『フィクションとは何か』第7章のメモ

第7章 心理的な参加

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

第5章で触れたフィクションのパラドックスを端緒に、ごっこ遊びへの参加者が演じる心理的な役割について見ていく。

実質的な本論となる第1部〜第2部の最後の章であることもあるのか、「これまでの話からこんなことも言える!あんなことも説明できる!」とどんどんトピックが出てきてまとめるのが大変だった……。

虚構として恐れること

第5章で出てきた、チャールズが映画のなかで襲ってきたスライムを「恐れる」という例を再度取り上げる。第5章時点では彼が感じた「恐怖」は現実の恐怖とは異なるもの(これを「準恐怖」と呼ぶ)であるとしか言っていなかったけれど、第6章の考察に従ってチャールズが自身を反射的小道具としてごっこ遊びに参加していることを鑑みれば、「チャールズがスライムを怖いと思っている」ということが虚構として成り立っている(したがって、たとえばチャールズが後に「怖かった」と報告することは、このごっこ遊びへの言語的参加である)と考えてよいだろう。

以下、これに基づいた観察。わりとまとまりなくいろいろなトピックが挙げられていることもあり、正直うまくまとめられている気がしない。たとえば子どものごっこ遊びの例とか、レーガン自身が舞台上でレーガンを演じている例、『アマーストの美女』をディキンソン自身が見る例などとの対比については以下ではほとんどオミットしている。いずれにせよ、(第5章でも触れたとおり)このへんのトピックに関してはいろんなところで検討されているため、それらを読むのがおすすめ……だと思う。

まず、チャールズについての虚構的真理は、彼の能動的なふるまいだけでなく、彼の置かれた状態(準恐怖という心理状態や、それにともなう身体の変化など)からも生み出されている。というか、映画鑑賞の場合むしろそちらがほとんどだろう。同じく自身を反射的小道具とみなせる例でも、誰かに向けて演じているときのように心理状態からは虚構的真理が生み出されないこともある(舞台上でレーガンを演じるレーガンの例)。

とはいえ、準恐怖だけでは先述の虚構的真理を生成するのに十分ではない。「『虚構としてスライムが迫ってきている』と理解した結果として、チャールズが準恐怖を感じている」という組み合わせがあってようやく「チャールズがスライムを怖いと思っている」という虚構的真理が生み出される。

そして、さまざまな虚構的真理とあいまって、チャールズが現実に感じる準恐怖、ひいては虚構的に感じる恐怖は変化していく。このような自らの準恐怖(の変化)にチャールズが気付くやり方は、現実に恐怖を感じていると気付く際のやり方と同じようなもの(ほとんどの場合、内観のようなやり方)だろうし、準恐怖が認識されているさまと虚構として恐怖が成り立っているさまとは実際に軌を一にしているだろう。こうして注意を向けられた準恐怖は、(既述のとおり虚構的真理を生み出す小道具であるとともに)「虚構において恐怖の経験であるもの」を想像するための想像のオブジェクトにもなっている。

また、チャールズは「自分が怖いと思っている」という命題を想像しているだけではなく、それをまさに自分自身の恐怖として「一人称的に」想像している(前章で深掘りされないままだった論点!)。

なお、ここで見た「恐怖が虚構的に成り立つ」こと(虚構性)と、現実にチャールズが(準恐怖だけでなく/準恐怖にとどまらず)ほんとうの恐怖を感じること(真理性)とは両立しうることに注意(このように排他的でなく互いに独立だからこそ、現実にどう感じているかに依存しない説明が可能なのだ)。

心理的に参加する

主に準感情について掘り下げていく。

そもそも前節のチャールズの例は、第6章で見た「聴衆への脇台詞」を含んでいるという点で特殊なものと言えるかもしれない(スライムが「こちらに向かってきている」のだから!)。では、たとえば「物語の登場人物を準賞賛/準憐憫/準軽蔑……する」といった脇台詞とは必ずしも関係しないケースはどうだろうか。

たしかにチャールズの例と比べて、ここで挙げた準感情は(虚構のうえでの)自分自身ではなく他人に向けられていることや、それを特徴づける心的経験を比較的特定しづらいことなどの相違点があるにはある。しかし、そのような違いがあるとしても問題はなく(そもそも感情の理論の問題だし、ここで考察している鑑賞に関する理論とは独立である)、チャールズの例と基本的に同様に扱ってよい。

その感情を構成するものが何であろうと、私が示唆したいのは、何らかのそういう状態ないし条件や、また鑑賞者がそういう状態や条件にいるということを虚構として成り立つように仕向けると自然に受け取られるような状況は、人が誰かを賞賛したりかわいそうだと思ったりしているということを虚構的に成り立つようにするのを助ける、ということである。私たちはそれを準賞賛や準憐憫と呼ぶことができる。だが、それが心的現象の経験でなければならないとは主張しない。

このように現実と虚構世界それぞれの心的生活は別個であるが、とはいえ重なり合い、密接に関係してもいる。ここでは割愛するが、歴史的人物を扱った作品を鑑賞する際のその歴史的人物への感情の例など。特に、必ずどちらが先にあるというものではないことに注意。同一視するのはもちろんナイーブな考え方ではあるのだが、かといって「いや全然関係ないですよ」というのも違うよね、というのは大事なところよな。

また、ごっこ遊びへの参加は当の表象体に直に接している間には限られない。本を閉じたあとや劇場を離れたあとにも続いていくし、多くの場合作品に直に接することは心理的豊かな長く続くごっこ遊びのたんなる始まりにすぎないかもしれない。

このほか、自分と登場人物との「同一視」についても軽く触れられる。公認のごっこ遊びではない(したがって虚構的に成り立っているわけでもない)が、それと並行して生じる想像活動ではあろうとのこと。現実でも似たような想像をしていることがあるはず。

悲劇のパラドックス

ヒュームによる有名な「悲劇のパラドックス」について。すなわち、悲しみや恐怖などそれ自体不快な感情を生じさせるような悲劇的作品を求めることがあるのはなぜか、という問題について。もちろん「今は気楽なものが読みたいな〜」などと避けることもあるが、それはそれとして。

ここまで見てきたように悲劇作品が現実の悲しみや恐怖をもたらしているわけではないとしても、それだけでは謎が残る。虚構性が関わらないケース(災害の報告など)においても悲劇作品と同様にそれを求める気持ちがしばしば起こるのだから。

この問題に対してウォルトンは、そもそも悲しみを「それ自体不快な」情念とするヒュームの特徴づけが誤っているのではないかと答える。

明らかに不快で、なければよかったと私たちが思うのは、自分が悲しいと思う その 物事の方——昇進しそこねたこととか、友人が死んだこと——であって、悲しみの感じそのものではない。悲しみがふさわしいような状況が存在することは望ましくない。しかし、そういう状況になってしまったことを前提とすれば、悲しみは まさに ふさわしいのであって、私たちはそれを喜んで受け入れるだろう。悲しみを経験するのを 望む こともありうるし、悲しみを経験しているという事実に、人は一定の喜びや満足感を見出すかもしれないのである。悲しむことは、一般に、悲しんでいるということについて悲しんでいるのではない。それは、悲しんでいるということに喜んでいるということと、完全に両立するのである。

ということで、なぜ欲するかについてはこれでOK(悲しみそのもののの経験に心地よさが伴いうるのだ!)。続いて、悲しみの対象に向けられた鑑賞者の態度のほうを考えてみる。

たとえば「ハッピーエンドは愚かしくて退屈である」と考えているアーサーが、しかし劇を見ながら「ヒロインが生き延びてほしい」と感じているようなケースを考える(ここで注釈でナボコフが引かれてるのちょっと笑った)。「救われてほしい」的な気持ちを抱くこと自体が悲劇へのアーサーの高い評価の重要な部分を構成しているわけだが、ここでアーサーは対立する利害に引き裂かれているのだろうか。

結論からいえば、これらの欲求は現実においても虚構的にも対立していない。なぜなら、アーサーは現実に「ヒロインが救われてほしい」と思っているわけではなく、「アーサーがそのような気持ちでいることが虚構として成り立っている」というだけのことだからだ。アーサーが現実において欲しているのはあくまで「ヒロインが残酷な結末を迎えることが虚構として成り立つこと」である。

サスペンスとサプライズ

すでに読んだことのある作品やストーリーが広く知れわたっている作品を鑑賞するときでも、まるで内容を知らないかのように楽しむ(「不安」や「驚き」を感じる)とはどういうことか、みたいな話題。なお、「どのように語られるか」といったことに着目するような楽しみはもちろん別個にあるが、ここでは考えない。というわけで、そう、ネタバレの話だ!!!1

こうした例は、以下の2つの「知識」が分離しているものとして定式化できるだろう。

  1. 私たちが虚構として成り立つと知っている事柄(現実の知識)
    • 再読であるためすでに持っている(逆に言えば、初読ではおそらく知らない)、あるいはネタバレから得てしまう知識はこちら
  2. 虚構において私たちが知っている事柄(虚構的に成り立っている知識)
    • 言い換えれば、鑑賞というごっこ遊びのなかで「知っていることになっている」事柄

これをもとに、「分離」は以下のように整理できる。

  • 虚構的には知らないが現実には知っている
    • 再読やネタバレの例はこちら。分離しているといえばこのケースであることがほとんどだろう
    • このとき、ふつうは「初めて知ったふりをする(知らないふりをする)」ような形のごっこ遊びを行うだろう。そして、不安や驚きはそのたびごとに虚構的に現前しうる
    • 現実の生活では何かを言うことが新しい情報を与えることをしばしば含意することからいっても、このような(形のごっこ遊びが公式であるような)作品が大部分なのは自然なことだろう
    • 再読であるとしても毎回の鑑賞は別々のごっこ遊びであることや、ネタバレを知ったタイミングというのは(後にその作品を使って行われるであろう)ごっこ遊びの最中ではないことに注意
  • 現実には知らないが虚構的には知っている
    • 比較的特殊な例。ドイル『空き家の冒険』(冒頭で、犯人が周知であるとのみ述べられるものの、その名前は明かされない)を初めて読むときや、再話であるかのように読むことを要求する物語を初めて読むときなど
    • 『空き家の冒険』であれば、「最初から犯人を知っている」ようなごっこ遊びを行うであろうが、それが誰であるかは話が進むまでわからない。このケースでは、再読時には分離が起こらないということになる
    • これだと当の知らないことに関して「不安」や「驚き」を感じることは虚構の上では不合理なことになるんだよな

また、「予見的な知識が主として作品に内在する証拠に基づいており、通常のやり方で作品を経験するときに予見が得られるような事例」についても考察される。たとえば、結末の手がかりが(誰にでもわかるような形で)劇中で示されることや、もっとあからさまに、結末の場面のフラッシュフォワードが示されることなどがこれにあたる(倒叙ミステリもこれに含まれるかと思ったけど、あれはたぶん犯行の様子も知ってるような観察者、あるいはその観察者の語りの聞き手として読むほうが普通だろうからちょっと違うか? みんなどう読んでるんだろう。「愚かな問い」の話とも関連しそうではある)。

このとき、「物事がどうなっていくのかを、鑑賞者がいかなる方法で『虚構において』知るに至ったのか」という問いに適切に回答できないのであれば、「その知識を鑑賞者が虚構的に持っている」と見なすのは適切ではないだろう(したがって、「虚構的には知らないが、現実には知っている」の一種ということになる、はず)。たとえば、「(SFでもないのに)この世界にはタイムマシンがあるから、この先何が起きるか見えたのだ」とか、「見るからに『本作のヒロイン』は彼女なのだから、それが死ぬわけがない」とかいうのはふつう適切な答えではない。逆にたとえば、「『白鯨』においては、イシュマエルがまさに語っていることが虚構として成り立っているのだから、読者はイシュマエルが生き残るであろうことを虚構的に知っていると言える」といった形で答えられるなら問題ない。なんとなく「負けヒロイン」のことを連想してしまうよな……。

似たような話として、虚構的ないし現実的に当たり前だったり驚くべきだったりする事柄と、虚構的ないし現実的に鑑賞者を驚かせる事柄との間に違いがあるという話題も。

このほか、一見「ストーリー」にあたるもののない音楽や、あるいは絵画などの静止芸術(小説や映画、音楽などはこれに対し「時間芸術」である)の鑑賞における「不安や緊張」「驚き」についても考察されているんだけど、ここではばっさりカット。前者については、偽終止に関して「現実に何を予期しているかに関わりなく、主音を期待するということが虚構的に成り立っている」(!)とかえらく尖ったことが主張されてるし、後者についてはそもそも本節の後半がまるっとそれに充てられてるしでそれなりにはおもしろいんだけど、まとめるのがしんどくなってきたので……。

ともあれ、以下のように結ばれる。生成の原理のとき「めっちゃ複雑やで」と言って終わってたのにに近い投げ出し方だ!

  • 現実的あるいは虚構的な認識論的なあり方を区別し、その対応関係や変化を分析することは、どのように虚構的真理が成り立っているかや、鑑賞者が現実的あるいは虚構的にどのような体験をするかを分析する際に重要である
  • とはいえ、こうしたあり方は非常に複雑で、再帰的であったり決定不能だったりもしうる、捉えづらいものである。これは表象的芸術作品に対する鑑賞者の反応の多様さ、微妙さ、複雑さに見合ったものであると言える

参加することの眼目

われわれはどうして表象的な芸術作品に価値を置くのかについて。

表象体の任務は、私たちが参加するごっこ遊びの中で小道具として役立てられることである。しかし、そんな遊びがそもそもなぜあるのか。なぜ私たちは参加するのか。たしかに経験したいと思ってしまう「肯定的」な感情が含まれているときでも、虚構として そういう感情を経験することに、どんな利点があるというのだろう。虚構として喜んだり有頂天になったり、ましてや悲しんだり動揺したりして、どんな利点があるというのだろう。参加することの眼目は何なのか。

共感や学び、情動の発散や受容……などなどなど、想像活動によって享受できる利益は多様に考えられるが、本書ではそれらを個別には検討しない。ただしその上で、「想像する人が自分の虚構世界で占める位置こそ、非常に多くのさまざまに異なる事例において、中心となるように見える」ことが指摘される。つまり、想像者自身が反射的小道具としての役割を担っているという点が重要なのだ。

小説を読んだり絵をじっと見つめたりすることが、たんに虚構世界の外側に立ち、窓ガラスに鼻を押しつけてのぞき込み、何が虚構として成り立つのかを知るというだけのことにすぎなくて、虚構において何かを知ることは一切ないのなら、小説や絵に私たちが関心を抱くのは真に謎だっただろう。

というわけで、想像活動によって享受できる利益、ひいては表象体の価値を考えていくにあたっては、こうしたごっこ遊びへの参加という経験を考慮していくことが必要であるというわけ(重ねて言うが、本書ではやらない)。

参加なき鑑賞

ここまで見てきたとおり、鑑賞において「参加」は中心にあるけれど、それが全てではない。実際の鑑賞者のパースペクティヴには「観察」も重なっている。それどころか、参加をしない鑑賞さえありうる。

以下では、作品自身が「これはただの虚構である」とあえて明示したり、作品の様式や物体そのものとしての性質に注意を向けさせるような造りにするなど、表象体の側が鑑賞者の心理的な参加にあえて水を差す(鑑賞者の反射的小道具としての役割を縮小させる)ケースについて見ていく。

以下、けっこうおもしろいので、まとめとしてはやや詳細すぎる気もするが逐一挙げてみる。

  • ピカソ『雄牛の頭部』
    • 「雄牛の頭部やん!」というごっこ遊びへの参加それ自体ではなく、その参加が可能であることが評価のポイントになっている
    • もちろんこれはあくまで「参加が中心であることを前提とした」観察から得られることに注意
  • ゴッホ『星月夜』
    • 本作の非常に目立つ筆使いは、それ自体として注意を引きつけるし、どのように描かれたかの記録(ないしは、その描かれている最中の様子を想像する小道具)としても注意を引く
    • こうした筆使いは、そこに描かれている風景を見るというごっこ遊びへの参加をたしかに妨げている。それと同時に、想像活動がより活き活きとする効果も発揮している
  • 装飾的な紋様
    • 蔦などをモチーフとしているからといって、ごっこ遊びへの本格的な参加が始まることはまずないし、そのように意図されていない(むしろそうならないような形にデザインされている)
    • このとき起きているのは「小道具として使われうる図形たちが集まって、見た目に面白くて視線をくぎ付けにするような様式を作り出すやり方から強い印象を受ける」という参加を前提とした観察だろう
  • 通学路の交通標識
    • 描かれているピクトグラムから「横断歩道を渡っている子供たち」を想像できないと標識の意図が伝わらずその目的が達せられないが、かといってごっこ遊びへの参加に没入してしまうと逆に危ない!
    • とはいいつつ、これは表象体ではない(想像活動を命じているわけではない)と感じられるかもしれない。それでも、明確な境界線があるわけではないことは理解できよう

以上のように、想像を命令する機能と、それに水を差す働きの組み込みとは両立する。

このように水を差す働きが組み込まれた小道具は、実用を意図せず作られた(すなわち椅子本来の機能を欠く)「飾り物の椅子」になぞらえられる。すなわち、(その程度にはいろいろあるものの)小道具に適さないように作られた「飾り物的な小道具」というわけ。けれども、そのような「装飾的な」小道具であっても、飾り物の椅子が「それが椅子であることを想像せよ」と命じる機能を持っているように、「それが小道具であることを想像せよ」と命じる機能を持った反射的小道具となっている。その装飾性は、それが何の表象体であるかを変化させるだけなのだ。

ここで、ベラスケス『侍女たち』について見てみる。これは「絵画の中に肖像画が描かれている」、すなわち虚構の中に虚構が「埋め込まれている」例である。このとき、「絵画の中に描かれている肖像画に描かれている人物」は「絵画に直接描かれている人物」より(どちらも虚構的であるにもかかわらず)注意をひかないだろう。なぜなら、われわれが現実に参加するのはあくまで第一階のごっこ遊びであり、(絵画の中に描かれた肖像画を使うような)第二階のごっこ遊びについては参加を想像するだけであるためだ2

これを念頭に置いてサッカレー『虚栄の市』を見てみよう。本作の冒頭では以降の語りが虚構であることが明記されており、したがって「埋め込み」が行われている「装飾的な」小道具の例である。しかし本作を読み進めているとき、冒頭の記述から把握した第一階の虚構世界を忘れて、第二階の虚構世界を舞台としたごっこ遊びに直接参加しているかのように感じられるだろう(「水を差す」効力は大抵一時的/部分的であり、『冬の夜ひとりの旅人が』のような例のほうが特殊なのだ)。これは一見正しくない参加に見えるかもしれないが、そうではない。実際には第一階/第二階両方への参加が想定されているだろう。つまりこの小説は、「ベッキーがロードン・クロウリーと結婚すること」(第二階)を虚構的に成り立つようにすることと、「彼女がそうすることをこの小説が成り立つようにすること」(第一階)との、両方を行なっている。そして読者は、ベッキーのいる世界に住むことと、その世界を外から観察することとを交互に(もしかしたら同時に)行うのである。同様に先ほどのゴッホ『星月夜』について、それが「一定の仕方で創造された表象体である」ように見えている(虚構としてそうである!)ならば、その意味で「装飾的な」表象体(表象体の表象体)であり、直接的に描かれていると見える内容は「埋め込まれた」ものであると捉えることもできる。

ここまで見てきたような「装飾性」は、たしかに参加を阻み、鑑賞者に「距離」を感じさせてしまう。外側の世界は枠のようなものにすぎず、内側の世界の方が豊かに描かれることもしばしばである。では、「装飾性」に、すなわち参加を代価にして観察させることにはどんな価値があるのだろうか。以下はいずれも、参加が重要であるからこそ生じる価値である一方、実際に参加してみると行うことがより難しくなる(参加を想像することによって得やすくなる)ような考察である。

  • 参加を促す手段や参加の種類へについての考察
  • 参加の経験についての考察。すなわち、参加者が虚構的に何を、なぜ感じているのかについての考察や、(虚構的に/現実的に)同じような状況で自分が何を考えたり感じたりするかについての考察

以上、参加が中心にあるからこそ、そのうえで観察も重要になるよね、ということで本章、そして第2部はおしまい。


これで実質的な本論は終わりで、第3部は各論(第8章で描出体、第9章で「語りによる」表象体を扱う)、第4部はあとまわしにされていた存在論と意味論について。というわけで、次章に進む前にいったん参考文献など含めここまでをまとめたい……と思っています……思ってはいる……。


  1. ネタバレに関しては 『フィルカル』Vol.4 No.2 の『ネタバレの美学』特集や、これに関連するワークショップ(【発表要旨追記】公開ワークショップ「ネタバレの美学」を開催します。11/23(金・祝)@大妻女子大学 - 昆虫亀 など登壇者によるブログ記事や資料を参照)がおもしろそうなんだけど、読めていないのでとりあえず注記にとどめておきます。本書の話とは、関係ないこともないけど全体的にはそこまででもない……くらいだとと思う。

  2. ここで、ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」についての注記も引いておく:「最初はトレーンの世界は他の虚構世界の中に深く埋め込まれているように見える。だが、物語が進むにつれて、埋め込まれていないということがどんどん顕わになってくる」。階層による注意の引き方の違いを活かした作品であるということ。