Disco Elysium: The Final Cut(またはロールプレイの諸相)

     権威: 5
    非常に高い
      97%

+1 キムに信頼されている。
+2 キムに完全に信頼されている。

これはレッド・スキルチェックだ。再挑戦はできない。

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「ロールプレイ」についてどうしても考えてしまうビデオゲームであったため、それについて現状の印象をまとめます。基本的に、Twitterに書いたことをそのまま引き写すだけの記事です。


まず、以降で想定している「ロールプレイ」というのは、おおむね次のような欲望にまつわるビデオゲームのプレイングを指します。

自分が構想したキャラクターが、そのときどきで与えられた状況にどう反応するかを考え、その通りに行動した結果、世界からどんな反応が返ってくるのかを体験したい!

けっこう普遍的な欲望と考えてはいるものの1、ほかのロールプレイ観を持っている方もきっとたくさんいらっしゃるでしょうから、それについては各々ブログを書いてほしいところです。ともあれ、ここではこの「ロールプレイ」観に基いたディスコエリジウムの特徴を、思い付く限りで挙げてみます。

  • 「自由度」について
    • シナリオを進めるための方法が豊富に用意されている一方、システムをエクスプロイトする(しているんじゃないかとプレイヤーが感じる)ような要素(たとえば、ダークソウルシリーズにおける「正攻法でない」攻略方法とか)はあまりない
    • 言い換えれば、「なんでもできる」わけではまったくない。この意味でもっと「なんでもできる」ビデオゲームはそれなりにある(たとえば、Divinity: Original Sinとかが思い浮かぶ)
    • 本作では、破天荒ではあってもあくまで「殺人事件を捜査する刑事」という設定からは逃れられないし、バディとしてのキムの抑止力(キムに嫌われたいなんて思うやつおるか?)もかなりはたらく
    • つまり、わりと「どうとでもなる」わりに、実はその幅はけっこう制限されていて、「自由度」については実はそんなに高くない。ただこれは一方で、たとえ記憶を失っているとしても逃れられないままならなさを感じられるという本作の美点と裏表でもある(この点でいえば、Red Dead Redemption 2とかのフィールは近いかもしれない)
    • なお、今回言っている意味での「ロールプレイ」性の度合いと「自由度」とは異なる軸であることには注意しておきたい
  • 設定とストーリーについて
    • 設定はあからさまに膨大であるし、魅力的でもある。本来シナリオブックなどで補完されるべきものがそのままぶつけられている。マキシマリスト小説的といえばその通り
    • そのように膨大であるからこそ、ロールプレイなんぞを重視していては、世界について得られる知識がずいぶん減ってしまう。ロールプレイというのは世界の切り取り方そのものですからね
    • 一方で、メインクエストはすごく素直なノワールもの。事件の真相にも進行にも大きなバリエーションはない(はず)。設定の膨大さはサブクエストや細かな選択肢のなかでの情報量に頼っている
    • 設定の膨大さ(とロールプレイによるその摂取欲の満たされなさ)はリプレイ欲を刺激する一方で、メインストーリーの素直さ、一本道さはその逆に作用している
  • スキルまわりについて
    • キャラクターの特性を数値として表現する(装備で上下したりする)ような「いかにもTRPGっぽい」要素は、ビデオゲームとしてもとくに珍しい特徴ではない(最近だとそれこそTRPG直系であるのCyberpunk 2077がありましたね)
    • また、そのうえで(同様にTRPGっぽいダイスロールによる)偶然性を用いて開発者の意図の露出をある程度退けるような要素もやはり珍しくはない。これは「思い通りのロールプレイ」を阻害するように見えるが、むしろ「世界」のほうを豊かにする方策として働いており(「プレイヤー独自のストーリーを体験できる」という売り文句はほぼこの意味で使われていると思っています)、結果としてあまり表面化しないものだと考えられる
    • ただし思考キャビネットはかなり変なシステムで、「ふとした思い付きを弄ぶうちに意図せぬ思考が内面化される」「特定の思考を身に付けた者としてふるまおうとするようになる」といったおもしろさがある一方で、身に付けるとどうなるのかが事前にほとんど分からないという点で「思い通りのロールプレイ」を阻害しつつ、プレイヤーキャラクター自身の混乱を表現するという形での効果を発揮している
    • 24のスキルの内声は、「こんなふうにビルドしたならこうなるよね」を表現しているという意味でロールプレイを助けてくれているようにも思える一方で、それぞれの声がそれぞれの性格要素に純粋すぎるせいで、「統一的な人格を持つキャラクター像」(素朴な人間理解から発するものに近い)から離れてしまいロールプレイを阻害しているようにも見える(思考キャビネットの際に言及した「混乱」とも関係するだろう)

もちろん(少なくともCRPGにおける)「ロールプレイ」において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく、といった流れは一般的なのですが、それでも「ロールプレイ」ができる/できないに一定の解を与えてストレスを感じさせないようにするのがふつうのビデオゲームであるところに、本作はむしろ積極的にコンフリクトを起こそうとしている点でやや特異ではないか、と感じました。

概念化・修辞学・平静・暗示「ってなんで俺くんが!? 読んでくれてありがとうございました!」

もう一周します

2022-09-17 追記

この「ロールプレイ」との摩擦から、(けっこうクリシェ的ではあれ)「投げ出された『世界』のなかで、型どおりに演じきることのできない自己を生き始める」みたいなテーマを見出すことはできるのかなという考えがちょっと馴染んできたので、忘れないようにここにメモっておきます。

敷衍するとたとえば、「文字と声と亡霊たちの天国――『ディスコ・エリジウム ザ・ファイナル・カット』について」の注8:

もしかしたらあらゆる”ロールプレイ”をしつつもどの”ロールプレイ”にもならないことがこのロールプレイングゲームの核心なのかもしれない

というのはもしかしてそういうことだったのかと、後付けで感じたこと。

あるいは「『ディスコ エリジウム』に選ばれなかった私」における以下のような不満:

主人公は世を儚み、妙に達観した冷笑家か、どこか調子っぱずれな極端な思想を持ちつつも、一貫していない活動家みたいになってしまう。それらは、かなり「薄っぺらいキャラ造形」であると感じられる。周りのキャラクターは、キツラギをはじめ、かなり魅力的で個性的であるのに、主人公自身には最初から最後まで、思い入れを感じることはできなかった。自分の意思で選択肢を選べているはずなのに。

も十分に理解できると感じたこと。

言い換えれば、「ほら、演じてみろよ」と誘導しておいて、いざやってみたら、「ほれみいでけへんやろ」と言い渡されるビデオゲームであるということ。


  1. ちなみにこれを最も素直な形で実現できるのってじつは小説などの創作のはずなんですが、そうは言っても「そのときどきで与えられた状況」とか「世界からの反応」をいちいつ作り込むのはめちゃくちゃめんどくさい。だからぼくたちはビデオゲームをプレイするんだと思います。