夜行巡査 - 泉鏡花

夜行巡査というか、岩波文庫の緑、鏡花の初期短編集。
外科室・海城発電 他5篇 (岩波文庫)
恥ずかしながら鏡花を読んだのははじめてでした。僕は馬鹿なので、鏡花やら紅葉やらの小説なんて「小説」じゃないぜ!などと軽蔑していたんです。読まないでこういうこという奴は馬鹿にしていいと思うのでみんな僕を馬鹿にしてください。

んで、馬鹿にされっぱなしではたまらないので実際読んでみました。一文で感想を書くなら、たしかに切り口は尖鋭的だけど語り口や落とし方なんかはあくまで近世的な小説だよな、というもの。鏡花の怪奇的なイメージはこのあと高野聖前後から定着してくるとのことなんですが、そのせいか、この初期作品たちを読んでみてもテーマの尖りのようなものは*1どちらかといえばぴりりとした隠し味以上のものではないと感じました。ストーリーだけみるとわかりやすく劇的で、最後に美しく死んでいったり作者の主観なり問いかけなりががはっきりと示されるたりするための、そのための一連の流れといった印象のほうがよほど強いんです。


ですがもうひとつ、語り口。いまや跡形もなく消え去っているかに見える「ものがたる」ことの残滓が消えずにいることが妙に新鮮で、どちらかというとそこにおもしろさを感じました。

何かを「ものがたる」というときに、僕はなぜか劇場をイメージしています。それは五感を呼び覚ますことだとか、流れの淀みなさというものが最も重要な手段として意識される場です。そこでクリシェたちが重要になるのは、その既視感がまさに、流暢さ、鮮やかさを呼び起こすための必然だからなんです。たとえ僕がそこで、今まで誰も使ったことのない言い回しを使ったとしても、それはのちにクリシェとして回収されるものでなくてはなりません。そうでない台詞を劇場で吐くとすればそれは「ものがたる」ということから本質的に矛盾した行動なのです。


翻つて文学の語り口といふのは何れも(抽象的な何物かを、若しくはメタメツセエジを伝えようと欲するが為か)さういつた「ものがたる」ことから距離を置かむとするものと見えるなり。或いは「ものがたる」ことを敢へてせず、壮大な迂回を強ひてまで「物語」を語らむとするものもありける。さればこそ我は其等をいたく愛すれど…

兎角劇場で語る輩は馬鹿にされしこの時代、思考をクリシエに依りて伝へむとすることは、一旦其の思考を殺し死体のみを届けた上で、其の思考の生きし時分の姿を想像させむとする試みなり。「そんなのいやだよ、生きたものごとを生きたままクウル宅急便したいんだよ」沢山の人間がしこしこと文章など書きぬ理由はこれなり。


この時代の文学を読むなかでどうしても「文体をつくりだす」という情熱を透かして見てしまうのは、そもそも「ものがたる」か否かへのジレンマが隠せていないからなんじゃないでしょうか。それがすごくスリリングで面白い。邪道なのかもしれませんが。
もうちょっときちんと、明治の小説というものを読んでみないとダメですね。

*1:もちろん僕が現代に生きているからというバイアスもあるのだろうけれども