EUREKA

こんなふうに言い訳から入るのはまったく褒められたものではありませんが、やっぱり一見したくらいで飲み込むのは困難で、実のあることを書ける気がしない、けれど現時点でどう感じたのかをなんらか書いておきたく思ったので、そうさせてください。書くのであればいついかなるときだって言い訳なんてする必要がないことも同時にわかっている。

以下ネタバレがあります、って書いたほうがいいのかな。ネタバレがあります。


というのが、なんだろう、「自分はこれが見たかったんだ」というのと、「ほんとうにこれでよかったのか」というのがないまぜになった気持ちなんですよ。「これがエウレカエウレカセブンとそれに連なる作品群)だ!」と「エウレカエウレカセブンとそれに連なる作品群)になっちまった」というか。いや、まちがいなく、ぼく個人としては、これを見られてよかったんですよ。それほど忠実なファンとは言えないものの、ここまでシリーズをを追ってきてよかったと感じた。

というのがそもそも、今回の三部作って、(まさにその点においてヌけているところはありつつも、ひとまず基本ラインとしては、サーストンではない、喪失された)レントンビームスを描くハイエボ1から立ち上がったシリーズであり、それがあったからこそ、ANEMONEだって(最後のレントンさんの登場は措くとして、そこを除けば)「レントンのいないエウレカセブン」として続くことができた、そして傑作たりえたと思っているんです。「らしさ」からいかに逃れようとしているのか、でもそこに残ってしまう「らしさ」がある……みたいなことを感じてしまうのが醍醐味なところはまちがいなくある。「らしさ」っていう意味ではANEMONEだって、「レントンのいない」が付いたところでそれはエウレカセブンだ、徹頭徹尾借り物であることを明らかにしているという点だってそうなんだ。ただ、(最後のレントンさんの登場は措くとして、そこを除けば)そういう「らしさ」によってこそ「らしくなさ」が成り立っていたんじゃないかと、ANEMONEはその力学が(もしかしてたまたまだったりしないかとも思うんだけど)綱渡り的に均衡して成り立っていたのではと思ったんです。

そこで今回第三作のEUREKAはそれを引き継いでどうすんのとなったとき、エウレカとアイリスとの逃避行からデューイを挫くところまではANEMONEのときと同じ意味でほとんどパーフェクトだったんですよね。それについてはおそらく、とくだん多言を弄す必要もないはず。あいかわらず懲りずにエウレカセブンでありつつ、だけどエウレカセブンでなくなろうともしていて……ただ、それでも、ついには出てこなきゃならないわけですよ、レントンさんが。そのために繰り返されてきたんだから。すべての決着がついたかに見えたにもかかわらず。最後のピースとして出てこないわけにはいかない。そんなところまで来てしまっている。だから、軌道エレベーターが落ちる(真顔でこれやるの?)、ホランドの特攻がある(真顔でこれやるの?)、レントンが現れる、そしてすべてが許される。そうだ、これぞエウレカセブンだ! 正直まさにその部分にこそ心が躍ったところは否めません。そうだ、これがエウレカセブンなんだ……が、それでよかったのか?

よかったような気もするんですよね。きっと、そうするしかなかったんじゃないか。いや、そうしてくれて、なんだろう「ありがとう……」みたいな気持ちさえある。レントンが悪いわけじゃないんですよ、当たり前なんだけど。エウレカ、よかったね、と素直に思うし、アイリスの最後の言葉だってそう。そこまで含めてすごいものを見たな……と思う。でも、わたしは、それを見てこう書いているわたしは、ほんとにこれでいいんですか?

わたしは、ほんとにこれでいいんですか? もしかして、なにか勘違いしていませんか?