『フィクションとは何か』第4章のメモ

第4章 生成の機構

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

例が豊富でおもしろいんだけど、というか豊富だからこそ、結論としては「一筋縄ではいかんよね」くらいのことしか言ってない章とも言える。

生成の原理

小道具とともに虚構的真理を生み出す生成の原理について。

まずそもそも、解釈の不確実性や不一致が起こりうることが確認される。一つの作品=小道具に対して解釈結果=どんな虚構的真理が成り立っているかが異なりうるということは、生成の原理の適用が異なるということ。

というわけで、鑑賞や批評の際にどのような生成の原理が作動しているのかを観察し、さらに、なぜわれわれがそのような生成の原理を持っているのかを考察する必要がある。これが本章の目的である。

生成の機構は虚構的真理を機械的に生み出す手段ではない。機構とその作用のあり方は鑑賞者が詳しく調べることができ、その機構から帰結する虚構的真理よりも興味深いものであることもまれではない。画家や小説家の作品の芸術性の多くは、芸術家が見出した虚構的真理の生成方法に存しているのである。

直接的生成と間接的生成

まず、表象体が直接的に生み出している虚構的真理を「第一次の primary」もの、間接的に生み出している虚構的真理を「含意される implied」ものと呼ぶこととする(最終的にはこの区別自体に疑問が付されるため、あくまで作業仮説として解するのがいい……はず)。

たとえばゴヤの『戦争の惨禍』中の一作「見るにたえない」では銃の筒先のみが描かれており、その銃を構えた兵士は描かれていない。このとき、狙いをつけた銃が存在することは第一次の虚構的真理であり、それを構えた兵士が存在することは含意された虚構的真理であると言える。

また、単純な虚構的真理からであってさえ、たくさんの虚構的真理が含意されうる。

『グランド・ジャット島』において、公園を散策している二人連れは、食べるし、寝るし、働くし、遊ぶ、ということが虚構として成り立つ。二人には友人もライバルもいる。野心があり、満足したり落胆したりする。二人は地軸の周りで自転し太陽の周りを公転する惑星に居住しており、その惑星には気象と季節、山岳と海洋、戦争と平和、工業と農業、貧困と豊穣がある。

こういった含意される虚構的真理の多くはたんに「反対を示す証拠がない」というだけで生成されるような(むしろ反対である場合は興味深いものとして示されるであろう)ある種の背景である。けれども、たとえば肖像画における顔のパーツの配置が(その作者が表現したいであろう)「その人物の感情や漂わせる雰囲気」を含意しているケースのように、先んずる虚構的真理よりその含意のほうが重要であることもある。

以下ではひとまず直接的生成/間接的生成それぞれの原理に分けて考察していく。

間接的生成の機構

はじめに間接的生成における原理について。有力とされる説として次の2つが紹介される。

  • 現実性原理 Reality Principle
    • 「核心部の第一次の虚構的真理が許容するかぎり、できるだけ虚構世界を現実世界に似たものにする」という戦略。言い換えれば、「虚構世界と現実世界との間を最小にする」ような原理
    • 「矛盾した虚構的真理からは(少なくとも実質含意をそのまま使うなら)あらゆることが帰結してしまうのでは?」とか「作中で世界のごく一部しか描かれないとき、その虚構世界は現実世界の大半を含んでしまうのでは? それでは含意するものが多すぎるのでは?」といった(おそらく次のMBPでも生じ得る)疑問について、ウォルトンはとくに問題視しない。そもそも表象体のなかで焦点が当たっている虚構的真理はごく一部分であり、それも表象体ごとに違っているのだから、強調されていない部分は単に無視するだけでよいといった立場。わりとプラグマティックで好感が持てる!
  • 共有信念原理 Mutual Belief Principle
    • 「最初に作品が生み出されていたときの共同体で『公然と』信じられていたこと、ないしはその共同体の傾向性に含意関係の基礎を置く」ような原理。たとえば「地球は平らだと信じられていた文化における航海譚」みたいなときにRPとの違いが出てくる
    • これは「(共同体ではなく)作者本人が信じていることのみに基礎を置く」のでないことに注意。一般にわれわれはそのような形での想像をしながら鑑賞したり批評したりはしない

このうちどちらが優先されるのかについては、ざっくり言えばケースバイケースである(実際には自然の表象体に関する話や道徳に関わる虚構的真理の話、解釈や鑑賞の際に求める意義に関する話など細かい議論をしているが、ここでは略)。まとめは以下のとおり。

共有信念原理は、どのような虚構的真理が含意されるのかを決定する仕掛けとして理解されるとき、芸術家に何が虚構的かに関するより有効な支配力を与え、芸術家の身近にいる鑑賞者に、虚構的なものへのより容易な接近経路を与える。そして、共有信念原理は、芸術家が鑑賞者の想像活動を導くために表象体を利用するのをより容易にする。現実性原理は、どのような虚構的真理が含意されるのかを確認するために鑑賞者によって利用されるとき、鑑賞者のごっこ遊びへの参加をより豊かで自然なものとすることに貢献する。

その上で、(どちらがより本質的か決められないことはもとより)そもそもこの2つだけでは実際に生じている含意の繊細さと複雑さを説明できないとする。たとえば証拠とは言えない連想や慣習規約的な含意(お約束とかステレオタイプとかも含む)などが挙げられ、それらが発揮されるケースの不規則さについても示される。ここも例示が豊富でおもしろいんだけどやはり割愛

結局のところ、以下のように結論付けられる。

含意関係は何らかの単純な、つまり体系的な原理、ないし原理の集合に支配されているようには見えない。そうではなく、入り組んでいて、動きやすくて、しばしば競合している一連の了解、先例、局所的な慣習、顕著さ、といったものに支配されているように見える。異なる必要に応じるはっきり異なった原理たちが、違う事例でそれぞれ作用していて、どの原理が適用できるのかを決める一般的で体系的な高次の原理が存在するということはありそうにない。

直接的生成の機構

続いては直接的生成。含意と同様にこちらもまったく単純ではない。

たとえば、信頼できない語り手を持つような小説において、虚構として成り立つ命題はしばしば含意されるものであり、第一次のものではない。言い換えれば、なにかしらの命題が明示されているにもかかわらず、その命題が直接に虚構的真理とならない(どのような事柄が明示されている通りに虚構的真理として成り立ち、どのような事柄がそうではないかが、解釈=別の虚構的真理に依存する)ケースがある。信頼できない語り手によるものでない場合でも、どこまでが第一次的な虚構的真理でどこからが含意なのかはしばしば不確かである。このへん地味にもって回ったような書き振りをされてるので、結論はともかく理路にはちょっと自信がない……。

絵画についても同様で、たとえばデュシャン『階段を降りる裸婦』を「列を成して階段を降りる複数の女性たち」ではなく「ひとりの女性の連続的な歩み」を(直接的に)提示しているとみなせるような原理ははたして容易に見出せるだろうか。ほかにも、漫画における漫符のようなものや演出的な描写などさまざまな事例が挙げられる。

結局、ここまでをひっくるめて以下のようにまとめられる。

作品によって生み出されるいろいろな虚構的真理は、相互に依存しあっていて、そのどの一つとして他のものの助けなしに生み出されはしない。第一次的な虚構的真理というものは存在しないのだろう。では、どうやってその全体が始まるのだろうか。作品の言葉や色の配置は何らかの虚構的真理たちを示唆する。そして、この不確かな位置づけのまま、あるものが別のものの支えとなり、不確かさを取り除くのに十分な水準となるのだ。だから、作品の解釈者は、暫定的に受け入れ可能な虚構的真理の間で、納得のいく組み合わせに出逢うまで、往ったり来たりするほかないのである。

愚かな問いかけ

ムーア人の武将で知識人でもないオセロが、どうやってこんな素晴らしい詩句を組み立てられたのか」「『最後の晩餐』ではどうして全員が食卓の同じ側に並んでいるのか」といった「愚かな問いかけ」について。

  • エッシャーの版画やタイムパラドックスを含んだ作品のように、矛盾や不協和を真剣に受け取ることが重要であるケースもあるが、本節で扱うのはその種の問いではない
  • こうした問いかけに執着するなら、さまざまな表象体において虚構世界と現実世界の食い違いからいくらでも緊張関係を見出せるだろう
  • こうした問いかけの種になるような事象は、「レオナルドは13人が普通に食卓を囲むことが虚構的に成り立つほうを好んだかもしれないが、13人全員の顔貌を描くためにそれを犠牲にした」といった、異なった要求の衝突と選択の結果でありうる

ともあれ、こうした愚かな問いに対し、あえて答えるとしたらどのようになるだろうか。たとえば以下のような戦略が挙げられる。いずれにせよ説明の方法はあるというわけ。

  • パラドックスの原因となるような虚構的真理を退ける
    • 含意関係のどのあたりで差し止めを入れるべきかははっきりしない場合も多いが
  • (拒否するのではなく)たんに強調しないことにすると明言する
    • したがって、そこから含意関係を辿っていったりもしない
  • 相矛盾する虚構的真理を受け入れ、それらをともに強調しつつも、それらの連言が虚構的に成り立つことは拒否する
    • これは夢を理解したいときなどには適しているだろう

このような説明が可能であることから、生成の機構には(ごっこ遊びをより良いものにできるから、といった意義のある)ある種の寛容の原理のようなものも働いているということが観察できる。

いろいろな帰結

  • 生成の機構は、ときに単純で誰にでも認知できる、ときに複雑で工夫に富んだ、つまりなかなか首尾一貫しない、体系化を拒むものである
  • 作品の解釈や評価は作品が生み出す虚構的真理に大きく依存する一方、逆に「なにが虚構的に成り立つか」に関する決定のほうもその作品の解釈や評価から影響を受ける
  • 「虚構的な命題」とはいつでも「想像せよと命じられた命題」であることに尽きるという点に改めて注意せよ。不規則なのはあくまでその命令が確立される手段に関してである
  • このように不規則な原理であっても、ともかくわれわれはそれを習得できる(「私が与える根拠はすぐに尽きてしまう。そこからは根拠など無くやっていくのだ」「私の与えられる正当化が尽きてしまったら、私は岩盤に達したのだ。私のシャベルははね返る。そして私はこう言いたくなる。『私はこうするんだ』」という『哲学探究』の文言が引かれる)
  • ある意味では、なにが虚構として成り立つかについての特定の意見が最終的に正当化されるということはあり得ない。ある程度「概念的枠組み」なりなんなりに相対的であることも認める。けれども、さまざまな判断がどれ一つとして真または偽ではありえないということを認めるつもりもない

以上で第1部「表象体」おしまい。表象体がなんなのかはわかったということで、次は第2部「表象体の鑑賞体験」として、表象体が何のためにあるのか、虚構という制度の眼目とはどんなものかについて観察する。

つづき:

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