スロー・ラーナー - トマス・ピンチョン

ってことで最早恒例となりました、ピンチョンのお時間です。

スロー・ラーナー (トマス・ピンチョン全小説)

『メイスン&ディクスン』は上巻の感想だけで上下巻通した感想は書いていませんでした。全体的な感触としてはこないだ書いたものが当たっていたように考えたからです。……もちろん、あの結末は、まさか自分がピンチョンを読んで涙ぐんでしまうとは思ってもみなかったという意味で素晴しく、現時点でピンチョン入門として読むならば、M&Dだろうという、かなりお薦めの一冊です。
そしてまた、『逆光』はまだ読んでいる途中。いやこれね、これはこれですごく面白くてですね、ピンチョン特有の科学的修辞や、不可視の世界と現実の世界をつなげるやりかた(さきほどの科学はもちろん、オカルトや陰謀論的世界観つまりスパイ小説的な世界観、アメリカそのものを書こうという姿勢……)の集大成だと思うんですが、思うんですが……長すぎてまだ読み切れていない。
でもって、それにもかかわらず、トマス・ピンチョン全小説の続刊が届いてしまいました。『スロー・ラーナー』です。初期短編集です。既に志村正雄訳でちくま文庫から出てますね。たしかに既に読んでいます。だからまあ、『逆光』をほおっておいたまま読むのもなんだし、後にとっておこうと思っていたのですが……でも、でもとりあえずピンチョン自身による序文だけでも……とかなんとかで、さっき読んでしまったのでした。
で。
以前読んだとき(たぶん2年くらい前だったはずだ)とずいぶん感じ方がちがったので、ちょっと引用しておこうと、それが今回のエントリです。ピンチョンが自身の初期作品をくさす、その注意書きを。やはりここ1年でフィクションというものをまともに書きはじめた(小説というものを書きはじめてようやく1年がたちました)からこそなのでしょう、おそろしく耳に痛い。
ビートジェネレーションからの影響、ピッグ・ボーディーン本人の話、熱力学にたいする理解、スパイ小説への思い、故郷についてなど、ファンにとってはものすごく興味深いエピソード満載、魅力的なマクラとオチもある、これだけでもたいへん面白い読み物なのですが、ともかく基本はこの「くさし」。というわけで、英語特有の「耳」にたいする感覚、および書かれた時代に思想に深く関連するであろうものは意図的に除いたものの、あるいみでは序文のエッセンス、それらを以下、引用にまみれます。

どんなに寛容なる読者に対しても警告しておいたほうがよさそうである。以下の作品は随所にやたらと退屈な文章が含まれている。未成年的であるがうえに、素行も悪い。虚勢と阿呆と無策がちりばめられたこれらの書き物をここに公刊するにあたって、私はどんな申し開きをすればよいのか。ここには入門レベルの創作につきものの欠点が無修正のまま詰まっています、どうぞみなさんフィクションを書くときには同じヘマに注意してください、と声を大にして訴えることしか、どうにも手はなさそうだ。

「スモール・レイン」について

この主人公は十分に現実味のある興味深い問題に直面しているのだから、そこからきちんとストーリーを組み上げていきさえすればいいものを、そのことすらわかっていない私は、なにか雨のイメージャリーとか、「荒地」や『武器よさらば』への言及とか、そういうものを被せないといけないように思っていた。「文学的であれ」とか、ナンセンスなアドバイスをでっち上げて、勝手に従っていたわけだ。

語り手が──ほとんど私であってちょっと違うという男が──欠陥丸出しのやり方で死を扱っているのだ。ある創作が"純"文学であるかどうかは、最終的には死に対する姿勢によって決まるというのに。死を前にして、キャラクターがどうふるまうか、死が差し迫っていないときに死をどう扱うのか。(思うに、ファンタジーとSFが若い読者にあれほど受ける理由の一つは、時空を自由に動き回れる設定にしておけば、身の危険もかわせるし時の進行の不可避性からも逃れられる、ゆえに人が死すべき存在であるということが、ほとんど問題にならないからではないだろうか。)
「スモール・レイン」に登場するキャラクターの死に対する姿勢は、大人未満である。彼らは避けているのだ。朝は寝て過ごす。遠回しな言い方に走る。死という言葉を持ち出すときも、なにかジョークをこしらえずにはすまない。そして最悪なことにセックスにも引っかける。

「ロウ・ランド」について

思春期的な価値観を無邪気に振りまいて、その欠点さえなければ共感できたであろうキャラクターを潰してしまっている。(…) 物語のなかでデニス・フランジはたいして「成長」をしない。彼が静止している一方で、彼のファンタジーが気恥ずかしいほど活き活きとしてくるというのが、話のすべてである。フォーカスが鮮明になるのはいいとして、問題が解決に向かわないのでは、話が躍動しようがない。

エントロピー」について

古来、ものを書くときにこれだけはやるなと警告されつづけてきた過ちの、鮮やかな見本がここにあるではないか。最初にテーマやシンボルを設定し、その抽象的な統一因子に合わせて人物や出来事を動かすという、端的なる過ちにこの筆者は耽っている。(…) 理論的な事柄を振りかざすのは──きっと高等教育を受けた証拠を見せたかったんだろう──その後のことだ。そうしないと、単に気色悪い人間が集まって、人生の問題を解決し損ねているだけの物語にしかならないし、それでは誰も読みたがらないだろうからというわけで、ストーリーを語ることについての御託や、幾何学のレッスンを貼り付けているわけだ。(…) 概念に走るな、突き放して、小洒落た扱いをすると、ページの上のきみのキャラクターは死んでしまう。

信じられないことに、類語辞典を引きまくって、クールでヒップな感じがしたり、ある効果を持つ(つまり作者の見栄えをよくする)言葉を拾い集めたりしていた。その言葉の意味を確かめる労さえもとらずに。バカげて聞こえるだろう。まさしくバカである。今この瞬間に、もし同じ過ちを犯している人がいたとしたら、ぜひこのバカなケースを役立ててほしいものだ。

必要な知識の入手という問題に関しても、今のアドバイスはそのまま当てはまる。自分の知っていることを書けとは、誰も言われることだが、しかし、尻の青いうちは人は何でも知っていると思いたがるのであって、そこが作家にとって問題なのである。おのれの無知の範囲と構造が見えていない──そう言い換えた方が有効だろうか。(…) 作品中には、データが正確であればそのぶん引き立つ繊細な箇所がいろいろとあり、そういうところでの扱いがいい加減だと、ストーリーの流れの外側に生じえたエクストラな魅力を取り逃してしまうのである。(…) 自分の得たデータはチェックせよ。

「アンダー・ザ・ローズ」について

私はベデガーを収奪した。私が生きたこともない時間、場所、外交団員の名前に至るまで、ディティールをまるほと盗み取った。(…) 私のように、この盗みの技に魅了される人が出てきてはまずいので、これがストーリーを語るに際してどれほどマズいやり方であるか、力説しておこう。問題は「エントロピー」の場合と同じなのだ。熱力学での造語だろうと、ガイドブックのデータだろうと、宙に浮いた抽象を起点として、そこからプロットと人物を膨らませていこうとするのは、方向が逆──業界でいうところの「逆ケツ」なのである。人間の現実にしっかりケツをつけて書かないかぎり、出来上がったものは書生の練習作品に類する代物でしかない──

「アンダー・ザ・ローズ」にはまた、当時被ったシュールリアリズムの影響が見られるが、まだ影響を被りたてだったせいで、それ以後の書き物ほどひどいことにはなっていない。(…) 生の深みの夢の層へアクセスするなどということはまるっきりダメだったものだから、この運動の核心のポイントには理解が至らず、代わりに、単純にも、ふつうは同じ枠に入れない要素を一緒にすると驚くべき非論理的効果が生まれる、という点に魅了された。だがそのゴタマゼには慎重さと技量とが要求されるのであって、いい加減な組み合わせからシュールな効果が出るわけではない。そのことを当時の私は、学んでいなかった。

「シークレット・インテグレーション」について

人のパーソナルな生は、小説づくりとは何ら関係しないのだという、誰が聞いても間違っている考えに、どこかで私はハマり込んでいたようだ。事実はその真逆である。私のまわりにも、反証はふんだんにあった。なのにアホな私は、無視を決め込んでいた。本で読むものも、話に聞くものも、自分を感動させる物語はみな、人生の深みからコストをかけて釣り上げられてきたものばかりだったのに。われわれみんなを包み込む生の、深く共有されたレベルにあってはじめて、物語に独特の輝きが、疑うべくもない真正さが加わる。そんなこともわからないほど自分がバカだったとは思いたくない。きっと地代が高すぎたのではないか。それでこのアホな小僧は、ちょろちょろとフットワークに頼ってばかりいたのだろう。

しかしもう一つの要因があるかもしれない。閉所恐怖症というやつだ。今いる場所を逃れてなんとか外への一歩を踏み出さずにはいられなかった。(…) 分野と時代を問わず、見習いの奉公人は一人前の職人として独り歩きの旅に出たがるものである。


……とかなんとかいったって、面白いんですけどね。どれも。なかでも僕は「ロウ・ランド(低地)」「エントロピー」「シークレット・インテグレーション(秘密のインテグレーション)」あたりが好きだったはず。今回はどう思うんだろうか……