久々に筒井康隆の小説を読んだけれども、やっぱりこういう俗物を書かせると右に出るものはいない。よく分からん安心感すら覚えてしまうこの面白さ。恐ろしいなあ。
内容としては、そういった物語部分と、唯野教授の文芸批評についての講義の二つから成っております。その文芸批評講義は以下のような章立てで、この部分もかなり面白い。わかりやすいように、文学を、みんなの大好きなおっぱいに置き換えてまとめてみました!
- 印象批評
ギリシャ彫刻に見られるような乳房を素晴らしいと称え、おっぱいを評するようなものですね。「常識的」な「美」として権威づけられているおっぱい。
- 新批評
おっぱいの持つ特徴をあたかも客観的であるがごとくに語ってくれるのでしょう。このおっぱいには緊張があります、こちらには弛緩があります。しかしだからどうしたというのでしょうか、我々がおっぱいに感じるあの憧憬については言及することさえならないのです。
おっぱいの持つ形態に注目した結果、巨乳の持つ異化作用を称揚したんですね。しかしグラビアアイドルのおっぱいだけがおっぱいではない。自動化されたおっぱいだなんて、本当にそうなのか。
今この眼前に存在するおっぱいをいったん括弧に入れ、イデアとしてのおっぱいを解明していこうということですね。注意しなければならないのは、「理想のおっぱい」≠「おっぱいの形相」であるということでしょう。
- 解釈学
現存在としてのおっぱいを前にして、それに触れそれを揉みしだくという最極限の未了についての先駆的了解をし、そこへ自らを企投せよということです。なるほど既往しつつ厳成化する到来とはまさにおっぱいの実存について述べているのですね。
我々はおっぱいを如何に受容するかということ。おっぱいがほんとうにその全貌を露わにする瞬間などないのだから、目にしたおっぱいに対して我々は、そこに必ず発生する欠如を妄想によって補完していかなければならない。解釈して、受け入れなければならない。それにはそれぞれのやり方があってどれが正しいだなんてものがあるというのか、という話です。
- 記号論
我々がおっぱいというシニフィアンを目にしたとき、そこにどんなシニフィエを読み取るのだろうか。その揺れ、柔らかさ、あるいは見せ方というあらゆる意味が関係し合った結果としての象徴なのだ。その関係性を明らかにしてゆくことがおっぱいを語る手段であるという。
いかなるおっぱいの様相があるのか、おっぱいの諸要素を解体し、そこに潜む文法を探り出し、その構造を問うこと。実際に目にすることのできないおっぱいの全貌を語ることはひとつの権力というものを否応なしに顕在化させてしまうのだから、むしろ我々は、おっぱいへの視線がどのように発生し発展してきたかを述べるべきなのです。
- ポスト構造主義
おっぱいというのは、それを体験した状況からはどうしても逃れられません。常に何らかの文脈の上でしか取り出せないおっぱいは、二項対立的な思考と不可分に結びついた形でしかそれを語ることができないように思える。どのようにして我々はおっぱいを脱構築するのでしょうか?