『フィクションとは何か』第3章のメモ

第3章 表象の対象

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

※今回も実際の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。また、本章はこれまでに増してまとめ方に自信がないです……。

表象の対象

第1章で出てきた「想像のオブジェクト」と本章で出てくる「表象の対象」が同じなのか異なるのかについては「想像の対象」と「表象の対象」再訪 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめあたりも参照。

ある物についての想像を命令することがある作品の機能であるとき、その作品はその物についての(物の水準の de re)虚構的真理を生み出す。このとき、その物はその表象体の対象となっている。

おおざっぱにいえば、「この作品は〇〇についての作品である」「この作品は〇〇を描いている」などというとき、たとえば、「セザンヌの『サン・ヴィクトワール山』はサン・ヴィクトワール山を描いている」とか「『戦争と平和』はナポレオンについての小説である」などというとき、サン・ヴィクトワール山やナポレオンを、本書では「表象体の対象」と呼ぶということ。

以外諸注意。

  • 表象体は、たいていは「ある事物が存在し、その事物に関する命題が虚構として成り立つ」というかたちで表象するけれど、「ある事物を存在しないものとして表象する」ことも可能
    • たとえば「朝起きてみるとジョージ・ブッシュが1988年の大統領選で当選したことが夢にすぎなかったとわかる」など。このときでも、やはりこの表象体の対象はブッシュの当選という出来事である
    • 表象体の対象は、その虚構の中に必ずしも存在するとは限らない、ということ
  • すべての表象体が「現実の」事物を対象として持つわけではない
    • たとえば「ユニコーンを描いたタペストリー」など
    • このケースにおいては、記述の水準での de dicto 虚構的真理、すなわち、いかなる個別的な事物にもかかわらない虚構的真理が生み出されている。が、「ある非現実のユニコーンについての(de re な)虚構的真理を生み出している」と考えるべきではないとする
  • 「表象する」と「(表象体が現実の事物と)一致する」とは異なる
    • ここでウォルトンは「一致すること」を「表象体と世界の中のあるものとが完全に照応する correspond こと」としている(やや大ざっぱな説明だが、細かくは略
    • たとえばロングフェローの「ポール・リヴィアの真夜中の騎行」はリヴィアを間違って表象している(一致しない)が、それでもあくまでリヴィアを表象している(リヴィアは表象体の対象である)
    • あるいは、かりに『トム・ソーヤーの冒険』のトム・ソーヤーとまったく同じ身なり、まったく同じ行動をした少年が作品とは関係なく偶然に現実に存在した(一致する)としても、トゥウェインの作品はこの現実の少年を表象したものではない(この少年はトゥウェインの作品という表象体の対象ではない)

ここで使われている de rede dicto の違いはちょっとややこしい(ほかの本とかでもこの区別をつける必要があるときはだいたいややこしいんだよな……)。訳注によれば、この箇所での「『物の水準の虚構的真理』とは、ある対象についてどのような表現や描写がなされていようと、現実に存在しているその対象に対し、当該作品の虚構世界において成り立つ虚構的真理」と思われる、とのこと。

まずは現実に存在する事物についてのみ扱い、ユニコーンなどそうではないものについては後ほど。

表象と指示

「何かを表象している」といったことを決定する要因はなにか。すなわち、どのような生成の原理がそこで働いているのか。詳しくは次章にて検討するが、ひとまずは「表象することは指示することの一種である」と考える(このあとの「対象は重要でない」と併せて考えると「なんらかの対象を表象することはなんらかの対象を指示することの一種である」と言うべき?)。

何かが表象体の対象になるには、作品が作られるときにそれがなんらかの因果的役割を持たねばならない(先述のとおり、これは「一致する」には要求されない)。このへんの絵画の表題や作者の意図との絡みの話はおもしろいんだけど、いったん略。 かといって、作品にモデルがあるからといってそれがそのまま表象の対象になるわけではないことに注意。絵画はもちろん、たとえば『デイヴィド・コパーフィールド』が「自伝的」である、すなわちディケンズを「原型としている(と思われる)」からといって、『デイヴィド・コパーフィールド』がディケンズについての虚構的真理を生み出しているとは(ふつうは)考えない。

表象があくまで指示の一種でしかないからには、表象体による指示作用ならなんでも表象する働きになるわけではないことにも注意。たとえば、風刺画において怪物がなにか実際の人物になぞらえられているとき、この怪物はその人物を寓意的に指示しているが、その人物を表象しているわけではない(その人物が風刺画にある怪物そのものであることを虚構的に成り立たせているわけではない)。

対象の使い道

現実の事物を表象することの便利さについて。たとえば以下のようなものが挙げられる。

  • 記述/読み取りの無駄な手間を省ける
  • 一般性のある教訓を与える際に、説得力を増すことができる
  • 想像活動をより生き生きとさせられる

反射的表象体

表象体のなかには、自分自身の対象になっているものも存在する。これを反射的表象体 a reflexive representation と呼ぶ。たとえば人形は、子供たちに赤ちゃんを想像するよう命じているだけでなく、その人形自身が赤ちゃんであると想像するよう命じている。手記や自伝、書簡などの体裁をとった小説もやはり反射的表象体(『完全な真空』もこの例として挙げられている)。

ガリヴァー旅行記』の言葉を『ガリヴァー旅行記』が表象している対象のうちに入れるのは、ある程度までそれらの言葉があの作品に登場するということなのであり、読者はそのテクストそれ自身の言葉が表象されていると理解することなく、言葉が表象されていると気づくことはないであろう。

絵画などにもやはりこれに当てはまるような(ある種自己言及的な)作品がある。

もちろん、虚構世界の中に虚構世界を立てるためにある種の自己言及性が必須というわけではない。カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』を反射的表象体と解釈するかどうか。コルタサル『欲望』はどうか。ベケットマロウンは死ぬ』はどうか。

対象は重要ではない

「現実の特定の犬を描いたのではないような、犬の絵(子供が落書きした犬の絵を想像せよ)」だったり小説の登場人物だったりといったケースのように、表象的であるからといって必ずしも表象の対象を持っているとは限らない(ウォルトンは非現実の存在者を認めない立場であることに注意)。実際第1章の説明のなかでは、表象の対象についてまったく言及されていない。

以下、グッドマン(「表示作用は表象作用の核心である」)への反論という形でいろいろ述べられているが、そもそもグッドマンのもとの議論をよく知らないので以下のまとめもかなり怪しい。また、以前に「表象は指示の一種」と述べられていたこととの関係もちょっと整理しきれてない。

結論から言えば、ウォルトンの主張としては「表象的なるものという概念は、表示するという概念とは独立」というもの(とりあえず、指示 reference ないし表示 denotation には対象が必要になるが表象はそうではないから、と解すればよいか)。

指示ないし表示にこだわるなら、非現実の対象を認めるという手段もありうるが、ウォルトンはその立場をとらない。たとえば、『白鯨』におけるエイハブは彼を表象している作品から独立していない。これは表象作用の現実の対象とは異なる。また、もし「『白鯨』はエイハブを創造し、それに加えて彼を表示する」としたとしても、そもそも後者の「表示」は必要だろうか(たとえば表示することなく創造することはできないであろうから、独立して分析できないのに)。ごっこ遊び説であればそういった不要な二段構えを置く必要はない。

あるいは、表象作用を指示表現ではなく言語的述語を範例として理解するという立場はどうか。こちらもたしかに似ている点があるにはあるが、けっきょくのところ術語は(現実の)事物に特性を帰属させるためのものである一方、表象体はそういうことはしない、ということで却下される。

非現実の対象は?

まず、架空の対象がなんらかの形で存在すると考えたいのは、まあわからんでもないよ、みたいな話がされる。たとえば「洞窟壁画が現実の対象を描いているかどうかは鑑賞体験に根本的な影響を与えるわけではない(ので、現実に存在しているかどうかを重要視する必要はないように見える)」など、(前節ですでに不要ということになった)よくある意味論/存在論的なのとはちょっと違ったやや美学寄り?の観点から述べられる(おかげでここは新鮮味があっておもしろかった)。

なかでもとくに紙幅を割かれるのは下記のように「個別的な」事物の想像を命じているかどうかの違いに関して。

(A) ジョージは、年老いてひどく疲れ果てた幽霊で、スプルース街の荒れ果てた屋敷に住んでいました。おしまい。

(B) 幽霊たちがいました。スプルース街の荒れ果てた屋敷に住み着いているものもいました。おしまい。

Aでは(小説の登場人物などのように)「個別的な」幽霊を想像することを命じているがBはそうではない、と区別できる。そして、表彰体が虚構の対象を持ちうると認めなかった場合、この違いが失われるように見える。

こういった問題について詳しくは第4部で取り組むが、ひとまずこの時点でも、(架空の対象の存在を認めないままでの)ごっこ遊び説で説明できるとする。大雑把に言えば、これらの区別は表象体がどのような虚構的真理を生成するか(つまりなにが存在するか)ということに存しているわけではなく、その表象体を用いて行われるごっこ遊びに存している。Aは「ある幽霊について(知るということだけでなく)知りつつあるところだと想像する」というごっこ遊びであるが、Bはそうではない(おそらく、第1章 p.44 で触れられていた「命題的でない想像」の話と関係するかな?)。

ともあれ、当座のところは「存在する」と考えておいても大きな問題はない(し、そのように語っているときに意味しているのはどんなことなのか、なぜそのように語ってしまうのか、そしてなぜそれでも大方は問題ないか等々も追って考察する)が、最終的に第4部で明確に排除するよ、という感じで本章はおしまい。


2022/04/15追記

冒頭で貼った記事を改めて読んだ結果、たぶん自分はどこか誤解している……と思ったので、以下メモっておきます。

というか「反射的表象体であるか否か」には「表象の対象が存在するか否か」は関係してこないか。「なんらかの想像を命じ、かつその 想像の対象 がそれ自身であるような表象体」というだけの話なのか。であれば赤ちゃん人形もトワイライトスパークルのぬいぐるみも反射的表象体だ。『完全な真空』も、表象の対象(になるような実在の書評集それ自体)は存在しないが、やはり反射的表象体である(手元にある本をそのような書評集であるという想像の対象とするよう命じている)。

いやでも、以下の通りやっぱ言ってるんだよな。

このお人形は、それ自身についての虚構的真理を生み出しており、それ自身を表象しているのである。

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