SS将校のアームチェア - ダニエル・リー

このブログは、自分がなにか本を読んでおもしろいなと思ったとき、なぜおもしろかったかについて考えるブログです。で、今回はこれ。

SS将校のアームチェア

以下はみすず書房のサイトより。

古いアームチェアを修理に出したところ、中から書類の束が見つかった。鉤十字の印があり、一見してナチの文書とわかるものだった。誰が、何のために隠したのか。謎を託された著者は、その行方を追う。

書類の持主は、ローベルト・グリージンガー。SS(親衛隊)将校だった。プラハの椅子職人、シュトゥットガルトに住む甥、二人の娘、遺された日記、各国の公文書館を探るうちに、その人生が徐々に明らかになっていく。

娘たちは父親がSS将校であったことを知らなかった。グリージンガーはSSに所属しつつ、法務官として仕事をしていた。彼のように一見普通の市民として生活していたSSは多くいたが、戦後の裁判の対象ではなかったため、その実態は定かではない。

第三帝国の一部として淡々と職務を果たした「普通のナチ」と、その家族。歴史から忘れられたナチの足跡が浮かび上がる。

冒頭にも書いたとおり、おもしろかったんですよね。なんでか。暫定的な答えとしては、本書が「ひょんなきっかけから泥沼の探索行にはまりこむ」という類型だったからではなかろうか。以前ブログにも書いたとおり、『光をかかぐる人々』はたしかにそういった味のある記述でした。直近に読んでいた『ドードーをめぐる堂々めぐり』もそう1。自分がその類型をおもしろく感じ、これらはいずれもその類型にあてはまるのだと。

と、これで答えとしてもいいわけですが、せっかくなのでもうちょっと掘り下げてみます(そういうブログなので)。「ひょんなきっかけから泥沼の探索行にはまりこむ」というのは、いったいどういうお話なのか。ざっと箇条書きにしてみると……。

  • 「ひょんなこと」から最初の謎が与えられる。この謎じたい興味深く、それにまつわる話をちょっと掘ってみようと著者は考える
  • それを解くための手立ては著者に与えられているように見える。だからこそ探索を開始してしまう。予想される探索はめちゃくちゃに難しそうというほどではなく、多くの場合「これまでみすごされてきたものを、その疑問という視点のもとで掘り返す」といった程度のものではある。ただし、実際にそのための直接的な情報源が残っているかは不明である
  • そうして「最初の謎」について調べているうちに、その背後にあるもっと複雑な事情が、著者の琴線に触れてしまう。有り体にいえば「実存的」な問いがぼやぼやと現れだす。これは必然といえば必然で、「最初の謎」について、放っておいてもいいところをわざわざ調べようとしたのは、その予感があったからこそではないか。「自分に調べられる」と思えるのは、自分がなにかしら関わってきたものと薄くでもつながりがあったから、ともいえる
  • 「最初の謎」の答えにはなかなか辿りつかない。みすごされてきたことにはそれなりに理由があり、だからこそ情報が残っていないことがわかってくる。けれど一方で、周辺の情報はどんどん頭のなかに入ってくる。当初の疑問に答えるためだった探索行が、「実存的」な問いに対する探索行、つまりある種の自分探しの様相を呈してくる。ただ、実際のところそれについては多くの場合文中では陽には触れられない
  • そして、その先がまだある。ついには「自分探し」でさえ二次的になってきてしまうのだ。当初の謎の背後にある実存的問い……の、さらに後ろにある「確定されえない事実」みたいなものに突き動かされるようになる
  • だから、結局当初の謎も、自分探しも、最後まで解決されなくてよい(というか、多くの場合、解決されない)。ここに至り、そんなものはもはやどうでもいいのかもしれない。結局のところ「なにか大きなもののまわりを、空白の輪郭を描くように、めぐっていた」という形で、結末がついたのだかついていないのだか、ぼんやりと、投げ出されたようにして、終わる

特徴付けとしてはおおまかにこんな感じのように思います。「最初の疑問」という一段目のブースター、「自分探し」という二段目のブースターを経て、その先のあてどのない(適切な形で問えない)探求それ自体に心を奪われてしまう……と言ってもいいかもしれない(もちろん完全にこれにあてはまるものばかりかというと微妙ではあって、多少デフォルメしたものだと、差っ引いて考えてもらったほうがいいかもしれませんが)。

たとえば、「当初の疑問」の答えを求め、それが得て終えられるのであれば、ノンフィクションとしてパキっとまとまるにちがいないんですよね。あるいは、いわゆる巻き込まれ型で、かつ実存も関連して世界の「真実」に気付く……みたいなのは、ゲームとかでよくありそうです(FF7とかが思い浮かぶ)。でもこの類型はそういうんじゃない。そして、これってちょっとおかしいんですよね。なにか、すでに知らないような経験(最初の疑問)に晒されて、その疑問を解消しよう、安定した信念を得ようと考えることは理にかなっている。最初の疑問に関していえば、とりあえず答えが出るはず(そして出るための手立てがあるはず)だからこそ探求を開始したのだから。なんらかの形でいつか確定できるという想定は、探求において置かざるをえない前提のはずなのだから2

でも、今回の類型に限っていえば、最終的にはそうならない。ミクロな仮説→探索→解決というループはあっても、それが大きなものに向かっていかない。悪しざまに言ってしまえば、「惰性」となっている、自己目的化しているとさえ表現できてしまうかもしれません。情報の欠けたなかで空白の輪郭を描くというのは、そうならざるをえないものではあるのですが……。

で、おそらく、そこにおもしろみがあるのではないかと思いました。

……思ったものの、これだけじゃあたぶん掘り下げ足りないですよね。でも、もうちょっと温めつつゆるゆる考えてみようと考えています。せっかくなのでいろいろ、似たようなものを読んでみようと3

なんで、今日のところはそんな感じで。

追記(2022-02-27)

めちゃくちゃありがたい&勉強になる反応をいただきました。みんなも読もう! anatataki.hatenablog.com


  1. ツイートもした。そして、このツイートで触れているとおり、ここで書いてあるうちのいくらかは、この時点でなんとなく感じていた。

  2. 今回の話にそのままあてはめられるものではまったくないのですが、おおざっぱな発想のもととして、これも最近読んだ『プラグマティズムの歩き方』のC. S. パースの考えから来ているような気がしています。端的にはこのへんとか:Totus Teres atque Rotundus: パース「信念の固定化」について

  3. ちょっとここでもうすこし。もともと『SS将校のアームチェア』を読もうと思ったきっかけはid:washuutakumiさんのこの記事で、それに関係して同じくこちらの丸谷「横しぐれ」とか沢木「おばあさんが死んだ」への言及を辿り、同意しつつも、もしかして僕がここで言っていることはそこともズレているような気がする、と思ったので、というのもあります。