィクション作品」である。通常の用法よりも「フィクション」が覆う範囲がやや広い(フィクションとノンフィクションの混合物みたいなことを考えるのがややこしいので、というのもあるようだ)。

「フィクションが実在しないものを扱う」とか(ホームズのロンドン!)「『虚構の対象を扱ったノンフィクション』や『事実について間違った記述をしているノンフィクション』はフィクションである」みたいな素朴な考え方をするのはやめよう、とも。これはまあ普通にそう。

私たちの現在の関心は、「現実」に対立する「虚構」ではない。また、「虚構」と「事実」や「真理」のと対比でもない。

言語行為と虚構

言語の虚構的使用にもとづく考え方では、絵画的な虚構を説明するには十分ではないのは明らか。そのうえで、文学的虚構についても実際のところどうなの、みたいな話が展開される。

まず、虚構的な言語使用を「ふつうの言語使用」から二次的なものとするような(意味論的な)言語理論には無理があるとする。虚構とそうでないものの違いは意味論ではなく語用論の水準にある。ただし、一般的な言語行為論的な枠組みもやはりうまくいかない……という話になっていく。

よくある言語行為論的な枠組みのひとつでは、フィクションとノンフィクションの違いを作者の意図や真理性へのコミットなど、(明示的な……というのも、教訓的なフィクションがあり得るから)「断定」を行わないテクストとして理解する。しかし、このような「なにか(ここでは断定)の機能を欠けさせている」という見方だとうまくいかない。たとえば歴史小説をフィクションとして理解できないし、「作者が、作中のすべての文について真理性を主張し、なおかつフィクションを書いている」というケースもありうる。

続いてサールのふり説(こちらは「(明示的には)欠けている」ではなく「真似ている」)が検討される。この説にもいろいろ難点はあるが、文学的でない(絵画などの)フィクション作品の作者や、人形製作者が「断定のふりをしている」(寄生されるような「真面目な」使用がある)とは考えられないだろう、というのが決定的な反論とされて退けられる。結局文学的フィクションも含めて、「フィクションの書き手は、発語内行為を遂行するふりをしたりする必要はない」。「発語内行為を表象する」とか「言語行為を模倣する」等と言っても同じ。ここらへん、正直否定しきれていないような印象もある。ただ、あんまり読めていない可能性もあるしよくわかんない。

ありうる言語行為論的な枠組みのもう一つは、虚構制作はそれ自体で一つの種をなすような言語行為であるという説。このときフィクション作品は虚構制作という発語内行為の表現媒体であるということになる。しかしこの枠組みもうまくいかない。たとえば断定という発語内行為を考えたとき、断定文はそれが断定という人間の行為における手段/表現媒体であるから重要なのだ(その意味で、ある文が断定文であるのは派生的である)。しかし虚構制作という発語内行為においてこれを適用しようとしてもうまくいかない。小道具がごっこ遊び的に信じさせる機能は、作者の「虚構制作」という行為とは独立している。断定などの行為と異なり、フィクション作品で遊ぶ際には作者の行為のほうに最初から焦点を当てているわけではない。「機能が虚構制作者の意図にもとづくと理解されるかぎりでは、制作者が影響をもってくる。しかし、もとづくと理解せねばならないわけではない」。意思疎通の機能を持つことはあるけれど、それは虚構にかんする機能とは別の話、と。

というわけで、最終的な主張としては「虚構の基本的な概念は言語とは独立である。とりわけ言語の『真面目な』使い方とは独立である」ということになる。

分類の曖昧さについて

なんだかんだで、フィクションとノンフィクションの間には曖昧なところは残る。そのうえで、以下のように述べられる(これはめっちゃ良い方針だと思う)。

虚構を説明する目的は、分類をやりやすくすることではない。そうではなくて、時にとても複雑で繊細な個々の作品の特徴を、洞察できるようにすることである。そういう洞察は、作品を収納する分類箱を明快に指定することに存してはいない。むしろ私たちは、分類に抵抗する作品たちがなぜそのように抵抗しているのかを理解する必要があるのだ。

実際にフィクションとノンフィクションが重なることはある。たとえば有名な『アンナ・カレーニナ』の冒頭の箴言は、トルストイの主張であると同時に、語り手がそれらの言葉を断定として発話したことを虚構として成り立つような機能も持ち合わせているだろう。その意味でこれもフィクションである。

なお、この「機能」という概念を突き詰めることも本書では行わない。作者の意図や慣習などにどの程度の重みを与えるかはいろいろ考えられ、それに従って境界線上の事例もさまざまに現れる。それでも、断定の媒体になってるかどうか、知識を伝える手段になってるかどうかといった点でフィクションかどうかを判断するのではなく、(それが主目的であれそうでなかれ)ひとえにその作品が想像活動を命令するかどうかという点でのみ判断すればよい。

なお、この立場に立ってみると、神話について「もともとはノンフィクションで、のちにフィクションとなっていった」みたいな理解にはならない。それこそニュージャーナリズムの作品のように、最初から想像を命じるような(そしてときにはそこから教訓を得るような)機能を持っていたわけで、その意味で今も昔も(本書における)フィクションであることは共通している。この点において内容が事実かどうかは二次的といえる。

真理・実在および意味論

このあたりは、原則として特定の立場にコミットするものではないということに尽きるようだ。本書の立場において重要なのは、(すでに第1章で述べられたとおり)虚構性は実在性や真理性と独立であること、そして、それらが組み合わされたときにどのような役割を果たすのかといったこと。意味論まわりの話(第11節)は正直あんまりよくわからなかったので置いとく。

続き: murashit.hateblo.jp

『フィクションとは何か』序章および第1章のメモ

いつもは読書メモをとっても外には出さないんですが、ずっと出さないでいるとおかしな誤解をしていても誰にも指摘されないままずんずん進んでいってしまいそうだし、今回はせっかく丁寧に読んでいるということで、ひとまず出すだけ出してみる形で(今後もこのペースと分量でやったら力尽きそうなので、もうちょっと緩めたくはある……)。おかしな点についてご指摘いただければめちゃくちゃうれしいです。手のつけようのない誤解をしているということであれば……手がつけられねえと言ってくれ!

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

序章

本書の探究の対象として「表象体 representations」というカテゴリを定める。これは「虚構 fiction」と言い換えてもよい。表象体には、芸術ではないもの、たとえばある種のおもちゃなども含まれる。芸術についていえば、おおむね「表象芸術」や「虚構の作品」と呼べる対象、したがって小説や戯曲などはもちろん、ある種の絵画や音楽も明かに含む。抽象絵画や純粋器楽曲みたいなものも(少なくともウォルトンにとっては)このカテゴリに入るようだ(マレーヴィチの絵を例に第1章第8節で述べられる ……が、ここの議論はやや受け入れがたい印象はある)。一般に使われる「虚構」よりもかなり広い範疇という印象。

すべての表象体が共通に備えているのは、「ごっこ遊びにおけるように、事実でないと分かってはいるが進んで受け入れることにする」という心的態度、すなわちメイクビリーブ make-believeにかかわる役割である。

主要な問いは二つ。表象体はどんな機能を、なぜそのように果たしおおせているのかという(美学的な)問い。そして、虚構の存在論や意味論についての問い。これらは別々に論じられてきたが密接に結びついているはず。本書ではこの両方を扱うし、実際メイクビリーブという心的態度はこの両方の問題にとって中心にある(話の流れとしてはおおむね美学的な問題を先行させ、最後の第4部で存在論や意味論について述べる、ということになるようだ)。

メイクビリーブは芸術、美的経験に特有の要素ではなく、日常生活のなかでありふれている。(虚構をあつかう)芸術作品は、表象体のあくまで一事例でしかない。

第1章 表象体とごっこ遊び

私は、芸術作品をめぐる活動を、本気でごっこ遊びと見なすことを提唱する。そして、表象作品はそのごっこ遊びの中で小道具となると論ずるつもりである。

これたぶん、文字通りの「ごっこ遊び」と解するよりは、文字通りのごっこ遊びを典型例として含む「ごっこ遊び的なゲーム」の範疇に含まれる、程度に解すのがいいんだろうな。

※以下、実際の本書の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。

想像

ごっこ遊びは「小道具 propsをともなった想像力の働き」であるとして、(小道具とはなにかについて説明する前に)ひとまず「想像する」とはどんな活動かについて。

想像活動が真であることや信じることから独立であるとしたうえで、想像という行為にもいろいろあるという話。たとえば以下:

  • 自然に起こる想像もあれば、熟慮にもとづく想像もある
  • 明示的に意識にのぼっている想像もあれば、そうでない想像もある
  • 単独で行う想像もあれば、社会的に行われる想像もある

とはいえ、想像活動をきっちり特徴づけるのは意外に難しい。たとえば「思念を心に抱くこと」という定義が思いつくかもしれないが、実際にはそれだけでない、なんらかの活動であるはず。ただ、本書の探究において(想像という概念そのものは必要だし使用するが)そこに踏み込む必要はないので、しない。

想像における現実の事物

続いて「小道具」の話に移る。(「小道具」に限らない)現実の事物が想像体験の中で果たしている役割として以下が挙げられる。

  • 想像活動を促す
    • 「クマに似た切り株」が「クマが自分の行く手を遮っている」という想像を促す、みたいなやつ
    • 一般的に、事物なしに想像するときに比べ、事物の助けがあったほうがより「いい感じ(詳細は略)」に想像できるようになる
  • 想像活動のオブジェクトとなる
    • 端的にまとめるのがちょっと難しいが……子供が雪でお城を作るとき、「現実にそこにある雪に彫刻したものそれ自体がそんなお城だと想像する」ようなとき、その雪のお城は想像活動のオブジェクトである
    • 事物が、想像を促すための刺激となっても、オブジェクトとして扱われないことはある(映画の映像と演劇の俳優の違いなど/ただし、オブジェクトは必ずしも想像の際に目前にある必要はない)
    • 逆に、事物が想像活動のオブジェクトとして扱われたとしても、必ず想像を促すというわけではない(し、必ず小道具となるわけでもない)
    • 想像する者自身も重要なオブジェクトとして扱われる(自分についての想像 self-imagining /自己想像 imagining de se
  • 虚構的真理を生み出す
    • この3つめの役割が「小道具」を定義する特徴

自己想像に関連して、(「意図すること」と同様)「想像することは、ある意味において本質的に自己指示的」「すべての想像活動は、自分についての想像の一種を含んでいる」と述べられる。自己想像とは、典型的には「自分が何かをしているところを想像する」ような一人称的な(内側からの)想像。典型的でない例とか自己想像がどのように特殊かについても述べられているけれど、けっこう混みいってて正直読み取れてないのでいったん措いておく。

このへんでちょっとおもしろかったのは、「自分が自分自身以外の誰かであるところを想像する」ケースに関連して、「いったい人は形而上学的に不可能なことを想像できるのだろうか。おそらくできるのだ。」のところ。ですよね!……とはいえ一方で、後段で虚構的真理に関連して述べられているように、想像活動は生成の原理による制約を受けることにも注意したい。できるけど、取り決め上そうしてはならない、みたいな感じだろうか。また、さらにあとの虚構世界の話にも関連している。

小道具と虚構的真理

「ある命題が虚構的である」というのは、それが「ある虚構世界において真である」ということ。このへんは一般的な用法と同じと考えてよさそう。

で、虚構的であることと想像されることはおおむね重なっているけれど、同じではない。たとえば切り株をクマに見立てて遊んでいるとき、茂みに隠れて誰も気づいていない切り株があった(ので、誰もそれに促されて/それに対してクマを想像していない)としても、それ(切り株)がクマであることが虚構的には成り立っているといえる。このように、その本質または実在によって虚構的真理を生み出す物体を、本書では「小道具」と呼ぶ。風景画や小説などの表象的な芸術作品もやはり小道具。

小道具は想像されるか否かとは独立に虚構的真理を生み出すが、とはいえ想像する人間なしにそれ自体で虚構的真理を生み出せるわけではない。小道具は(必ずしも明示的・意識的ではない)慣習や理解、合意といった社会的設定、すなわち「生成の原理 a principle of generation」のもとでのみ機能する。「虚構的真理は、生成の原理とともに小道具が作用することによって確立される」。これによって、大雑把には「Pが虚構として成り立つならば、仮にPを想像するかPの否定を想像するか選ぶように強いられた場合、人はPを想像するべきである」といえる。

なおウォルトンは、このように虚構性と想像の関係が真理と信念の関係に似ているとしても、虚構的であることを真理の一種として考えるべきではない(虚構性と真理性はあくまで独立)としている(という意味で「虚構的真理」という言い方はややこしいよな……)。これについて、たとえば「可能世界で真である」といった形で考えるべきではないことのいくつかの例証が示されるんだけど、これが説得的なものなのかどうかはやや微妙な気がする。ごく素朴な「可能世界」的な理解には反論できているとは思うんだけど。後段の虚構世界についての記述をみると、それで十分とは言えるか。

ともあれ、小道具が虚構的真理を生み出すのは「命題を想像するよう命じること」による(ただし、想像は命題的なものに限らないことにも注意)。また、夢、そしてその夢についての報告にみられるるように、すべての虚構世界が小道具によって生み出されるわけではない。

2022/04/26追記:大事なことなのにすっかり書き忘れてた。本書のなかでは「想像せよ」と命じられた命題と虚構的に成り立っている命題とが同値ということになってるんだけど、清塚『フィクションの哲学』第7章とかKendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめにもあるように、のちにウォルトン自身によって修正されている(想像せよと命じられるが虚構的に成り立っていない命題がある)。

表象体

小道具はみな想像を命じ虚構的真理を生み出すが、小道具のすべてが表象体なわけではない(というより、ウォルトンは小道具の一部を表象体から除外する)。たとえばクマに見立てられる切り株のように、「その場限り」の小道具は、表象体ではない(したがって、表象体とされるもののようにその機能について考察されたりすることもない)。人形や表象的な芸術作品のように、小道具となることがその機能であるものが表象体である(「小道具にするために作られた」とは限らないことに注意。たとえば星座も表象体に含める)。なお、この機能は社会に相対的である。ある社会では、切り株も表象体といえるかもしれない。

あと、このへんで「公認された遊び authorized games」の話も出てくる。小道具として意図された機能、くらいに捉えればよいか。また、マレーヴィチの『絶対主義者の絵画』もまた表象体であることが述べられる(が、先にも書いたけど、ここはかなりとんがったこと言ってると思う……)。

虚構世界

まずもって素朴な虚構世界の捉え方、とくに可能世界意味論を結びつけたそれに警鐘を鳴らす(これが起こしうる問題のなかには、先述の虚構性と真理性の混同も含まれる)。とはいえ、実際のところ「虚構世界」という素朴な概念が、ふだん虚構について考える際に中心的な役割を果たしていることも否みがたい。ここまでですでに虚構性は(「ある虚構世界において真」という「虚構世界」を用いた表現よりも負荷の低い)「想像せよ」という命令と関係づけられておりもはやそれでよいのだが、それはそれとして虚構世界ってどんなものかについてある程度明らかにしておく必要はあるだろう、として、虚構世界についていくらか考察される。

まずは、「スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を鑑賞しているリチャード」という状況を想定する。このとき、『グランド・ジャット島』そのものの世界と、リチャードが絵画を見て行なっているごっこ遊びの世界とがある(これらは別々の世界である)。そう考えると、別々の鑑賞者のごっこ遊びの世界のうち、どれが『グランド・ジャット島』の世界なのかはどうやって同定できるというのか。できないなら、『グランド・ジャット島』の世界を、ごっこ遊びの世界たちの上位にあるとみなさなければならなくなる。また、『グランド・ジャット島』という作品そのもののなかには鑑賞者であるリチャードは含まれないが、リチャードのごっこ遊びのなかにはリチャードが含まれる(二人連れが公園を散歩するのをリチャードが見ているということが、虚構として成り立つため)。そう考えるとやはりこれらは別個の世界である。

ところで、慣習によらないめちゃくちゃな解釈についてはどうか。『グランド・ジャット島』から「カバが転げ回っている」と想像するような(そのような命題が虚構的には成り立つような)生成の原理を採用することもできるが、これは公認されない unauthorized、間違った作品の使い方である。さて、先ほどのリチャードの想像は、その意味で公認の遊びである(『グランド・ジャット島』-虚構的である)といえる。しかし、公認された遊びでありながら、(ほかの鑑賞者による想像のように?)リチャードに関する命題が虚構として成り立たない遊びも存在する。リチャードの鑑賞における虚構的真理はその絵だけから生み出されているわけではないということだ。

そう考えると、「『グランド・ジャット島』において虚構として成り立つ事柄は、その絵が小道具として用いられることがその絵の機能であるようないかなるごっこ遊びにおいても、虚構として成り立つ」事柄であることが示唆される。その絵だけによって生み出されているのはそのような虚構だけだからだ。……といったあたりから、表象体ではない小道具(切り株とか)、人形のような小道具、風景画のような小道具などで、「固有の虚構世界」を持つかどうか、持つとしたらどのように持つかが違う、といった話につながる。

正直ここらへんの話はあんまり納得がいっていないところがある。作品そのものの「虚構世界」(虚構的真理を生み出すのが作品そのものであるというのは認めたとしても、そのうえでなんかこう……違和感がある……)とそれを観賞する際の「虚構世界」をいっしょくたにするのはそもそもなんかおかしくない? 自分がどこか誤解しているんだろうか。

2022/04/19追記:上記の点については第6章において多少詳しく述べられているのでそちらも参照のこと。

ともあれ、「けっきょく虚構世界とはどういうものなのか」という問いに戻る。本書において虚構世界という概念が本質的に不要であることもあるのか、実際に述べられるのは「虚構世界は何でないのか」ということ(そのため、もし可能世界的な枠組みで理解するのならばこのあたりをクリアする必要があるよね、という話として読めるかもしれない。実際、ときに矛盾許容的でありえたり、あるいは不可能世界とかも含んだりといったことが必要になりそう的なことが述べられている)。最終的には、よくある可能世界的な考えの延長にあるような枠組みで虚構世界を理解できること自体は否定していない(実際、ここで挙げられているような問題は『存在しないものに向かって』における世界意味論とかだとクリアできそうに見える)けれど、そもそもそういう虚構世界とかいうものを考える必要はない(「指示対象の存在を前提してはいない」)、ということになる。

フィクションの効能

ごっこ遊び、とくに小道具を使ったそれの効能みたいなものについて最後にごく簡単に触れられる。客観性、統御、共同参加の可能性、自然な自発性、現実世界での気遣いからの解放……。


ということで第1章は以上。最後に本章のまとめをそのまま引いておく。

表象体とは、ごっこ遊びの小道具として働くという社会的な機能を備えた物体である。表象体は、いろいろな想像活動を促したり、ときには想像のオブジェクトとなったりもする。小道具とは、条件付きの生成の原理の力によって、想像活動を命令する何らかのものである。想像するように命じられる命題は、虚構的である〔虚構として成り立つ〕。ある命題が虚構として成り立つという事実は、虚構的真理である。虚構世界は、虚構的真理の集合と結びつけられている。虚構的なものは、ある与えられた世界において虚構的である——例えば、ごっこ遊びの世界や表象的な芸術作品の世界において虚構的である。

続き: murashit.hateblo.jp

SS将校のアームチェア - ダニエル・リー

このブログは、自分がなにか本を読んでおもしろいなと思ったとき、なぜおもしろかったかについて考えるブログです。で、今回はこれ。

SS将校のアームチェア

以下はみすず書房のサイトより。

古いアームチェアを修理に出したところ、中から書類の束が見つかった。鉤十字の印があり、一見してナチの文書とわかるものだった。誰が、何のために隠したのか。謎を託された著者は、その行方を追う。

書類の持主は、ローベルト・グリージンガー。SS(親衛隊)将校だった。プラハの椅子職人、シュトゥットガルトに住む甥、二人の娘、遺された日記、各国の公文書館を探るうちに、その人生が徐々に明らかになっていく。

娘たちは父親がSS将校であったことを知らなかった。グリージンガーはSSに所属しつつ、法務官として仕事をしていた。彼のように一見普通の市民として生活していたSSは多くいたが、戦後の裁判の対象ではなかったため、その実態は定かではない。

第三帝国の一部として淡々と職務を果たした「普通のナチ」と、その家族。歴史から忘れられたナチの足跡が浮かび上がる。

冒頭にも書いたとおり、おもしろかったんですよね。なんでか。暫定的な答えとしては、本書が「ひょんなきっかけから泥沼の探索行にはまりこむ」という類型だったからではなかろうか。以前ブログにも書いたとおり、『光をかかぐる人々』はたしかにそういった味のある記述でした。直近に読んでいた『ドードーをめぐる堂々めぐり』もそう1。自分がその類型をおもしろく感じ、これらはいずれもその類型にあてはまるのだと。

と、これで答えとしてもいいわけですが、せっかくなのでもうちょっと掘り下げてみます(そういうブログなので)。「ひょんなきっかけから泥沼の探索行にはまりこむ」というのは、いったいどういうお話なのか。ざっと箇条書きにしてみると……。

  • 「ひょんなこと」から最初の謎が与えられる。この謎じたい興味深く、それにまつわる話をちょっと掘ってみようと著者は考える
  • それを解くための手立ては著者に与えられているように見える。だからこそ探索を開始してしまう。予想される探索はめちゃくちゃに難しそうというほどではなく、多くの場合「これまでみすごされてきたものを、その疑問という視点のもとで掘り返す」といった程度のものではある。ただし、実際にそのための直接的な情報源が残っているかは不明である
  • そうして「最初の謎」について調べているうちに、その背後にあるもっと複雑な事情が、著者の琴線に触れてしまう。有り体にいえば「実存的」な問いがぼやぼやと現れだす。これは必然といえば必然で、「最初の謎」について、放っておいてもいいところをわざわざ調べようとしたのは、その予感があったからこそではないか。「自分に調べられる」と思えるのは、自分がなにかしら関わってきたものと薄くでもつながりがあったから、ともいえる
  • 「最初の謎」の答えにはなかなか辿りつかない。みすごされてきたことにはそれなりに理由があり、だからこそ情報が残っていないことがわかってくる。けれど一方で、周辺の情報はどんどん頭のなかに入ってくる。当初の疑問に答えるためだった探索行が、「実存的」な問いに対する探索行、つまりある種の自分探しの様相を呈してくる。ただ、実際のところそれについては多くの場合文中では陽には触れられない
  • そして、その先がまだある。ついには「自分探し」でさえ二次的になってきてしまうのだ。当初の謎の背後にある実存的問い……の、さらに後ろにある「確定されえない事実」みたいなものに突き動かされるようになる
  • だから、結局当初の謎も、自分探しも、最後まで解決されなくてよい(というか、多くの場合、解決されない)。ここに至り、そんなものはもはやどうでもいいのかもしれない。結局のところ「なにか大きなもののまわりを、空白の輪郭を描くように、めぐっていた」という形で、結末がついたのだかついていないのだか、ぼんやりと、投げ出されたようにして、終わる

特徴付けとしてはおおまかにこんな感じのように思います。「最初の疑問」という一段目のブースター、「自分探し」という二段目のブースターを経て、その先のあてどのない(適切な形で問えない)探求それ自体に心を奪われてしまう……と言ってもいいかもしれない(もちろん完全にこれにあてはまるものばかりかというと微妙ではあって、多少デフォルメしたものだと、差っ引いて考えてもらったほうがいいかもしれませんが)。

たとえば、「当初の疑問」の答えを求め、それが得て終えられるのであれば、ノンフィクションとしてパキっとまとまるにちがいないんですよね。あるいは、いわゆる巻き込まれ型で、かつ実存も関連して世界の「真実」に気付く……みたいなのは、ゲームとかでよくありそうです(FF7とかが思い浮かぶ)。でもこの類型はそういうんじゃない。そして、これってちょっとおかしいんですよね。なにか、すでに知らないような経験(最初の疑問)に晒されて、その疑問を解消しよう、安定した信念を得ようと考えることは理にかなっている。最初の疑問に関していえば、とりあえず答えが出るはず(そして出るための手立てがあるはず)だからこそ探求を開始したのだから。なんらかの形でいつか確定できるという想定は、探求において置かざるをえない前提のはずなのだから2

でも、今回の類型に限っていえば、最終的にはそうならない。ミクロな仮説→探索→解決というループはあっても、それが大きなものに向かっていかない。悪しざまに言ってしまえば、「惰性」となっている、自己目的化しているとさえ表現できてしまうかもしれません。情報の欠けたなかで空白の輪郭を描くというのは、そうならざるをえないものではあるのですが……。

で、おそらく、そこにおもしろみがあるのではないかと思いました。

……思ったものの、これだけじゃあたぶん掘り下げ足りないですよね。でも、もうちょっと温めつつゆるゆる考えてみようと考えています。せっかくなのでいろいろ、似たようなものを読んでみようと3

なんで、今日のところはそんな感じで。

追記(2022-02-27)

めちゃくちゃありがたい&勉強になる反応をいただきました。みんなも読もう! anatataki.hatenablog.com


  1. ツイートもした。そして、このツイートで触れているとおり、ここで書いてあるうちのいくらかは、この時点でなんとなく感じていた。

  2. 今回の話にそのままあてはめられるものではまったくないのですが、おおざっぱな発想のもととして、これも最近読んだ『プラグマティズムの歩き方』のC. S. パースの考えから来ているような気がしています。端的にはこのへんとか:Totus Teres atque Rotundus: パース「信念の固定化」について

  3. ちょっとここでもうすこし。もともと『SS将校のアームチェア』を読もうと思ったきっかけはid:washuutakumiさんのこの記事で、それに関係して同じくこちらの丸谷「横しぐれ」とか沢木「おばあさんが死んだ」への言及を辿り、同意しつつも、もしかして僕がここで言っていることはそこともズレているような気がする、と思ったので、というのもあります。

Inscryption

君も、私と同じぐらい戦いを楽しむことになるだろう。

store.steampowered.com

へえええぇぇぇぇぇ……。あんた、Inscryptionをやったんだ。やったんだね。いいよいいよ、言わなくてもわかってる。

でも、どうしてだい? べつにそんなもの、しなくったってよかったのに。だってそうだろう? わざわざ自分を山小屋に閉じ込めて、ゲームマスターの言うことに従って……それからまじまじカードを眇めて、ちまちまトークンを数えて。しゃっちょこばった身体を伸ばしたくなったんなら、ゲームマスターの台詞にイラついたってんなら、いつでもすぐにやめちまえるってのに……辛気臭いカードもトークンもうっちゃってさ。カウチでポテトでもつまんでたほうがよかないかい? なのにあんた、「最後」までやったんだろう?

だんだんとルールがわかってきて、パターンが読めてきて、あんたなりに「強い」と思える手札が揃えられるようになって……いいね、悪くない体験さ。それは認めよう。だけど、それで……? それでどうするんだい? 終わっちまえば、そんなもんぜんぶパアだってのに。ゲームマスターが「やめだ」と言えば、それでぜんぶパアだ。知ってるよ、あんたはいつだってその予感に怯えてる。だいたい、そうやって「強く」なることだって、ゲームマスターがね、そんなふうにならせてやるよって、お情けのおかげだろうに。まあ、あんたが途中で飽きたって、同じことかもしれないけどね。

ルールといえば、そうさね、覚えてるだろうと思うけどね、「力の行使には代価が必要」ってルールがあったはずだ。だけど、ほんとうに? だって、現実には、べつにさ、そんなルールなんてないだろう……? あんたはなんら代価を支払うことなく暴力を振るっているし、振るわれている。わかってるはずさ。なのにあのゲームマスターは……いやいや、そんな顔をしなさんな。そうじゃないのがゲームってもんだと、そう思ってるんだろう? それとも、無制限に行使できるって、そんな現実が怖いのかい? そんなわがままに、付き合ってやってんだか、それとも、付き合ってもらってんだか。

それに、「最後」だってそうさ。「最後」ってなんなんだい? その、ゲームの、ことが、全部、わかった……って? いいよ、言わなくてもわかってるよ。ほんとうに「最後」までは解いちゃいないんだろう。まあまあ、それは無理ってもんだ。せいぜいが、「やった」っていうだけのことさ。でも、どうしてだい? 「最後」まで見届けてやろうって、あの意気込みはどこへ行っちまった? たんに面倒臭かったってのかい? それとも、そこまで従うのが、それはそれで怖かったって? まあ、どっちでもいいけどね。ともかく、あんたが自由を行使できてよかったよ。あんたはちゃんと、自分の手で、ぜんぶをパアにしてやったってことさ。おかげで、あんたはお気楽で無軌道な現実に、また戻ってこられたわけだ。

まあ、これに限らないさね。あんた、ネットワークの向こうの誰かさんをぶちのめしたいからゲームやってんの? あんた、誰かさんが作り込んだ複雑な掌のうえで踊りたいからゲームやってんの? あんた、誰かさんに成り代わって物語を辿りたいからゲームやってんの?

……え? まだやってない? ほんとうに? ……そうか……そうか。じゃあ、あたしがいま言ったことはぜんぶ忘れておくれ。……わかったね、約束だよ。

EUREKA

こんなふうに言い訳から入るのはまったく褒められたものではありませんが、やっぱり一見したくらいで飲み込むのは困難で、実のあることを書ける気がしない、けれど現時点でどう感じたのかをなんらか書いておきたく思ったので、そうさせてください。書くのであればいついかなるときだって言い訳なんてする必要がないことも同時にわかっている。

以下ネタバレがあります、って書いたほうがいいのかな。ネタバレがあります。


というのが、なんだろう、「自分はこれが見たかったんだ」というのと、「ほんとうにこれでよかったのか」というのがないまぜになった気持ちなんですよ。「これがエウレカエウレカセブンとそれに連なる作品群)だ!」と「エウレカエウレカセブンとそれに連なる作品群)になっちまった」というか。いや、まちがいなく、ぼく個人としては、これを見られてよかったんですよ。それほど忠実なファンとは言えないものの、ここまでシリーズをを追ってきてよかったと感じた。

というのがそもそも、今回の三部作って、(まさにその点においてヌけているところはありつつも、ひとまず基本ラインとしては、サーストンではない、喪失された)レントンビームスを描くハイエボ1から立ち上がったシリーズであり、それがあったからこそ、ANEMONEだって(最後のレントンさんの登場は措くとして、そこを除けば)「レントンのいないエウレカセブン」として続くことができた、そして傑作たりえたと思っているんです。「らしさ」からいかに逃れようとしているのか、でもそこに残ってしまう「らしさ」がある……みたいなことを感じてしまうのが醍醐味なところはまちがいなくある。「らしさ」っていう意味ではANEMONEだって、「レントンのいない」が付いたところでそれはエウレカセブンだ、徹頭徹尾借り物であることを明らかにしているという点だってそうなんだ。ただ、(最後のレントンさんの登場は措くとして、そこを除けば)そういう「らしさ」によってこそ「らしくなさ」が成り立っていたんじゃないかと、ANEMONEはその力学が(もしかしてたまたまだったりしないかとも思うんだけど)綱渡り的に均衡して成り立っていたのではと思ったんです。

そこで今回第三作のEUREKAはそれを引き継いでどうすんのとなったとき、エウレカとアイリスとの逃避行からデューイを挫くところまではANEMONEのときと同じ意味でほとんどパーフェクトだったんですよね。それについてはおそらく、とくだん多言を弄す必要もないはず。あいかわらず懲りずにエウレカセブンでありつつ、だけどエウレカセブンでなくなろうともしていて……ただ、それでも、ついには出てこなきゃならないわけですよ、レントンさんが。そのために繰り返されてきたんだから。すべての決着がついたかに見えたにもかかわらず。最後のピースとして出てこないわけにはいかない。そんなところまで来てしまっている。だから、軌道エレベーターが落ちる(真顔でこれやるの?)、ホランドの特攻がある(真顔でこれやるの?)、レントンが現れる、そしてすべてが許される。そうだ、これぞエウレカセブンだ! 正直まさにその部分にこそ心が躍ったところは否めません。そうだ、これがエウレカセブンなんだ……が、それでよかったのか?

よかったような気もするんですよね。きっと、そうするしかなかったんじゃないか。いや、そうしてくれて、なんだろう「ありがとう……」みたいな気持ちさえある。レントンが悪いわけじゃないんですよ、当たり前なんだけど。エウレカ、よかったね、と素直に思うし、アイリスの最後の言葉だってそう。そこまで含めてすごいものを見たな……と思う。でも、わたしは、それを見てこう書いているわたしは、ほんとにこれでいいんですか?

わたしは、ほんとにこれでいいんですか? もしかして、なにか勘違いしていませんか?