『フィクションとは何か』- ケンダル・ウォルトン(中間まとめ)

第2部までをまとめてみよう、というエントリ。前半だけでも二段組300ページあってそれなりに分厚いのは、ウォルトンの理論自体が思ったより複雑なのもあるが、それよりもとにかく例示が豊富なことが原因のように思いました。それらを読むのはとても楽しいものの、本論なんだっけ?ともなりやすそうなので、とにかく手掛りを残しておくにしくはないということで。

それにあたり、まずは以下にこれまでの章のメモを挙げておきます。こうした自分の理解(かなりあやしい)およびいくつかの追加的な文献を参考にして1、本書のなかでどんなことが言われているのかを、せめてもうちょっと短くまとめてみたいというのが本記事です。

まず、本記事での用語についての注意。

  • 「本書における、より一般的な意味での(通常使われる意味より拡大された)ごっこ遊び」を メイクビリーブゲーム、「文字通りの、子供たちが遊んでいるようなごっこ遊び」をそのまま ごっこ遊び と呼ぶ2
    • 本書の翻訳における用語法(どちらも「ごっこ遊び」と訳されている)とは異なることに注意
    • この用語法に準じて言えば、「各種芸術鑑賞は(ごっこ遊びをひとつの範例とするような)さまざまなメイクビリーブゲームのうちの一種である」とするのがウォルトンの立場ということになる
  • 本書の「フィクション」の語はカテゴリとしてかなり広く、通常の用法とのズレが大きいこともあり、この語を使うことは可能なかぎり避けたい。また、そもそも事物のカテゴリは最初にはっきりさせておきたいというわけで、以下のように整理しておく。いずれも下側が上側の部分集合であることを意図している
    • 小道具:現実の事物のうち、「なんらかの命題や体験の想像を命じている」ものごとをすべて含むカテゴリ
      • ごっこ遊びの参加者」「芸術作品の鑑賞者」や、メイクビリーブゲームに伴う現実の出来事や状況なども含まれる
      • 一般的に用いられる「小道具」の用法とはかなり異なっていることに注意(このへんの事情は「ごっこ遊び」に似ている)
    • 表象体:小道具として働く社会的な機能を持ったもの。ウォルトンのいう「フィクション」はおおむねこれと同義(かなり広い!)
      • いわゆる「モノ」でないような事物は除外される
      • また、切り株をクマに見立てるようなごっこ遊びにおける切り株など、アドホックな(そのような社会的機能を持たない)小道具も除外される
      • メイクビリーブゲームの参加者もやはり除外される(アドホックな小道具であると考てよいか)
    • 人工的な表象体:表象体のうち、表象体となることを意図して人工的に作られたもの
      • 星座などの自然にできた表象体が除外される。「そのように意図した作者がある表象体」と言い換えてもよいか
      • 本書の中ではあまりはっきりとは明言されていないカテゴリだが、ここではわかりやすさのため置いておく
    • 表象的芸術作品:人工的な表象体のうち、芸術作品として作られたもの
      • ごっこ遊び用の人形など、一般的に芸術作品として考えられないものが除外される
      • 芸術作品ではない人工的な表象体とは本質的な違いはないが、「鑑賞」と「ごっこ遊び」を区別したいとき(制約の度合いや、批評的な見方が介在する度合いの違いがある)などに便利なためこちらもやはり置いておく
      • 「表象的」と限定をつける必要があるのかはよくわからない。本書の立場では通常「芸術作品」とみなされるものはすべて表象的、くらいに考えられそうだとは思うのだけど……(というわけで、以下でも単に「芸術作品」と呼んでいる)
  • 「虚構的真理」という表現も、虚構性の真理性からの独立という観点から言えばやや混乱しやすいため、これも可能な限り避けて「虚構的に成り立つ」を使う
    • ウォルトンが虚構性と真理性、想像と信念をそれぞれ並行的なものとして捉えているという点で重要ではあるが、それについてはいったん措いておく

前置きがすでに長くなってるのですが、ともかく(わたしの理解の範囲では)本書におけるウォルトンの立場の際立った点は2つあります。

  • 「言語的フィクションだけ」「絵画的フィクションだけ」等と限定せず、幅広い芸術作品やごっこ遊びの小道具までもを包括的に扱う
    • いかにも「虚構世界」「物語世界」「作品世界」的なものを持っていそうな作品だけではなく、(その正当化がうまくいっているかはともかく)抽象絵画や純粋器楽曲なども含む
    • ただし、「制度とはフィクションである」といった「フィクション」の用法までは広がらない(そもそもかなり性格が違い、「実在していない」といったニュアンスのものだし)3
  • 芸術作品に対して、鑑賞者(参加者)の体験からアプローチしている
    • これは統語論的なアプローチや意味論的なアプローチでもなく、また、語用論的であっても作者の意図からのアプローチ(言語行為論的なものなど)でもない4
    • これによって、いくつかの問題は独特ながらある程度説得力のある形で解消できているように見える。たとえば「何が虚構的に成り立つか」の不確定性や矛盾の問題、芸術鑑賞の際の情動の問題など

続いて、これを念頭に一問一答(一答になっていないが)形式で考えてみます(なお、ここでは芸術作品を扱うということで便宜上作者視点から始めていますが、先述のとおり本書のアプローチとしては「鑑賞者がなにをしているか」が先行していることに注意してください)。

  • 芸術作品の作者は何を作っているの?
    • 一連の命題や体験を想像することを鑑賞者に命じる機能を持つ事物(表象体)を作っている
    • 作者が「なんらかの言語行為を行うふりや偽装をしている」(サールなど)あるいは、作者が「なにか特有の言語行為を遂行している」という立場には立たない5
  • 芸術作品の鑑賞者は何をしているの?
    • その芸術作品を小道具とし、「生成の原理」のもとで命じられた命題や体験を想像している(その芸術作品を小道具としたメイクビリーブゲームを行っている)。命じられるもののなかには、鑑賞者自身に関する命題や体験も含まれる
    • このとき作者の意図はオプショナルで、小道具を通して間接的に作用する形に留まる(もちろんどんな生成の原理があるかなどを考慮して制作しているはず)。作者の範疇的意図はおそらく認めているのかな
    • そして、本書においては、「虚構的に成り立つ事柄」が「(小道具および生成の原理に従って)想像せよと命じられている事柄」と同値であるとされている(あくまで「想像されるべき事柄」であって「げんに鑑賞者が想像している事柄」ではないことに注意)
    • ただ、ウォルトンは後に立場を修正し、「想像せよと命じられている事柄」のうちの一部のみが「虚構的に成り立つ事柄」である(想像の命令は虚構的真理であることの必要条件にすぎない)としている。そして、どのようにその「一部」が選ばれるのかについては、(アイデアはあっても)はっきりとしたことは言えない、といった感じのようだ6
  • 「命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 直感的にいえば「その事柄がある虚構世界において真であるという志向的態度をとる」みたいな感じになる、と思う。実際(方便として)この種の表現が使われてもいるのだが、本書の立場では本来「虚構世界」といったものを措定しない(われわれがそんなふうに考えてしまうこと自体は認めるが、理論的には不要)ことに注意
    • なお、本書ではこの「想像」という行為がどんなものかについてあまり踏み込んでいない(心理的な視覚化とかではないよ程度の話はしているが)。ウォルトンは虚構性を想像によって定義したうえで他の志向的特性と比較して特殊であるとするのだが、そもそも想像することがどんなことかについて十分な特徴付けを与えておらず、その特殊さが虚構性のほうから逆に説明されているように見えるため、やや論点先取のように感じた(もちろん読めていないだけってことは十分以上にありうるんだけど、このまとめではいったんそういうことにしておく)
  • で、結局「フィクション」って何?
    • つまり「表象体とは何か」ということだが、すでに述べたとおり本書においては「想像を命じるような機能をもったもの」以上でも以下でもない
    • 「現実と一致しているかどうか」や「作者がどのような信念を持っているか」と「フィクションであるかどうか」は関係ない。真理・信念と虚構性・想像は独立である
  • 小説の登場人物など、非現実の対象は存在するの?
    • 端的には「存在しない」という立場。そもそも存在する必要がない
    • たしかに素朴な意味での実在論は必要ないし無理があるとはいえ、抽象的人工物説(この場合は存在する)や様相的マイノング主義(この場合やはり存在しないが志向的対象にはなる)みたいなある程度洗練された立場と両立しないかといえば、前半を見たかぎりだとそこまででもないように見える。やっぱりこのあたりも、「想像」がいまいちはっきりしないせいなんじゃないかという気はする。いずれにせよ、このあたりは第4部で詳述されるはずなのでいったん置いておく7
  • 「生成の原理」って何? なにが虚構的に成り立っているかを決定するしくみってどんなものなの?
    • 上述したとおり「虚構的に成り立つ事柄」とは「想像せよと命じられている事柄(の一部)」ではあるのだけど、もちろん「命じられている」とだけ言われても困るわけで、小道具とともにその内容を決定する「生成の原理」について観察する必要がある。雑駁にいえば、(その小道具が芸術作品であったとして)芸術作品に直接的に「描かれている」ことについてはたいていの場合そのまま虚構的に成り立つ。また、その「描かれている」ことが含意する(描かれていることに反しないかぎりでは「現実」や「そのとき信じられていた事柄」、あるいはお約束などに沿う)ことも連鎖的な形で虚構的に成り立つ。そして、こうした原理はしばしば無意識に働いている。ただし、こうした機構は複雑で、シンプルな原理には還元できないよね、というのがウォルトンの立場。信頼できない語り手のような例もあるし、直接的に「描かれている」ことを特定するのも実はけっこう難しい8
    • 虚構的に成り立つ事柄が不確定だったり、矛盾しているように見えるケースもある。ただしこうしたことはとくに問題にならない。たとえば「ホームズの毛の本数は偶数である」といった命題の真偽が不確定であったとしても、それに関する想像をとりたてて命じられていないのであれば、たんに無視するなどすればよい。このような対処処理は、「虚構的真理」の問題を可能世界と関連づけて捉えたり、特定の言語行為として捉えたりする立場ではとりづらい方法ではあって、本書の特色となっている
  • 「鑑賞者自身に関する命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 「自分自身がまさに○○している(語りを聞いている、風景を見ている……など)」といった想像を行うということ。これは単にその命題を想像するというだけにとどまらず、「一人称的に」想像してもいる。このようなとき、鑑賞者自身もメイクビリーブゲームの小道具となっているといえる(鑑賞者自身がそこにいるという状況自体が鑑賞者に関するある種の想像を命じていると言えることに注意)
    • 本書で「メイクビリーブゲームへの参加」とされるものはこのような自分自身に関する命題や体験の想像のことだと考えてよい(はず)。芸術鑑賞を含めたメイクビリーブゲーム一般において、このような「参加」は重要な役割を果たしている
  • 素朴な意味での「虚構世界」みたいなものとメイクビリーブとの関係は?
    • そもそも「虚構的に成り立つ」ことを「その事柄がある虚構世界において真である」と説明しているのはあくまで便宜上のことなのであんまり拘らないほうがいいような気はするのだけど、とはいえウォルトン自身、「作品世界」と「メイクビリーブゲームの世界」(というのは本記事での用語法に倣ったもので、本書のなかでは「ごっこ遊びの世界」)みたいなものを置いて区別しているので、ここでいくらか説明しておく
    • 上述のとおり、ある(個人的に鑑賞される)芸術作品の鑑賞者Aは、A自身に関するものも含めたさまざまな命題が虚構的に成り立つようなメイクビリーブゲームに参加している。このとき、その「虚構世界」、すなわち「Aのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題が含まれていると言える。しかし一方、別の鑑賞者Bからしてみれば、「Bのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題は含まれないだろう(もちろん逆も同じ)。そう考えてみると、その作品が小道具として虚構的に成り立たせている命題群は、「(生成の原理を同じくする、理想的な)どんな鑑賞者にとっても虚構的に成り立つ命題群」と、「鑑賞者ごとに異なる命題群」とに区別できるはず。このとき、前者のようなある種最大公約数的な?虚構世界のことを「作品世界」、後者のように鑑賞者自身に関する虚構的な命題を含む(そのうえで前者の命題群も含む)世界を「メイクビリーブゲームの世界」と呼ぶ
  • 「ホームズは名探偵である」などと言うとき、私たちはいったい何をしているの? ホームズは存在しないにもかかわらず、この「命題のようなもの」に対してなにかしらの「真偽」があるように思われる(そして、「真」であるように思われる)のはなぜ?
    • このように言うとき、私たちは一連のドイル作品を小道具としたメイクビリーブゲームに言語的に参加している(「まさに読んでいる最中」でなくとも参加できることに注意)。このメイクビリーブゲームにおいては、ホームズという登場人物が存在し、それが名探偵であることが虚構的に成り立っている。そして、このようなメイクビリーブゲームのなかでは「ホームズは名探偵だよね」「そうだね、それは真だね」などと言うことが自然であろう
  • 私たちが小説や映画などを見て「怖い」「悲しい」って感じるのはどういうこと?そんなふうに思っても実際に行動しようともしないのに!
    • そのように「感じる」とき、私たちはそういった小説や映画などのメイクビリーブゲームに心理的に参加している。このメイクビリーブゲームにおいて、鑑賞者自身が「怖い」「悲しい」と感じることが虚構的に成り立っている。必ずしも現実に「怖い」「悲しい」と感じているわけではない。現実には「準恐怖」などの「準感情」を備えた状態になっており9、それがなんらかの虚構的に成り立つ信念と組み合わさって、感情を虚構的に成り立たせている
    • フィクションと情動の話はけっこう奥が深いというか、いわゆる情動の哲学/感情の哲学みたいな本もいろいろあるんだけど、ここではいったん置いておく

以下参考にしたものなど(ちゃんとしたリファレンスの書き方になっていないのは許してくれ)。

ほかにも思い付いたら追記していきます。いったん以上。


  1. 特に依拠したものについては随時脚注で付記したうえで、本記事の最後にこれらを含めて列挙する。

  2. 高田の立場を引き継ぎ、シノハラ『物語の外の虚構へ』でも使われている呼び方。ちなみに同書では「小道具」も「プロップ」と表記されている。

  3. 「フィクション」という語の多義性と、本書を含めたいわゆるフィクション論が対象にする「フィクション」という語の用法についてはステッカー『分析美学入門』第7章や清塚『フィクションの哲学[改訂版]』序章なども参照。

  4. この各種アプローチに対するカテゴライズは清塚『フィクションの哲学[改訂版]』によるところが大きい。たぶんいきなり統語論的とか言われてもわからん(というか、『フィクションの哲学[改訂版]』が対象とする文学的なフィクション以外だとちょっとあてはまりづらい)と思うので、詳しくはそちらを参照。

  5. やや本筋から外れるが、語り手の偽装みたいなことをあれこれ考える必要がなく、「そのようにデザインされた」と考えればいいというのは見通しがよく、たとえば小説における不自然な語りみたいなのを考えやすいというのはありそうに感じる。一方、第9章ではそのあたり「語り」に着目していろいろ考察されてはいるようだ(が、未読)。

  6. Walton Fictionality and Imagination なんだけど、読んでいない!(また読みます)内容の紹介としては清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、Kendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめを参照。これらの紹介だけ読むと、本書の立場だけでも済ませられる事例も含まれてるんじゃないかという気もする。なお、ここから「いかに描かれるか」に着目した発展的な話題については、こちらも清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、あるいはシノハラ『物語の外の虚構へ』を参照。

  7. 森「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」の1.1項や高田「ストーリーはどのような存在者か」の2.3項にあるように、たしかにウォルトン非実在論の立場ではあるのだけど、後者でも見られるとおり、ざっくりと「メイクビリーブ説」として考えたときには中立的と考えられるような気もする。正直よくわからない……。

  8. これもシノハラ『物語の外の虚構へ』の受け売りなのだけど、たしかに描かれていることから直接メイクビリーブゲームを引き出すのではなく、間に描写の理論を挟むことである程度解消できるというのはあるっぽい(あんまりよくわかってない)。

  9. 準感情は感情ではない。したがって、「虚構的感情」といった感情の一種であるようなものではない。ではなにかというと、ある種の感覚や状態?であるというだけなのだが、ややこしいよな……この説明で合っているかもどうかあまり自信がない。