The Return Of The Durutti Column - Durutti Column

マンチェスターの熱狂のイメージからはやや離れた、静かで軽やかなこの雰囲気。冷たくて明るい太陽のような一枚。
Return of the Durutti Column
というわけで、どうしてだか同時代のFactory勢の中ではいまいち名前を聞くことが少ないバンドではある。少なくとも僕の周りでは、これを紹介してくれた友人以外では名前を知っている人にすら会ったことがない。だけれども実はMySpaceにいて現在も音楽活動をしっかりと続けてたりする。いまとなってはさほど新しい音楽とは言えないのかもしれないけれど、それでもこの新鮮さはずっと消えない。
クラウトロックの冷血な一部分を取り出して、それにブリティッシュ風味の濃い味付けをしたあとに一日陰干ししたらこんな感じになるのだろうか。一日の終わりに聴くにはなにか鮮やかすぎるように思えるし、昼下がりに聴くには風通しが良すぎる。
なんだかひどいことになって、頭の中がぐちゃぐちゃになった後の話。ふとしたきっかけで体中の血だとか内蔵だとか温度のあるものすべてが液体となって足下に流れ出てしまったかのように、ふと我に返ることがある。そんなときに頭の中に虚ろに響くのはこの音楽で、そしてそれは再び動き出すための力をとり戻すための合図でもある。
こうやって印象を言葉にしてみてもまあ、そうそう伝わる訳がないので、今日もYouTubeの動画を貼ってみました。進行の単調さもベタなエフェクトも全く陳腐に感じられないのはどうしてなんでしょうか。独特なメロディの成せる業なのか。

インターネットでまともに動画が見られる環境っていうのは一昔前からすれば信じられないようなことで、どれだけレビューを読んでみてもわからなかったことを、今では検索一発で臓腑にまで落とし込むことができる。百聞は一見に如かずという言葉のもっとも良い例がここにあるわけだ。
あのもどかしさが、苦労がいいんだっていう意見だってあるだろう。うん、恐る恐るだけれども思い切って購入に踏み切ってみたり、一つ買ったらとにかく忍耐強く聴いてみようとする体験というか姿勢というのがいつの間にやら僕の中から失われようとしていて、それがちょっと寂しくもあるのは、ほんとうだ。
でもやっぱり僕は、嬉しくなってしまう、それ以上に。様々な音楽について、つい昨日までは全く聴いたことのなかった音楽について、みんなはいったいどんな言葉でそれを表現しようとしているのかということを容易に知ることができるってのは、単純にわくわくさせられる事実だし、僕は日々それを楽しんでいる。