読みあぐねている人のためのピンチョン入門 (逆光 - トマス・ピンチョン)

恒例となりました「おまえピンチョン言いたいだけやろ!!」のコーナーです。このたび『逆光』を読み終えましたので感想……と思いきや、そもそも感想だのレビューだのは、良質なものがすでにネット上にあふれておった。とりあえずこのエントリの最後にもいくつか載せましたが、これだけいろいろあって、僕なんかが何をか言わんやと思ってしまいましたので、今回は違うことを書きます。

それはいったいなにかってえとですね、新潮社からトマス・ピンチョン全小説が刊行され、僕がこうして恒例になるほどピンチョンの小説の感想を書いているというのに、僕の観測範囲でこれらを読む人が増えたようには思えないということに関連しています。そう、これは完全に僕の不徳の致すところ、もうちょっとこう、「ピンチョン気になるな、でも高いし面倒そうだな」って人が読んでほしい。面白い感想など書いてほしい。みんなが読めばきっともっと(僕にとって)愉快な世界になるにちがいない。そう考えましたので、今回はこんなタイトルになったわけです。

逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)
逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)

……で、なんでみんなピンチョン読まないの?って話なんですが、つまりこれ、「長いし読みにくい、つまり時間ばかりかかって、これほんとに私が読むに値する本なの?」っていう疑問があるからなのだと思われます。とりあえず今回はそういう前提で行くからお前らついてこい。人生は有限なんだからピンチョンの小説なんかよりも読むべき本はたくさんあるんだと、そういうことだろうが。えっ?そうだろう?お見通しなんだよ!とくに長編小説が大好きなそこのあなた、ガルシア=マルケスは読んでもピンチョンは読まねえ、フォークナーは読んでもピンチョンは読まねえ、中上健次は読んでもピンチョンは読まねえ、そんなあなたに今日は伝えます。

トマス・ピンチョンってどんな人なんですか

とりあえずどんな人かって話からはじめようと思ったんですが、えっと、Wikipedia読んだらええよね。現状分かってることといえば、ほんとうにこのくらいらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3

1937年生まれ(古井由吉と同い年なのね)の彼、ともかく素性がほとんどわからない、人前に顔を出すことがまったくない……ということはご存知の方も多いと思います。でもべつにかまわんですよね。作家を読むわけじゃない、作品を読むのだから、そんなことは僕達が気にすることはない。とりあえずは、物理工学科から英文科へ、という経歴のことだけ覚えておいてもいいかもしれません。

というわけで、経歴の紹介もなんもなしに、僕がピンチョンの作品で面白いなと思うところを四つほど考えてみました。それによって魅力が伝わればなと、そう思っております。以下。

1. 科学的修辞

科学的修辞、といったって、僕が勝手に使ってる言葉なので何のアレもありませんが、とにかく、まずピンチョンの魅力として僕がいちばんに挙げたいのはこれです。さっきの物理工学科云々というのは、そういうこと。

たとえば『逆光』の登場人物のひとりに、ケンブリッジで数学を学ぶ(学んでいた)ヤシュミーンという女性が登場するのですが、彼女、リーマンにものすごく魅せられている。だから、彼女の思考のなかにはしばしば、アナロジーとしてのリーマン予想素数定理が登場します。また、キット・トラヴァースという登場人物はなにかとベクトルを持ち出してきたりもする。そうやって出てくるなかで、それらが実際にどの程度「正しい」かというのは、ここではあまり問題ではありません*1。あくまでアナロジーとして、ですからね。もちろんそういうものにイライラすることの多い人だっているでしょう。いきなり不完全性定理とかクラインの壺とか言いだすああいうのって嫌いよねーとか、そういうの。わかりますわかります。……が、ピンチョンのそれは、ちょっとちがうのですよ。はっきり言えるのは、ピンチョンの小説のなかでそれは「正しい」ことなんてはなから主張していない、「正しい」フリをしていないということです。これがどのような結果に繋がるかといえば、こういった科学の粉をまぶしたアナロジーが小説内の現実に干渉してくるということ。科学そのものが書き換えられると言ってよいかもしれません。一般的なSFは、良い意味での疑似科学、つまり科学のフリをうまいことやってくれているジャンルなのですが、ここではもうちょっと虚構の強度が増している。強いて言えば筒井康隆と精神分析の関係、あるいは円城塔と計算理論の関係に近いかもしれない。

たとえば、ある四元数主義者の戯言。この台詞は小説全体に通底する世界観さえも仄めかしています。

「ていうか、四元数主義者は、ベクトル主義者が分かったつもりになっていた神の意図を故意に歪曲したからつまずいたんだよ。空間は単純で三次元で実数軸、第四の項が必要ならそれは虚軸であり時間に割り当てられるはずだというのがベクトル主義者。しかし四元数主義者が現れて、それをそっくりそのまま引っ繰り返した。空間を表す三つの軸が虚軸で、時間が実軸を取る。しかもスカラーだ。とても認められるものじゃない。当然、ベクトル主義者は戦争を起こした。彼らの知る時間はそんな単純なものではありえなかったし、空間がありえない数でできているなんて許せなかったのさ。彼らが無数の世代にわたって侵入し、占領し、守るために戦ってきたこの世が虚数なんて」*2

ほかにも、直線が曲線になるような写像は円環的時間を暗示するだとか、地球全体を共振回路にしてエネルギー問題を解決し資本主義を崩壊させるだとか、歪像鏡を繰り返し使ったりなんかいろいろするとシャンバラへの地図が解読できるとか、複屈折によって分けられた光が二人の分身になりそれぞれ違う人生を送るだとか、写真は時間の微分なんだからそれを積分してやることで動きだすし積分定数の選びかたによっては送るはずだった別に人生の姿を見ることができるだとか、エーテルの波に乗って空を飛ぶんだとか、そういったこと*3がもっともらしく語られる。最初は冗談のように、ただのトンデモのように提出されるそれらが、いつの間にやら冗談じゃなくなってる。いや、むしろ小説ぜんたいが大きな冗談のようでもあるのですが、そういうことが次々に起こる。どうですか、こういう科学の見方ってしたことありますか、ちょっとわくわくしませんか。

2. 馬鹿馬鹿しい小話

とにかく馬鹿馬鹿しい小話ばかり出てきます。たとえばマヨネーズの製法についてとにかく激論を交わす。ポテトサラダについて、エーテルについて、ほんとうかどうかなんてもうよう分からんような、そんなものが山ほど出てくる。白髪三千里、そういうものが、みなさんだってお好きでしょう?

たとえば……(ほんとに馬鹿馬鹿しいので読まなくても構いません)

店はマヨネーズ博物館のようだった。当時はマヨネーズブームがベルギーで最高潮に達したころで、卵油性乳状液の巨大な展示品があちこちに置かれていた。七面鳥と牛タンの燻製を載せた皿に取り囲まれたマヨネーズグレナッシュの山は内側から赤く光るように見えた。他方で、実際にかけて食べる料理とはほとんど、あるいはまったく無関係に、雲のようにふわふわな泡立てマヨネーズの山が重力の影響も受けずに頂まで高くそびえていた。山盛りになった緑色のマヨネーズ、ゆでマヨネーズとマヨネーズスフレの入った鉢が至るところに置かれていた。当然、あまり成功しているとは言えないアレンジ料理もいくつかあって、私権剥奪の憂き目に遭ったり、ときには正体を隠して提供されていた。
「"ラ・マヨネーズ"のことはどのくらい知ってる?」と彼女が尋ねた。
彼は方をすくめた。「"武器をとれ、市民たちよ"のコーラスの辺りまでかな──」
しかしめったに真面目な顔をしない彼女が顔をしかめていた。「"ラ・マヨネーズ"の起源は」とプレイヤードが説明した「ルイ十五世宮廷の道徳的な汚らわしさにあるの──(…)ルイのために麻薬と女を調達するのを仕事にしていたリシュリューは、いろいろな場面に応じてアヘンの吸引法をアレンジするのが得意で、ゲンセイというハンミョウの一種を粉末にした催淫薬をフランスに紹介したのも彼なの」彼女はキットのズボンを意味ありげに見つめた。「媚薬とマヨネーズにどう関係があるのかって?ハンミョウを集めて殺すには酢の蒸気にさらさなければならないの。てことは生きているものとか、さっきまで生きていたものとの結びつきが強いっていうこと──卵黄は意識を持った存在と考えてもいいかもしれない。マヨネーズを作るときに料理人が泡立て(ホイップ)って言うのは鞭打ち(ホイップ)のことだし、掻き混ぜ(ビート)は殴打(ビート)、つなぎ(バインド)は緊縛(バインド)、なじませる(ペネトレーション)は挿入(ペネトレーション)、他にも、言うことを聞かせるとか、寝かせるとか。マヨネーズには間違いなくサディスト的な側面がある。見逃しようがないわ」*4

以降えんえんとマヨネーズの話……

また、こんなシーン。

そして、彼女がヴラド・グリッサンに会ったのは、果たしてその瞬間だった。ヴラドも一休みしようと彼女と同じ戸口に避難してきたのだ。北風は彼と共謀しているかのように、いきなり彼女のスカートとペチコートを頭の上までまくり上げた。それはまるで古典的な女神がクレープリッスの雲にくるまって今にも現れようとしているかのようだった。その瞬間、彼の一方の手がむき出しになった彼女の両脚の間をつかんだ。するとほとんど反射的にその両脚が広がり、片方の足が上がって、そのまま彼の腰をしっかり抱え込み、他方で彼女は烈風の中、反対の足一本でバランスを保とうとしていた。既にすっかりほどけた彼女の髪が彼の顔を鞭打ち、彼のペニスはなぜか風雨にさらされていた。これは現実じゃない。彼女には彼の顔がちらっとしか見えなかった。彼の笑顔は嵐のように獰猛だった。彼は彼女のはいているバチスト地のパンツを引き裂いていた。彼女は彼が挿入してくる瞬間をまざまざと感じた。クリトリスは今までにない感触を受けていた。乱暴なわけではなく、むしろ優しく、ひょっとすると角度のせいなのかもしれない……でも、こんなときにどうして幾何学みたいなことを考えてるのかしら……でも、ちゃんとそこでつながっておかないと、私たち、どこかへ飛ばされそう。*5

んなわけあるかよ!!!!!!!!!!

3. 歴史/事実の語りかた

これに関しては『V.』や『メイスン&ディクスン』の感想で何度も言ってきたことなので繰返しませんが、『逆光』ではとくに、そのテーマが不可視の並行/対称世界、無時間、これらはすなわちフィクションそのものであり、歴史そのものであったことから、この視点がかなり徹底されていたように感じられました。

M&Dの感想を書いたときにも引用した以下の文章を再掲しておきます。

歴史は年代記の真実性も主張出来ぬし、回想の力も主張出来ぬ、──歴史に携る者が生延びんとするなら、穿鑿好きな人間の、密偵の、酒場の賢人の知恵を早々身に付けなければならぬ、──過去へと通じる命綱が、常に何本もあるよう気を配るのが歴史家の仕事。過去の彼方に祖先を失なってしまう危険は日々存在し、単一の鎖の連なりでは十分ではない、一つの繋がりが失われたら滑てが失われてしまうから、──あるべきは、何本もの連なりがごっちゃにこんがらがった、長きも短きも弱きも強きも入り交じった混沌であり、それ等が皆、目的地のみを共通として記憶の深みへ消えて行く様に他ならぬ。

僕たちはいつだってどこだって大量の無意味なデータの連なり──それは虚構も含めた──を押し付けられて生きていること、そのなかで「有用」な情報はかならず散逸するがために、ものごとはほんとうの意味ではなにひとつ確かになってゆかないと感じながら生きていること。これらを無意識に知っているという状況のなかで、理不尽にみえるその押し付けられかたというのがじつは、(ピンチョンが書くように)ひどくうつくしかったりひどく詩的だったりするということを、肌で感じることができるのです。

ところで、これを書きながら、なにか参考になるものないかなと木原善彦せんせいの著書『トマス・ピンチョン - 無政府主義的奇跡の宇宙』をめくっていたら、彼もちょうどこの文章を引用し「ピンチョンがやっていることは、この議論に凝縮されていると言ってもよい」と述べておられました(その場で小躍りした)。……ですよね。ピンチョン陰謀論やスパイ、都市伝説や空想科学、魔術などを好んでモチーフとしますが、その「仮定法的事実」を語ること、そのやり方ってものは、現実で生きる僕たちが改めて認識すべきことなのではないかと思ったりしちゃったりもするのです。偉そうだな。

4. 細部の表現がいちいちかっこいい

ここでは例示としての引用はいたしません。ってのは、とりあえずどこかのページを開けばどこにでもそのすばらしい細部の表現を見てとることができるはずだからです。それほどまでに密度が高い。じゃあその素晴しさってのを喋れよっていう話ではあるのだけど、ええい、ここは「とにかくすごいんだよ!」に留めさせてください。せっかくなんだから。とりあえずお手持ちの積読ピンチョン本をどこでもいいから開いて、味わうように1ページだけでも読んでみてください。それで十分解ってもらえるはずなのです。

……なんだけれども、せっかくなのでちょっと、それに関連して考えたことを書きます。

ピンチョンの小説においては、登場人物(や語り手)のあいだでは意味することが明白にみえる暗喩や仕草、ユーモアのやりとりが、読み手(すくなくとも僕)にとってはぜんぜん明白でないということが、しばしば起こります。ほかの本を読むときの3倍くらいはしつこく文字を追って、繰り返しながら読んでいるはずなのに「なんかかっこいいっす!!」ってことしか読み取れなかったりする。けっして悪文という意味で取りにくいわけじゃないんですよ。ただそれは、あなたが友人や両親、恋人や配偶者たちにたいして、「ああ、この人のことをよく知れば知るほど、この人のことがどんどん分からなくなっていく」という、あの複雑さ、わけの分からなさととてもよく似ているんです。そこらへんを通りすがる人々や、インターネットでちょこっと見たエントリ、そういうものから感じるのは、表層的な人間というやつ、そこから一歩でも踏み込もうとしたときに、相手のこれまで生きてきたすべてが、あなたへの行動としてあなたの思考のなかに流れこむ。あの感覚にとても近い。それが微細な描写からいつのまにかおそろしく広大な視野が開けていくような、ピンチョンを読むときの感覚なんです。

ただ、そういう細部も善し悪しというか、だからこそ、ストーリーを追うということは二の次になってしまいもする。ときにヤシュミーンとダリーがこんぐらがり、トラヴァース兄弟には前後百ページでの動向も追えているかどうか怪しい。それでももう一度引っくり返して、ぼくが『逆光』の魅力として言い張りたいのは!これがただの不完全な読みに由来すると解っていてもなお僕が認めざるを得ないのは!そういったこんぐらがった読書体験というのは、本を読むことそのものの寄る辺なさというものをこれでもかというほどに叩きつけてくるという、マゾヒスティックな快感、信じることしかできないという快感でもあるということです。

長くなってしまいました

つうわけで、とり急ぎ今回は僕にとってのピンチョンの魅力であると感じられるものについて四つ紹介いたしました。もちろんこれら四つが独立してあるのではなく、それらは絡み合って小説のなかに存在しています。ほら、ちょっと興味出てきませんか?出てきましょうよ!出てきてよ!!ね!で、せっかくだから、根気強く読んでみませんか。それが読書の愉しみというやつではございませんか。そんな感じで今日はおやすみなさい。



他の人の感想とか

最初に言ったとおり、ちょっと他の人の感想など置いておきます。

まずは山形浩生によるあらすじ。原書読んでの感想なので固有名詞が微妙に異なっていたりもしますが、かなり正確なあらすじなんじゃないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/searchdiary?word=*[ATD]
ついでにレビューも
http://cruel.org/onebook/againsttheday.html

でもって次は@do_dlingさんのtweetまとめ。
http://outofthekitchen.blog47.fc2.com/blog-entry-669.html
togetterで読みたい人はこちらどうぞ。訳者の木原さんがまとめている!!!!
http://togetter.com/li/58726

次はいつもお世話になってる『石版!』の紺野さんのレビュー
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20101101/p2
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20101122/p1

その他レビューはこのブログから辿ることもできるぞ!すごいなこれ!!
http://chums-of-chance.cocolog-nifty.com/blog/

もちろん、前掲の書影をクリックすることで、キーワードからも感想などが見られますね。やっててよかったはてなダイアリー

そしてなによりも、訳者の木原善彦さんのtwitterアカウントでは1ページずつコメントが!
http://twitter.com/#!/shambhalian


それでは、改めておやすみなさい。あなたは明日の通勤電車でピンチョンを読むにちがいない!!!!

*1:とはいえ、大学教養程度の数学的知識しかない自分にとってはすくなくとも、それほどおかしなところはないように思えもするのですが

*2:上巻 p.827

*3:このへんお例示は山形さんのあらすじも参考にさせていただきました

*4:上巻 pp.843-845

*5:下巻 pp.413-414