アレクサンドリア四重奏 (1) ジュスティーヌ - ロレンス・ダレル

とにもかくにも、第一巻「ジュスティーヌ」、書評などをちらほら読んでみると、ここで描かれているのは物語の一側面にしか過ぎないよう。ですから以下では、その一側面に基づいた話をいたします。全体を俯瞰した場合どうなるかだとか都市小説どうこうってのは、また今度、すべて読み終えてからやりましょう。やりたいのです。
端的にいえばきっと、Love will tear us apart*1なんだろう、などとしたり顔で言ってしまえるのかもしれません、そんな感じのまずは一冊でした。


アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ


「イエス、姦通小説!」
都市に唆された男女二組の関係がその核。みんながみんな、アレクサンドリアという都市の大きなうねりのなかにいて、最終的にみながそこを離れる。華やかなる人生の一時代の、最愛の人の、喪失で終わる。大まかに言えばそういう話だと一人称で述べられる。分かりますか!主人公は過去を振り返って、言い訳しているわけだ。自己正当化甚だしい!

そうなんですよ。甚だしいわけです。乱暴なことを言ってしまえば、過ぎ去った恋愛の八割ってのは、きっと誰にとっても、自分への言い訳と分析、織られた記憶の襞*2からできているのでしょう。日記の引用や断片的で時系列の乱れた回想等からなる構成は、どうもそれを強く仄めかしているようではある。そういったヒネりじたいは、(当時はどうだったか知らんが)今となってはそれほど珍しいものではありません。けれども、それは時にはとても自然なこと、つまり、強い効果をもたらしてくれる、必然性を伴ったやり方にもなる。まさにこれがそうだ。だって、過去の恋愛ってのはそういうものなんだもの!仕方ないさね!という説得力が生まれている。


じゃあ、単純に必然性があるだけじゃない、そんなけったいな説得力があるほど強いんだってのはなんでや。なんでや!というと、すでに確立された(言ってみれば陳腐な)お話に用いられているからでしょう。そうです、単純至極。逆説だろうと、僕は思うのです。

つまり、そういったやり方が自然に思えるお話ってのは二種類あって、ひとつは、これは当たり前ですね、「統合を失っているお話」の場合。で、もうひとつは、さっきから言ってるやつです、ここでは過ぎ去った恋愛ってのが理由になっている、「客観的にははっきりとした筋道があるのだけれど、その記憶のしかたと取り出しかたが決定的な意味を持つお話」の場合。前者は前者で面白いし好きなのですが、後者では、そのやり方をある程度以上に推し進めたとき、逆説の持つ鮮かさがあらわれる点で優れている。乖離が丸見えになるというか。

いや、これは読んでてけっこう意外だったんですよ。語り口の豊穣さおよび連想そして叙述の飛躍への節操のなさがここまで異常だとそんなことになるのかって驚いた。語り口と内容の深さそのものの両方が型通りのところから抜け出せるほど突き詰められているせいなんでしょうか。そう言うと、なんか普通のところに落ち着いちゃった感あるけれども。

ともかく、言ってしまえば、過ぎ去った、喪失感に塗れた恋愛話ってのは、まさにこの鮮やかさのために用意されているんじゃないかとさえ思ったわけです。お話の類型は数あれど、じつはこれが適用できる型ってのは、そうそうないんですよね。


というわけで次巻以降を読むのも楽しみです。ありがたいこっちゃなあ。

*1:ジョイ・ディヴィジョンやで

*2:「記憶の襞」: Googleで検索した結果、約24万2千件の常套句