ずいぶんまんがのことを書いていなかったからというわけでもないんですが、今日は久しぶりにまんがのことを書きます。市川春子のまんがについてです。単行本としては作品集『虫と歌』。未収録のものとしてはアフタヌーン2010年1月号に掲載の「パンドラにて」*1、そしてアフタヌーン2010年9月号および10月号に掲載の「25時のバカンス」がありまして、このタイミングならAmazon等駆使してアフタヌーンも両方買えることですし、お薦めしてみようと思ったわけです。
思いがけない者や物や事に出会ったときに、いったいどういう反応をするのだろうか、ぼくはきっと出会ったことがないので未だに解らずにいるのですが――あるいは、既に出会っており反応していたけれどそれをなにか勘違い(勘違い?)しているのかもしれませんが――、そういった「わからないもの=異形」*2を拒否するわけでもなく、かといってシニカルな反応をするでもなく、ためらいがちであれそのまま受け容れ、平熱のまま交流をもちつづけること、さらにはその異形に愛着を持つことができればいいなと考えることがあります。そういうものが描かれているまんがだということを今日は話します。
ここで重要なのことは、異形を日常の延長線上として受け容れるとは言っても、そういった異形はやはり日常ではないということ、非日常の緊張感があったうえでの受容だということです。以下でもうちょい説明します。
まずもって、けっきょく何かを変えてくれるとぼくが切望してやまないのは、どうしたって非日常だということ*3がひとつ。そういう「普通にはありえなさそうなこと」というのはやっぱりいいですよねっていう、単純な話ではあります。
もうひとつは、道理のなかで、それでも道を外れている者として異形があるからこそ、その受容が際立つという話です。これらのまんがのなかでは、たとえば星のかけらが意思を持ち人のかたちに成長してみたり、たとえば身体が深海の生物にとってかわられ――それでも相変わらず「その人」でありつづけ――たり、そういったかぎりなく人の姿をした、でも人ではない者たちが出てくるわけですが、その出現(?)について、ファンタジーというよりも、むしろSFにちかい説明がなされる。だからそれは「道理としては現実と限りなく同じ*4だが、日常的ではない」という状況をうみだすことになる。だから僕は共感できてしまう。
で、そのような非日常*5 *6を平熱で受け容れることに僕は憧れるし、だからこそ、これらのまんががすごくいいな、と考えるわけです。
また、起伏のない感じ、淡々とした表現、感情の動きの表出がすくないことは、絵もふくめた全体の雰囲気にも通じています。そして、たしかにそこには、愛情というものが感じられる、これもすごくいいところだと思うのです。それがきっと、ほんとうなのだと僕は思ってしまう。それはつまり、まったくの他者(=内的描写のない一人称)がまったくの他者(異形)に出会うという話でなわけで、その両方が自分ではない。自分だったときには、感情というのはどうしても自分のなかだけで高まってしまう。でも理想というのは、すくなくとも僕にとって、そこにはない、そんな気がしてしまうのです。「じつは自分だって自分にとって他者だし、現実の人間だって異形と変わらぬ他者なんだよ」とか、そういうことなのでしょうか、よく解りませんね。このあたりはまたちょっと考えてみます。そんな感じでまとまりませんが、ともかくぜひとおすすめしたい、そんなまんがなので、どうぞ読んでみればいいじゃないの!!!(ぜんぜん紹介にならなかった)