来たるべき因習

これからしばらく、ぼくの伯父がはまっているらしい新興宗教について書きます。
ええと、あまり特定されたくないので——特定しようとする人なんていないと思ってはいるんですが——まあ、広大なネットの世界、なにがあるかわかりません、ですから、ある程度フェイクをまじえて書きます、ですから、もしかすると矛盾しているところがあるかもしれません、けれども、そのあたりには目をつむっていただければと。あなたも物好きですね。

さて、「新興宗教」について説明するにあたって、まずはその伯父がどんな人か、どんな境遇にあるのかということから説明しておかなきゃですね。
ぼくの父母ともに、三人きょうだいの末っ子、それぞれのきょうだいのうち真ん中は女性、いちばん上が男性、そんな構成になっているせいでややこしいんですが、これから話題にしたい伯父は父方のほう。たいていは住んでる土地の名、ここではひとまず後沢——「ごのさわ」と読みます——としましょうか、その後沢からとって、「後沢のおじさん」と呼んでいる、その伯父の話です。呼び方、まんまやね。あんまりカタい言い方に慣れていないので、以降は「おじさん」と呼ばせてください。
そのおじさん、歳はたぶん六十代半ばくらい。父よりも五つ年上ということだけはなぜか覚えているんですが、そもそも自分の父がいまいくつなのか、あまり自信が持てません。誕生日は(かろうじて)覚えています。なので、たぶん六十代半ば、そういうことにしておいてください。
うちの親戚連中のなかではめずらしく酒飲みで、しかも飲むと説教臭くなる。お盆やらで父方の実家、つまり後沢の家に集まった夕食どきなど、ぼくを含めた親戚の子供たちはなるべくおじさんの標的にならないよう、さっさと夕食を済ませ、いとこの兄さん——とりあえず「俊一兄ちゃん」としておきます——の部屋に逃げこむのがならわしでした。ときどきわざわざその部屋までやってきてちょっかいをかけてきたりもするんですけど、まあね。

せっかくですからなにか具体的な、うっとうしいエピソードを。
あれくらいの歳の人だったら——自分の観測からいえばもうちょっと上の世代のような気はするんですけど——好きな人多いじゃないですか、浜村龍一の歴史小説が。酒の入った説教をするとき、いつもおじさんの言うことにゃ、まず第一声が「本を読め」なんで、「読んでますよー」などとはぐらかしてはみるものの、「何の本読んどるねや」「いやそりゃ、えーと……」モゴモゴ、つって。「やっぱ物語、物語を読まないかん。浜村龍一とか、な、読んどるか?」ぼくは読んでいませんから、「それは……読んでないっすね……」ほらほら、もうめんどくさい、「ありゃええぞ」とか、「はーやっぱ最近のは本読まへんねんな」とか。呆けたように笑ってみるほかにやりすごしようを知らなかったし、今も知りません。しかもそれが、盆と正月が来るたび飽きずに繰り返される。こいつ読む気ねえなとか思わないのかといえば、きっと思わないんだろうな——というよりそもそも、そんな話をしたこと自体忘れているんでしょう。いや、あのおじさんのことだ、覚えていても言いそうな気だってしますけど。だいたい、中学生くらいの子供が浜村読まないでしょってのがわかっていたんだろうか。これだってわかっていたようないなかったような。だからけっきょく、おじさんの真意なんてなにもわからず、知っているのは(酒を飲んだら)うっとうしいってことだけ。そうはいってもべつに怒るような雰囲気じゃなかった、むしろふしぎな親密さで、それこそほんとうは心地良いものじゃなかったのか、と考えてもみようとはするものの、やっぱ嫌だったなあ。
あとは、そう、これもあるあるなんじゃないかと思うんですが、家系——「いえけい」じゃなくて「かけい」のほう——を自慢をしてくることもありました。むかしむかし配流された帝についてきたお武家さんがとおりすがりの娘に遺していったその血をひいたうちの一族に伝わる刀を祖父の祖父が失くしてからはもう証拠もなくなりその血筋の秘密は一子相伝、お前にゃこっそり教えたろ、俊一はモテへんからな、本家はうちの代で途切れてまうかもしれへんから、とかなんとか。いやうちとこずっと百姓やないですか、というか、それこそうちの父だってあれ嘘やからななんていつも言っていたから、だからこっそりもクソもねえ、そんなステレオタイプな絡みをしてくることもありました。具体的な行動の指示としては「ちゃんと墓参り行かなあかんで」程度の話ではあるので、本を読めって言われるよりはだいぶんマシなのかもしれません。墓、まあ後沢の家に行けばだいたい参ってましたし。
だいたい親戚の集まりってものはですね、おじさんの酒臭い説教はうっとうしいし、そもそも出てくる飯だってそう美味いもんじゃありません。あんなもんはなあ、年寄り連中のための味付けばかりだ。あるじゃないですか、おばあちゃんの作ったおせちみたいな。あれが好きな人だっているのかもしれませんが、十代のころから大好きでしたって人は——相当高級なおせちを食べていた人か、相当舌が年寄りじみていた人なんじゃないですか? でもだから、茶色い煮物みたいなやつを箸でもてあそんでもつまらない、話しかけてくるのはうっとうしいおじさん、縁側から見える庭は親戚一同の車で埋めつくされてる、そんな場にいるくらいだったら、俊一兄ちゃんに格ゲーでボコられるほうがなんぼかましでしょって。そんなこと決まってるわけです。

とかなんとか、挙げてけばもっといろいろあるんですが、そうはいっても普段なら、普段ならうっとうしいわけでもなく、多少面倒見がいい人だなという程度、むしろ「好きにすりゃええやん」という雰囲気、あっけらかんとしてこだわらない人でもありました。楽観的といえば楽観的。うちの父のほうがよっぽど粘着質で陰気なんですよね、こっちのおっさんは性格悪い。
とはいえ「伯父」くらいの距離感の人がじっさいどんな人間だったかなんて、そんな隅から隅までわかるものではありません。会う機会が、そんな、めちゃくちゃあるわけでもない、それこそ盆と正月くらいってなると、どうしたって酒の席でのイメージばかりになってしまいます。

仕事はなにしてるって言ってたっけかなあ。いや、ふつう、伯父の仕事とか気にしないもんですよね。少なくともぼくはそうです。おばさんのほうは介護の仕事やってたってのを覚えてるんですよ。山んなかだから介護の仕事には困らない。でもおじさんの仕事は知らない。俊一兄さんは大学には入って、卒業して、今もまだ実家住まいってこと、そこまでは知ってるんですけど、仕事でなにやってるかはさっぱり知りませんね。市外に働きに出てるってのは、それだけは知ってる。
そういえば俊一兄さん、一昨年くらいにもうすぐ結婚するって言ってたんだけど、ここんところいろいろあって——まさに今から書く話ですね——どうなったやら。実家のほうだとわりと結婚、もう遅いほうなんじゃないかななんて思うんですが。結婚式の招待状とか、届いてないですね、そういえば。
いや、俊一兄さんの話はいいか。だからとりあえず今日はここまで。結局おじさんの、酒の席での人となりくらいしか説明できなかった……っていう感じで始まる話を寄稿したので、そうです、だからここ数年の通例どおり今回も告知なんですけど、したので、告知です。

来たるべき因習 - ねじれ双角錐群

今週末、11月22日に迫った文学フリマ東京で購入できるほか、昨今の社会情勢も鑑みまして、Boothでの通販も文フリからほどなく開始される予定です。各作品の内容について紹介していこうかとも考えたのですが、すでに冒頭部分を載せることによって十分に長くなってしまいましたから、賢明なみなさんは上記の公式ページのほか、笹帽子さんのブログなどで確認していただけましたらと。そして、ここでは自作について少しだけ言い訳をさせてください。

先ほどの冒頭部分をざっとでも見ていただければ分かるとおり、この2020年にブログで小説をヤっています。いくらなんでも時代錯誤じゃなかろうか。そのリアクションはごもっともで、自分もそのように思うところが大であります。ありますが、まずは自分の意識として、こういうのをいっぺんやっておかなけりゃ、「やってはみたいけど……」という感じでずるずるひきずってしまうんじゃないかというのが最初にありました。それを言えば前回の「箇条書き」だってそうです。箇条書きのほうが適していることなんていっぱいあるでしょ、考え詰めてみるとなんかやることができそうだな。……だったらやるわよね。もちろん、これがめっちゃ新しいと思っているわけではありません、それだったら、いやこんな人がもう、こんなふうにやっているよ、というのを教えてくれるとかでいい。そんなもん自分のほうがよくできるから、やるわ、とかだったら、そりゃもう、それがいちばん嬉しいことだ。ブログで小説をヤっているのだって同じで、今どきだったら不特定多数に向けて、なんぼか嘘も混じえて、話しかけるってことが、みんなにとってあたりまえのことになっているのだから、そういう形の喋りはもうちょっと開かれてくれよと、なんたって自分がそういうの好きだから、みんなもやってみてほしいと思っているわけで、それをこうして、ちょっと自分がやってみせれば、俺のほうがよくできらあ! って思ってもらえると考えて、こうしてやったんですってば。

Twitterで付き合いのある方とかならご存じかもしれませんが、自分は、ひとにブログを書いてくれ、俺は読んどるけえな、と、ちょくちょく言っています。そしてそのわりに、自分は、こうして告知でもなけりゃ書くこともない状態でもあります。でもね、やっぱりこうしてなにか書くことができる場があるというのは大事なんすよ。「大事」って……いきなりフワッとした話になったな。ブログでなくてもいいんですけど、なにか長い文章を残しておける場所があるというのはなんらか良い形でなにか良いことに寄与しているんじゃないかなといつも思っています。そんなもん読ませんなって? うーん、いや、それはたしかに正しいといえば正しいんですけど、そうだな、たしかにあなたにはそうかもしれない。んだけど、めちゃくちゃ長い目で見て、興味を持ってくれる人がいるという確信が自分にはある。あるので、いったん残しておかなけりゃならないと思うんですよ。なにかを思い付いてしまった人間がいる、ある程度拙くてもまあやっとる人間がいる、なんらかプラスアルファで資してたりそうでなかったりする人間がいることを、知ることができる、ようにしておかなければならない。べつに同時代の人間に読んでもらうためでなくてよくて、べつに未来人や宇宙人向けでいいんですよ。

もっと言えば、そうやってみんななんか考えとって、それ自体にめちゃくちゃ新奇性があるのかといえばそうでもないけれど、それでもやっぱり、各々がたどってきた道はちょっとずつでも違うものなのだから、それ自体にしかない考えの片鱗みたいなものは、どんなブログのどんな記事を読んでみたりしてもやっぱり見つかるんですけどね。マジで見つかる。これに関しては、自分はそこらへんの人よりもずっといっぱいブログを読んでいるというちょっとした自負があるから、自信を持って言えるんだ。おれだってだてにFeedlyに1500くらいフィードをつっこんでいるわけじゃないんだよ。さらにいえば受け取るほうだって同じで、同じものを読んで、おおこれはって思うところはぜんぜん違ったりするはずなんですよ。だから読んでみて、やってみてくれって思うんだよな。

……みたいなことを小説として書きました。