いつもは読書メモをとっても外には出さないんですが、ずっと出さないでいるとおかしな誤解をしていても誰にも指摘されないままずんずん進んでいってしまいそうだし、今回はせっかく丁寧に読んでいるということで、ひとまず出すだけ出してみる形で(今後もこのペースと分量でやったら力尽きそうなので、もうちょっと緩めたくはある……)。おかしな点についてご指摘いただければめちゃくちゃうれしいです。手のつけようのない誤解をしているということであれば……手がつけられねえと言ってくれ!
序章
本書の探究の対象として「表象体 representations」というカテゴリを定める。これは「虚構 fiction」と言い換えてもよい。表象体には、芸術ではないもの、たとえばある種のおもちゃなども含まれる。芸術についていえば、おおむね「表象芸術」や「虚構の作品」と呼べる対象、したがって小説や戯曲などはもちろん、ある種の絵画や音楽も明かに含む。抽象絵画や純粋器楽曲みたいなものも(少なくともウォルトンにとっては)このカテゴリに入るようだ(マレーヴィチの絵を例に第1章第8節で述べられる ……が、ここの議論はやや受け入れがたい印象はある)。一般に使われる「虚構」よりもかなり広い範疇という印象。
すべての表象体が共通に備えているのは、「ごっこ遊びにおけるように、事実でないと分かってはいるが進んで受け入れることにする」という心的態度、すなわちメイクビリーブ make-believeにかかわる役割である。
主要な問いは二つ。表象体はどんな機能を、なぜそのように果たしおおせているのかという(美学的な)問い。そして、虚構の存在論や意味論についての問い。これらは別々に論じられてきたが密接に結びついているはず。本書ではこの両方を扱うし、実際メイクビリーブという心的態度はこの両方の問題にとって中心にある(話の流れとしてはおおむね美学的な問題を先行させ、最後の第4部で存在論や意味論について述べる、ということになるようだ)。
メイクビリーブは芸術、美的経験に特有の要素ではなく、日常生活のなかでありふれている。(虚構をあつかう)芸術作品は、表象体のあくまで一事例でしかない。
第1章 表象体とごっこ遊び
私は、芸術作品をめぐる活動を、本気でごっこ遊びと見なすことを提唱する。そして、表象作品はそのごっこ遊びの中で小道具となると論ずるつもりである。
これたぶん、文字通りの「ごっこ遊び」と解するよりは、文字通りのごっこ遊びを典型例として含む「ごっこ遊び的なゲーム」の範疇に含まれる、程度に解すのがいいんだろうな。
※以下、実際の本書の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。
想像
ごっこ遊びは「小道具 propsをともなった想像力の働き」であるとして、(小道具とはなにかについて説明する前に)ひとまず「想像する」とはどんな活動かについて。
想像活動が真であることや信じることから独立であるとしたうえで、想像という行為にもいろいろあるという話。たとえば以下:
- 自然に起こる想像もあれば、熟慮にもとづく想像もある
- 明示的に意識にのぼっている想像もあれば、そうでない想像もある
- 単独で行う想像もあれば、社会的に行われる想像もある
とはいえ、想像活動をきっちり特徴づけるのは意外に難しい。たとえば「思念を心に抱くこと」という定義が思いつくかもしれないが、実際にはそれだけでない、なんらかの活動であるはず。ただ、本書の探究において(想像という概念そのものは必要だし使用するが)そこに踏み込む必要はないので、しない。
想像における現実の事物
続いて「小道具」の話に移る。(「小道具」に限らない)現実の事物が想像体験の中で果たしている役割として以下が挙げられる。
- 想像活動を促す
- 「クマに似た切り株」が「クマが自分の行く手を遮っている」という想像を促す、みたいなやつ
- 一般的に、事物なしに想像するときに比べ、事物の助けがあったほうがより「いい感じ(詳細は略)」に想像できるようになる
- 想像活動のオブジェクトとなる
- 端的にまとめるのがちょっと難しいが……子供が雪でお城を作るとき、「現実にそこにある雪に彫刻したものそれ自体がそんなお城だと想像する」ようなとき、その雪のお城は想像活動のオブジェクトである
- 事物が、想像を促すための刺激となっても、オブジェクトとして扱われないことはある(映画の映像と演劇の俳優の違いなど/ただし、オブジェクトは必ずしも想像の際に目前にある必要はない)
- 逆に、事物が想像活動のオブジェクトとして扱われたとしても、必ず想像を促すというわけではない(し、必ず小道具となるわけでもない)
- 想像する者自身も重要なオブジェクトとして扱われる(自分についての想像 self-imagining /自己想像 imagining de se)
- 虚構的真理を生み出す
- この3つめの役割が「小道具」を定義する特徴
自己想像に関連して、(「意図すること」と同様)「想像することは、ある意味において本質的に自己指示的」「すべての想像活動は、自分についての想像の一種を含んでいる」と述べられる。自己想像とは、典型的には「自分が何かをしているところを想像する」ような一人称的な(内側からの)想像。典型的でない例とか自己想像がどのように特殊かについても述べられているけれど、けっこう混みいってて正直読み取れてないのでいったん措いておく。
このへんでちょっとおもしろかったのは、「自分が自分自身以外の誰かであるところを想像する」ケースに関連して、「いったい人は形而上学的に不可能なことを想像できるのだろうか。おそらくできるのだ。」のところ。ですよね!……とはいえ一方で、後段で虚構的真理に関連して述べられているように、想像活動は生成の原理による制約を受けることにも注意したい。できるけど、取り決め上そうしてはならない、みたいな感じだろうか。また、さらにあとの虚構世界の話にも関連している。
小道具と虚構的真理
「ある命題が虚構的である」というのは、それが「ある虚構世界において真である」ということ。このへんは一般的な用法と同じと考えてよさそう。
で、虚構的であることと想像されることはおおむね重なっているけれど、同じではない。たとえば切り株をクマに見立てて遊んでいるとき、茂みに隠れて誰も気づいていない切り株があった(ので、誰もそれに促されて/それに対してクマを想像していない)としても、それ(切り株)がクマであることが虚構的には成り立っているといえる。このように、その本質または実在によって虚構的真理を生み出す物体を、本書では「小道具」と呼ぶ。風景画や小説などの表象的な芸術作品もやはり小道具。
小道具は想像されるか否かとは独立に虚構的真理を生み出すが、とはいえ想像する人間なしにそれ自体で虚構的真理を生み出せるわけではない。小道具は(必ずしも明示的・意識的ではない)慣習や理解、合意といった社会的設定、すなわち「生成の原理 a principle of generation」のもとでのみ機能する。「虚構的真理は、生成の原理とともに小道具が作用することによって確立される」。これによって、大雑把には「Pが虚構として成り立つならば、仮にPを想像するかPの否定を想像するか選ぶように強いられた場合、人はPを想像するべきである」といえる。
なおウォルトンは、このように虚構性と想像の関係が真理と信念の関係に似ているとしても、虚構的であることを真理の一種として考えるべきではない(虚構性と真理性はあくまで独立)としている(という意味で「虚構的真理」という言い方はややこしいよな……)。これについて、たとえば「可能世界で真である」といった形で考えるべきではないことのいくつかの例証が示されるんだけど、これが説得的なものなのかどうかはやや微妙な気がする。ごく素朴な「可能世界」的な理解には反論できているとは思うんだけど。後段の虚構世界についての記述をみると、それで十分とは言えるか。
ともあれ、小道具が虚構的真理を生み出すのは「命題を想像するよう命じること」による(ただし、想像は命題的なものに限らないことにも注意)。また、夢、そしてその夢についての報告にみられるるように、すべての虚構世界が小道具によって生み出されるわけではない。
2022/04/26追記:大事なことなのにすっかり書き忘れてた。本書のなかでは「想像せよ」と命じられた命題と虚構的に成り立っている命題とが同値ということになってるんだけど、清塚『フィクションの哲学』第7章とかKendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめにもあるように、のちにウォルトン自身によって修正されている(想像せよと命じられるが虚構的に成り立っていない命題がある)。
表象体
小道具はみな想像を命じ虚構的真理を生み出すが、小道具のすべてが表象体なわけではない(というより、ウォルトンは小道具の一部を表象体から除外する)。たとえばクマに見立てられる切り株のように、「その場限り」の小道具は、表象体ではない(したがって、表象体とされるもののようにその機能について考察されたりすることもない)。人形や表象的な芸術作品のように、小道具となることがその機能であるものが表象体である(「小道具にするために作られた」とは限らないことに注意。たとえば星座も表象体に含める)。なお、この機能は社会に相対的である。ある社会では、切り株も表象体といえるかもしれない。
あと、このへんで「公認された遊び authorized games」の話も出てくる。小道具として意図された機能、くらいに捉えればよいか。また、マレーヴィチの『絶対主義者の絵画』もまた表象体であることが述べられる(が、先にも書いたけど、ここはかなりとんがったこと言ってると思う……)。
虚構世界
まずもって素朴な虚構世界の捉え方、とくに可能世界意味論を結びつけたそれに警鐘を鳴らす(これが起こしうる問題のなかには、先述の虚構性と真理性の混同も含まれる)。とはいえ、実際のところ「虚構世界」という素朴な概念が、ふだん虚構について考える際に中心的な役割を果たしていることも否みがたい。ここまでですでに虚構性は(「ある虚構世界において真」という「虚構世界」を用いた表現よりも負荷の低い)「想像せよ」という命令と関係づけられておりもはやそれでよいのだが、それはそれとして虚構世界ってどんなものかについてある程度明らかにしておく必要はあるだろう、として、虚構世界についていくらか考察される。
まずは、「スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を鑑賞しているリチャード」という状況を想定する。このとき、『グランド・ジャット島』そのものの世界と、リチャードが絵画を見て行なっているごっこ遊びの世界とがある(これらは別々の世界である)。そう考えると、別々の鑑賞者のごっこ遊びの世界のうち、どれが『グランド・ジャット島』の世界なのかはどうやって同定できるというのか。できないなら、『グランド・ジャット島』の世界を、ごっこ遊びの世界たちの上位にあるとみなさなければならなくなる。また、『グランド・ジャット島』という作品そのもののなかには鑑賞者であるリチャードは含まれないが、リチャードのごっこ遊びのなかにはリチャードが含まれる(二人連れが公園を散歩するのをリチャードが見ているということが、虚構として成り立つため)。そう考えるとやはりこれらは別個の世界である。
ところで、慣習によらないめちゃくちゃな解釈についてはどうか。『グランド・ジャット島』から「カバが転げ回っている」と想像するような(そのような命題が虚構的には成り立つような)生成の原理を採用することもできるが、これは公認されない unauthorized、間違った作品の使い方である。さて、先ほどのリチャードの想像は、その意味で公認の遊びである(『グランド・ジャット島』-虚構的である)といえる。しかし、公認された遊びでありながら、(ほかの鑑賞者による想像のように?)リチャードに関する命題が虚構として成り立たない遊びも存在する。リチャードの鑑賞における虚構的真理はその絵だけから生み出されているわけではないということだ。
そう考えると、「『グランド・ジャット島』において虚構として成り立つ事柄は、その絵が小道具として用いられることがその絵の機能であるようないかなるごっこ遊びにおいても、虚構として成り立つ」事柄であることが示唆される。その絵だけによって生み出されているのはそのような虚構だけだからだ。……といったあたりから、表象体ではない小道具(切り株とか)、人形のような小道具、風景画のような小道具などで、「固有の虚構世界」を持つかどうか、持つとしたらどのように持つかが違う、といった話につながる。
正直ここらへんの話はあんまり納得がいっていないところがある。作品そのものの「虚構世界」(虚構的真理を生み出すのが作品そのものであるというのは認めたとしても、そのうえでなんかこう……違和感がある……)とそれを観賞する際の「虚構世界」をいっしょくたにするのはそもそもなんかおかしくない? 自分がどこか誤解しているんだろうか。
2022/04/19追記:上記の点については第6章において多少詳しく述べられているのでそちらも参照のこと。
ともあれ、「けっきょく虚構世界とはどういうものなのか」という問いに戻る。本書において虚構世界という概念が本質的に不要であることもあるのか、実際に述べられるのは「虚構世界は何でないのか」ということ(そのため、もし可能世界的な枠組みで理解するのならばこのあたりをクリアする必要があるよね、という話として読めるかもしれない。実際、ときに矛盾許容的でありえたり、あるいは不可能世界とかも含んだりといったことが必要になりそう的なことが述べられている)。最終的には、よくある可能世界的な考えの延長にあるような枠組みで虚構世界を理解できること自体は否定していない(実際、ここで挙げられているような問題は『存在しないものに向かって』における世界意味論とかだとクリアできそうに見える)けれど、そもそもそういう虚構世界とかいうものを考える必要はない(「指示対象の存在を前提してはいない」)、ということになる。
フィクションの効能
ごっこ遊び、とくに小道具を使ったそれの効能みたいなものについて最後にごく簡単に触れられる。客観性、統御、共同参加の可能性、自然な自発性、現実世界での気遣いからの解放……。
ということで第1章は以上。最後に本章のまとめをそのまま引いておく。
表象体とは、ごっこ遊びの小道具として働くという社会的な機能を備えた物体である。表象体は、いろいろな想像活動を促したり、ときには想像のオブジェクトとなったりもする。小道具とは、条件付きの生成の原理の力によって、想像活動を命令する何らかのものである。想像するように命じられる命題は、虚構的である〔虚構として成り立つ〕。ある命題が虚構として成り立つという事実は、虚構的真理である。虚構世界は、虚構的真理の集合と結びつけられている。虚構的なものは、ある与えられた世界において虚構的である——例えば、ごっこ遊びの世界や表象的な芸術作品の世界において虚構的である。