ガラス玉演戯 - ヘルマン・ヘッセ

全編通してカスターリエン的なものとそうでないものとの二項対立のために捧げられた小説じゃないかと感じました。それにしても、あんまり感想っぽいものがネット上で見つけられないのはなぜなんだ。
ガラス玉演戯 (Fukkan.com)

  • カスターリエン

その二項対立って何さってことを言う前に、「カスターリエン的なもの」とか言われても読んでいない人にはなんのこっちゃ分からないはずですからそれについてちょっとだけ説明のようなものを。
カスターリエンってのはこの小説の主な舞台で、ごくごく簡単に説明するならば、俗世から切り離された、英才のみが集まる理想郷みたいなものとして設定されてます。そして主人公クネヒトは、そのカスターリエンの徒の中でも抜きんでた一人の天才とされていて、この小説はそのクネヒトの伝記という形式をとっているのです。・・・なんて、この説明を読んだだけじゃ、カスターリエンってなんだかすごく鼻持ちならない代物のように感じられるでしょうけれども、なんかその、そこまでひどいものじゃないんですが、難しいな。結局カスターリエンについてちゃんと説明しようと思うと結局この小説そのまんま読んでもらった方がよっぽどわかりやすいのでちょっと諦めちゃいますけれどもね。とにかくそういうところなんです、カスターリエンってのは。インテリでしかも人間的にデキた人しかいないような気持ち悪いところなわけです。
そうした抽象を指向するそのカスターリエンの中で、最も抽象を極めたのがタイトルにもあるガラス玉演戯。クネヒトはこの演戯と関わり苦悩してゆくわけですが、そんなこんなではい本論。

  • ジレンマ

早速ですがこれ、どんな二項対立なのかといいますと、正直すごく単純な話なんですよ。さっきも言ったように、「良くも悪くも」高尚であるというのが最大のポイントであって、この「高尚」というものがこの本の中ではもっと一般的な形で、僕たち*1が折に触れて経験する「あの」ジレンマの一方として現れます。そしてこのジレンマについて、細大漏らさずに、それでいて無駄な叙述も一切無く、必要十分に語られている。言い換えるなら、クネヒトはまさにこのジレンマをきっちり一生をかけて体験してくれるのです。

はい、もちろんみなさん「あの」ジレンマってどんなジレンマよ、ってお考えでしょう。それについてのどうにかこうにかくっちゃべってゆきます。

  • ジレンマ(さらに詳細に)

中高校生のときに進路選択するじゃないですか、ケータイ小説だとかあるじゃないですか、DQNキライだよねなんてのあるじゃないですか、一見役に立たない学問とかあるじゃないですか、メタな視点が偉いとかあるじゃないですか、ガリ勉かっこわるいってあるじゃないですか、経験主義ってあるじゃないですか、そういうものが数え切れないくらいあるじゃないですか。
で、そういうものに直面したときに僕らは考える。考えて、インテリメタメタ的な側に立場を置くのか、まったく中立を保とうとあくせくするのか、俗世現実的な側にアイデンティティを見いだすのか、それは話題それぞれ人それぞれですけれども、そうやって自分の中でかならず何かと何かを戦わせるはずです。そういう経験ってのは原始人が抽象思考というものを発明しやがってからずっとずっと世界中の至る所で巻き起こってきたことのはずなのです。
その、「この世に生まれてきた人間ののべ人数×一生に頭の中で生じるジレンマ」の数だけある思考すべてが、ここにシンプルな形で集約され表現されているのではないか、そんな恐ろしい作業がここにおいて成されているのではないか。僕はそういうことが言いたかったんじゃないかと思いますたぶん。


ただし、そのジレンマがどのように解決あるいは止揚されるかということは問題ではありません。この小説の中でだってやはり、解決されていないように思える。それを望んでこの本を読もうとしてもきっと無駄でしょうし、余計に分からなくなっちゃうことは必至でしょう。あくまでそれらのジレンマに一本筋が通っていることに気づかせてくれるだけです。
しかしそれって、とても重要なことだと、僕は考えます。

*1:などと自分だけに限定しなかったのは、現代に生きている人間一人残さず、と言ってしまえる妙な自信を込めているのですが