『ライザのアトリエ』における複数の「時間」

Twitterで考えながら書いていたこと(以下のスレッド)を整理したエントリです。

https://twitter.com/murashit/status/1404730372273762306

あらかじめことわっておくと:

  • アトリエシリーズはエリー以降やったことがない、つまりシリーズ他作品でどうなっているかは、ごめんなさい、知りません……
  • 当のアトリエシリーズを含め(以下で説明しているような特殊性をおびた)類例はほかにもあると考えられますが、おれ、そんなにゲームやってないので……

また、この話をもし本作全体の評価につなげるのであれば、最後のほうで言ってる「そのほかの要素とあいまって」の内実やガスト制作チームの意図あたりを詰めなければならないのですが、それはさすがに自分には荷が勝ちすぎる(し、その情熱もねえ!)。ということで、ほとんどこの2つ(以上)の「時間」についての整理のみです。

あと、ネタバレもある……かな。

TL;DR

『ライザのアトリエ』では、ゲームシステムとしての「昼夜のサイクル」という「時間」と、ストーリー全体を内包する「ひと夏の物語」という「時間」とが噛み合わないさまがそのままプレイヤーの前に露呈している。

こうした複数の「時間」の噛み合わなさは多くの(ストーリー性のある)ビデオゲームにおいて見られるが、一般的にはそれをプレイヤーに意識させないような「配慮」がなされている。これに対し『ライザのアトリエ』ではその「配慮」がほとんど行なわれておらず、結果としてプレイヤーが両方の「時間」をシリアスに、かつ同時に受け容れなければならなくなった。

ところが、それが本作が意図しているであろう「田舎の島っぽさ」「ひと夏の濃密な体験」「小規模だけど大冒険」といったテーマをより強く感じさせることにもつながっている。

『ライザのアトリエ』とは

『ライザのアトリエ』は、ごく小さな田舎の島(ラーゼンボーデン村)に暮らす「なんてことない普通の少女」ライザが、親友やライバル、新たに出会った仲間たちとともに冒険を通じて成長し、ついには世界の危機を未然に(かつ密かに)防ぐ……といったストーリーのゲームです。お話の始まりからエンディングまでの期間はおおむね「ひと夏」、すなわち数週間から1〜2ヶ月程度(おそらく100日には満たないであろう期間)1と推測され、移動範囲もその「田舎の島」から徒歩で行ける程度に収まる、ある意味で小じんまりした話といってよいでしょう。

ストーリーはそれでよいとして、ゲームシステムについてはどうでしょうか。以降の議論に関係のない錬金術やバトルのシステムについては措くとして、「時間」に関係するものとしては……探索や調合を行ううちにゲーム内時間が経過し、それにともなって昼夜のサイクルが繰り返される一方で、ゲーム全体での時間制限などはなく「日付」も表示されない、という形をとっています。深夜になると街から人がいなくなったり、雨の日や夜には敵が強くなったりと、(本作はオープンワールドではないものの)オープンワールド系のゲームでは珍しくないシステムですね。ベッドで眠って時間を飛ばすこともできるんだ。

ビデオゲームは時間をごまかす

ここまでの説明ですでに「あれ?」と思った方もいらっしゃるでしょうが、そうです、ストーリー全体は「ひと夏」の話としてまとめられている一方で、ゲームシステムとしては何百日とその「ひと夏」を続けることができます。逆に言えば、システムのうえで何百日が経とうとも、それらはすべて「ひと夏」に内包されてしまうのです。

とはいうものの、ビデオゲームにおいてこれはべつだん珍しいことではありません。たとえば昨年いちのビッグタイトルであった『Cyberpunk 2077』だって、「病気」(ボカした言い方)の進行によるタイムリミットがあるはずなのに、それをほっといてナイトシティで好きなだけ過ごしていられる。『Final Fantasy Tactics』だって歴史もののはずなのに、ゲーム中のマップ移動で日数が経過するものだから、やろうと思えばアグリアスさんを100年以上生きながらえさせることだってできる。こうした例は枚挙にいとまがありません。ビデオゲームというのはもともと「そういうもの」であって、「おいおいサイバーパンクライフ満喫してる場合じゃねえだろwww」みたいなのは(たいていの場合)無粋なツッコミなのです2。だってさ、ほんとに「病気」にビクビクしまくるよりも、サイバーパンクライフを満喫できたほうが楽しいに決まってるじゃないですか。そしてぼくたちは、そうやって飽きるまで満喫したあとに、それでも物語としての結末にしんみりしてしまいもするのです。

『ライザのアトリエ』における4つの「時間」

というわけで「よくあることならそれでいいじゃない」で話は終わってしまうように思えるかもしれませんが、ここからが本題です。

それにあたって、まずは上述した「ストーリー全体の期間」や「昼夜のサイクル」を含めて、本作における「時間」を次のとおり整理しておくことにします3。なお、箇条書きの2階層目にまだ詰めきれていない雑なアイデアも含まれていますが、このへんは以降の話には直接関係してこない、はずです。

  1. 現実の時間:プレイヤーにとっての現実の「時間」
    • 「今日は30分ほどライザやろうかな!」とかいうときの「30分」はこれ。ゲーム内の(虚構の)時間ではないのですが、以降のベースとなる部分なので最初に置いておきます
  2. 動作の連続性にもとづく時間:キャラクターのアクションから認識される「時間」
    • たとえば、スティックを倒してライザに「歩く」という動作させたとき、まるで早送りしているみたいに見えたりスローモーションに見えたりしたら違和感を覚えますよね。本作のように「3Dモデルを動かす」ようなゲームにおいて、プレイヤーはおおむね「画面のなかでも現実世界と同じはやさで時間が経過している」と素朴に認識しているはずです。このときの「時間」は(ちょっと感覚的な物言いになってしまうのですが)画面内での「動作の連続性」に支えられているように思えます。(もっと言えば、2Dで離散的に移動するゲームにおいて、「右ボタンを押せば右に1マス移動する」から感じる「時間」もおおむねこれにあたるはずです)
    • そして、当然ながらこれは虚構です。動作が連続して見えるように、かつそのスピードが1と同期するように、うまく作られているからにすぎません。ここでは「わたしが右手を挙げる動作をあなたが見ているときに、時間の経過を感じる」ことをシミュレートしているのです
    • この構図が意図せず崩れるケースとして、たとえばなんらかの理由で処理落ちが発生してしまったような状態を考えてみるとわかりやすいかもしれません。また、たまに見かける「倍速モード」や、アクションゲームでのバレットタイム演出みたいなのもこの1と2の同期のズレにあたりそうです
  3. 単位が繰り返されるものとしての時間:ゲーム中の昼夜の繰り返しで認識される「時間」
    • これは先述したとおりです。(相対論的な話は置いといて、日常的な直感のうえでは)時間は一定のスピードで「流れて」いるとわれわれは認識しています(2の時間の感じ方も、この直観と因果あたりがもとになっているはず)。そして、それを「単位」に分割することで、「経過した時間」を測っています。単位があるからこそ、ある程度の客観性をもって「これこれの期間が過ぎた」と考えたり、コミュニケートできるんですよね
    • 一定のスピードで流れているということは、「単位が繰り返されていること」と言い換えてもよいでしょう。「日」や「年」といった単位は、まさにそういった繰り返しのひとつひとつを数えているわけですし
    • これは本作のように昼夜の繰り返しとして表現されたり、ゲーム内の「時計」をとおして表現されたりします。そして、そのサイクルのなかで2の意味での時間経過が積み重なることにより、ゲーム内環境の不可逆な変化が引き起こされることになります。「サッカーゲームの一試合はほんとうの90分ではない」というのはこれと1/2のズレ(1と2は同期しているがそれらと3が同期していない)として考えられるかもしれません
  4. 物語としての時間:ストーリーのなかで経過する、「ひと夏」と認識される「時間」
    • これも先述したとおりです(われわれが過去を思い出すときなどにはこれに近いことをしているような気もするしそうでもない気もする)。多くのゲームでは、これはメインイベントの連なり(とその描写のなかでのゲーム内環境の変化)によって表現されることになるでしょう
    • もちろん、こちらもある意味では日常的な感覚にもとづくものではあります。なんの説明もなしにそれとは異なる時間の進み方などなどを想定するのは「ふつう」ではないでしょう。「この世界では夏が5,000日あるよ」とか「商談をまとめる際の話の進みがめちゃくちゃゆっくりなんよ」とか「この世界の人間は200年生きるんよ」(実際リラさんは長命種なんですけど)とかわざわざ考えることはしません。これはフィクションを理解する際の一般的な態度ではあるはずです

めっちゃ長くなってるな……。ともかく、今回問題にしたいのは、このうち3と4の「噛み合っていなさ」ということになります。

調停されない「時間」、その効果

この3と4の「噛み合っていなさ」については、繰り返しになりますが、ビデオゲームにおいてべつだん珍しいことではありません。われわれはふだん、「それはそういうものだ」と気にせずにプレイしています。というのも、あたりまえといえばあたりまえなのですが、たいていは「それはそういうものだ」と思えるように作られているからです。

たとえば……再び『Cyberpunk 2077』を例に挙げてみると、たしかに「病気」の進行による「タイムリミット」はあるとされているのですが、そのリミットが「何月何日である」あるいは「(おおよそ)何日後である」とは明言されないのですよね。メインクエストの進行によってナイトシティは変化していくものの、結末に至っても、「じゃあ具体的に、どれだけの時間が経ったのか」については、実はかなりボヤけたままです。たしかに、よくよく考えてみたらおかしいんですよ。おかしいんですが、一方の「時間」にのめりこんでいるうちにはもう一方の「時間」のことを忘れられるような、最低限の配慮はされているように見える。であるからこそ、「時間」のことなど気にせず、頭を切り替えつつプレイできているのです。

一方われらが『ライザのアトリエ』についてはどうでしょうか。本作の場合、そのあたりを配慮しているようにはみえないし、もっと言えば、3と4を両方同時に受け容れさせようとしているのではとさえ思えるんですよね。いくつか挙げてみると:

  • モブキャラたちはおおむね3の昼夜のサイクルにのっとって生活しており、それがサブクエストにも影響してくる(たとえば3の意味で「1日」が経たなければ、続きのクエストが発生しなかったりする)。じゃあモブキャラが暮らすラーゼンボーデン村の表現において3が支配的なのかといえばそうではなくて、このように昼夜があるからこそ、4とつながる「変わらない田舎の島の夏」の雰囲気が強められてもいる
  • ライザの錬金術師としての成長の速さは、(現実世界の常識で考えれば)4の「ひと夏」ではちょっと考えられないくらいものすごいスピードである。ただ、3の意味で何百日も経過してるのであれば違和感はない(いつもの?アトリエだ)。しかしそれでも、その成長があったからこそ4という限られた時間のなかでハッピーエンドに辿りつけたこともたしかである。子供時代の夏の記憶といえば「ひと夏だけなのにものすごい密度があった」ように感じられるもので、それがノスタルジーをかきたてもするものだが、ここでは文字どおり「ものすごい日数」が経っている。結果としてはその夏の「濃密さ」の演出にもなっている
  • ピンチに陥ったキャラクターを「急いで」助けに行くメインクエスト(つまり4におけるイベント)があるが、その準備のための素材集めや錬成に3の意味での何日をかけてもまったく問題ない。そのうえ、助けるための目的地でさえ、普通に歩いていくには3の意味で何日もかかる距離だったりする。けっきょく(かかる「時間」で測るという意味で)「どのくらいの距離か」がわからないのだけれど、それによって「小さな島」のなかで「大きな冒険ができている」という気にさせられる

たぶんこの、「田舎の島っぽさ」「ひと夏の濃密な体験」「小規模だけど大冒険」って、いずれも本作の意図するところなんですよ。実際にそれが感じられる良いゲームなんです。そして、もしこれらの「噛み合わなさ」がなかったとしたら、もしほかのゲームと同じくらいの「配慮」があったとしたら、おそらくここまで強く「田舎の島っぽさ」「ひと夏の濃密な体験」「小規模だけど大冒険」を感じられなかったんじゃないかと思ってしまうんですよね。

もちろんこの「噛み合わなさ」があればいつでも効果をあげられるってものではないでしょう。そのほかのさまざまな要素とあいまって、そのように感じられているのだと思います。それに、ほんとうに「3と4を両方同時に受け容れさせようとしている」、つまり製作者たちがはじめからそのように意図していたのだとも思っていません(結果的にそうなっていたから、「配慮」せずにおいた、くらいはある……かもしれない)。

ただ、いずれにせよ、ぼくはこの噛み合わなさがゴロっとしているようすに、なんだか感心してしまったのでした。

2021/7/8追記(参考文献について)

すこしだけ日本語を修正。あと、(このエントリのTwitterでの告知につなげたスレッドでもちょっと触れているのですが)『ビデオゲームの美学』(ビデ美)の時間について触れられている章がわりと参考になりそうだったことを思い出したので、ここにも書いておきます。

まず、このあたりの話に興味がある方はなにより『ビデオゲームの美学』を読むことをおすすめします。今回のエントリで用いた分類とはまた別の視点からの整理がなされていますし、(学術書なので当然ですが)きちんとした議論がなされています。っていうかべつに時間の話だけでなくゲーム全般についてふつうにおもしろいおすすめの本です。

そして、ここで紹介されていた文献のうち Zagal, José P., and Michael Mateas. 2010. “Time in Video Games: A Survey and Analysis” についてはタダで読めるっぽいです。しばらく放っていたのですがさっきやっと読んだので追記しなきゃと思ったのでした。ここで行われているTime Frameの分類もやはり、今回の分類と(多少援用できるとはいえ)完全には重ならないのですが、「噛み合わなさ」についていえば本論文で触れられているTime Anomalyの一類型として考えることができそうです。

繰り返しますが、いずれもちゃんとした論文ですから、今回のエントリみたいなボヤっとした話にはなっていません。というか、比べて読み返してみてこのエントリの話じゃまだまだぜんぜん整理が足りていないと感じました。もちろん、こういった話をするトレーニングを受けているわけではないのであたりまえといえばあたりまえなのですが。

だったら先にチェックしとけよという話ではあるのですが(とくにビデ美についてはけっこう感銘を受けていた本だったはずでしょ)、こうやってブログにまとめてみないとしっかりした問題意識をもって読む(読み直す)こともなかなかなかっただろうなというのも正直なところ。あとは……こういった分析美学っぽい話題が実際のゲームプレイの感想にも活かせるんだなというのも収穫のひとつかなと個人的には思っています。

ということで、みんなも読もう『ビデオゲームの美学』!


  1. ストーリーの冒頭から末尾までは、おおむねクラウディアとの出会いから別れまで、すなわち「バレンツ親子がラーゼンボーデン村にやってきて、商談をまとめるまで」に対応しており、ストーリーで起こるできごとの「常識的な密度」を考慮すれば、これに何ヶ月もかかっているということは考えづらい。また、ゲーム内では「暑い乾季のあとに雨季がくる」程度しか(おそらく)明言されていなかったものの、「寒い(ないしは「それほど暑くはない」)時期」→「暑い時期」→「雨季」……といたなんらかのサイクルがあるっぽい雰囲気ではあります。それがわれわれにとっての1年=365日程度の期間なのかまではわかりませんが……。

  2. もちろんそのあたりをきっちりやっている……というか、ゲームのなかに取り入れているものもたくさんあります。というか、それこそ「日数マネジメントゲーム」なアトリエ過去作がそれですよね。

  3. 冒頭に挙げたツイート群だと3つに整理していましたが、よくよく考えてみるともう1個あるなと思ったのでここではそうしました。また、いちおう「本作における」と限定しておくことにします。