素粒子 - ミシェル・ウェルベック

面白かった。たいへん面白かったんですよ。この読了後の湿っぽい気分を突き放した言い方をしてしまえば、なによりも性のお話でした。それに関連する自意識だったり愛だったりするものまで範疇には入ってはいるものの、一言でいうならば、やっぱり性の話だったんじゃないかと思います。

ちなみに、五年間の積読を破って読みはじめようと思ったのはid:numberockさんのおかげです。彼の感想は以下。
http://d.hatena.ne.jp/numberock/20110113/1294915537
http://d.hatena.ne.jp/numberock/20101007/1286454347

素粒子 (ちくま文庫)


はい、で。僕はどんなこと考えたかと申しますと……

お話は第一部から第三部+エピローグから成り、まず第一部は二人の主人公(異父兄弟なのだけど)の少年時代について描かれています。この部分を読んでいるとき奇妙に思ったのは、そのおそろしく淡々とした描写でした。登場人物たちの行動や感情を描くときもそうだし、なによりも、たまに挟まれるより社会的(おもに性の解放の歴史について書かれていた)・科学的(といっても、おもに生物学的、あるいはその延長としての分類学的な目線)な素描が、あまりに冷静すぎる。こういった描写とそこからの演繹として登場人物を描こうとする姿勢は、人間とそのほかの動物の境目をいくらか曖昧にさせているように感じましたし、最終的には、どうもその考えはそれほど間違っていなかったようでした。これについては後述。

そして第二部、大部分が主人公の一方であるブリュノについてのお話。性の解放が盛んに叫ばれた特殊な時代に少年-青年期を過ごし、劣等感とそこからくる性的欲望に支配された彼は(その描写がえんえんと続き、それがまたたいへん面白いし、大抵の読者には同情なり共感、この時代を生きる者にとっては、どうしても感じざるを得ないものがたとえ部分的にでも、あるに違いないのだ!)、そろそろ老いはじめようかという年齢になってパートナーを見つけ幸福を得ることになるのですが、結局それも一瞬。悲劇的な結末を迎えてしまうのです。第一部からは一転してひどく生々しい文章で綴られるこの執拗に追ってくる絶望が、物語ぜんたいの結末をある種肯定的な受容(もうお前らは、人間は、よくがんばったよ!十分だよ!みたいな)へと導くことになります。

でもって第三部。もう一方の主人公である分子生物学者、ミシェルについてのお話。ミシェルはブリュノとちがって劣等感や性的な欲望に苛まれることのなかった人物でしたが、最終的には(第二部の後半から)愛というかたちでそれに触れるものの、結局彼も絶望することになってしまう。そして、それを直接的に受けたわけではないにせよ、生物の遺伝子がトポロジー的に不完全でありそれを解決することによって不死性を獲得する、つまり、性であるとか生物学的進化から解放された種を誕生させることができるような研究を遺すところまでやってくるのです。

そしてエピローグでは、その研究が新人類──それは形而上的な認識や価値観の面でも大きなシフトになるのだけど──の誕生へと導く、というところまで描かれます。つまり人間は、旧い種になってしまうのです。第一部のあの演繹がどうこうと言ったのはこの辺りです。社会的な描写はじつはすべて捨てられるべきものの描写であった、新人類にとって旧人類は、ただの「幼年期」であったのだよ、という。


また、さらに言うならば、このあたりは空想的社会主義者やオルダス・ハクスリーのユートピアについての話がちょこちょこ出てくることからも暗示されているし、何よりも以下のエピグラフ(いずれもコントの言葉)に顕著でした。

まず第一部第十二章のエピグラフ。「革命的な時期において、まったくもって奇妙な自負とともに、同時代人たちのあいだに無政府主義的情熱を鼓舞したのは自分だと思い込む類の連中は、その嘆かわしい見かけ上の勝利なるものが可能になったのは、それに対応する社会状況の総体によって決定された、自ずからなる傾向があればこそだったということに気づいていないのである」

こちらは第二部第十章のもの。「根本的原理を変更するか一新しなければならないとき、その犠牲となる諸世代は、変革の直中にいながらも畢竟、変革とはいっさい無縁のままであり、しばしば変革に対する断固とした敵対者となる」

ね?


でもって、性の話で、かつユートピアについての小説ですから、ヒッピーが出てくるのは必然といってよい!実際この二人の主人公の母親はヒッピーな上に、第二部ではかなり重要な位置を占め、あげくエピローグではニューエイジにも触れられる。たしかにそれは相似ではある。しかしこの手のお手軽なユートピア思想との根本的な違いは、なんといっても精神が先にくるわけではないこと、技術的な「解決」こそが先にやって来るということではないでしょうか。

つまり、優生学が(価値観としても)否定され、また、セックスが生殖以外の目的を持つようになった半世紀において用意されたものは何かといえば、それは人類の生物学的進化が不可能になったという事実であるということ。そうなるとあとに残されているのは、遺伝子工学による進化かあるいは社会そのものの「進化」でしかない。そこで大抵のユートピアものは社会的な価値観のほうを持ってくる(たとえ遺伝子工学というガジェットを用いたとしても!)のだけど、この物語においてはそうではない。価値観の転倒でなく、消去でもなく、超克。それは純粋に技術的な要因によって、最終的に社会・精神までが変わってしまうということです。そこにはたしかに社会的な傾向もあったにせよ、けっきょくその只中にいる者はすべて保守派に、永遠の幼年期のなかにいることしかできないに決まっているのだよ、ということを描き出している点で卓越しているように思ったのです。


……とかなんとか言ってますが、こういうのは全体を見て、その最終的な解決について言ったこと。読んでいるただ中では、やはり、老いること、死んでゆくこと、性愛や自意識から逃れられないことが、ほんとうに絶望的な結末しか生んでいないことを、執拗に書いてゆくわりに、不思議と重苦しい感じもしない。滑稽さがそれを上回っているように思える。そんな、なんとも不思議な小説で、そういう意味でどんどん読み進められたという事実も、ひとつの感想として、あったりします。


それにしても、なんだか久しぶりでした。ここまでいろんなことを考えられた長編小説というのは。もんのすごくお勧めですよ!!!!