さあ、そろそろハックルベリーに会いに行こうじゃないか。

「孤独」って言葉は聞こえがよすぎていけない。これではいかんのだ。そんなに良いものなんかじゃないんだよ。それはつまり、みなから箸にも棒にもかからないものと認識されているということだ。みながみなにとってそうであり、だからこそ他人の生に介入することがいかに困難であるかってことを、これ見よがしなあれこれについて、まったく無駄に(そう、ほんとうに無駄に!)言葉を尽くす君はほんとうに分かっているのだろうか。すべてがあまりに独立に過ぎるからこそ、その区別は無意味であり、比較なぞできぬその必然的な結論として、特権なぞどこにもないのだからと、幼少の頃より自らに言い聞かせてきた。それを了解した上でで喋ることができるひとつの極は「わるふざけ」。それは至高の文芸であり文学でない。私はまず、まさにそれを愛する。

そしていま一つの極とは何か。「それはほんとうに言わずにはいられないことなのか?」漏れ出さざるを得ぬものについてだけ私は価値を認めるのだ。それこそがもう一つの極、極光に塗れた極、すべての外的環境という太陽風はこうしてぶち当たる。あらゆる形式の裡に隠すことのできなかったもの。目的に対して意味があるとかないとか、推測することこそ無意味というもので、敢えて言うなればそれは熱的死であり、多様性の進行はエントロピーの増大と同義だ。意味のなかを生きることしかできない。ランダムネスというのは平均の増量でなくまさに無秩序を指す。客観視された意味は熱的死に帰着するのだから、さすれば主観的な意味のなかにしか生きることはできないのだと、だからこそ尊い。だからこそ共感というぬか喜び。そうだ、そんなものは真っ赤な嘘であるはずなのに、私たちはそれを確信せずにはいられない。分かり合えるなんて信じているのも馬鹿らしい、その運動、それだけを見よ。ぬか喜びの価値はいかにも素晴しき哉。

そして、時として奇蹟が生ずることがある。隠れた揉め事の両側に、異なる種の人間が、それぞれに適したウェブサービスを選んで、隣り合って声高に叫んでいることがある。思想を共にした二人の人間が、数百年の隔たりを、彼ら独自の遣り方で理論立てながら、二人同時に一つのブログの中に見分けられることがある。その時、空間と時間は境を失って、俄かに融合してしまう。現在の瞬間に生きている多様さが、歳月を並置し、それを朽ち果てないものとして定着させるのだ。思考と感受性は新しい次元に到達する。そこでは、クリックの一つ一つ、キーボードを打鍵する一音一音、回線の電気信号のそれぞれが、すべての人間の歴史の象徴となる。目の前に開かれたブラウザが、その歴史に固有の運動を再生すれば、私の思考はその歴史の意味を捉えるのである。私は、より密度の高い理解に浸されているのを感じる。その理解の内奥で、歴史の様々な時代と、世界の様々な場所が互いに呼び交わし、ようやく解り合えるようになった言葉を語るのである。


というわけで、この元旦はもしドラを読みました。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら


参考:
http://d.hatena.ne.jp/sfll/20101231/p1
http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20110101/p1
また、第三段落は川田順三訳 レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』上巻 p.83 (中公クラシックス)より改変。